沈黙論 ~西洋の沈黙と東洋の沈黙は同じなのか~

ヨハネによる福音書は、次のように幕を開ける。

1-1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

1-2 この言は、初めに神と共にあった。

1-3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

(新共同訳)

この三節は、西洋思想がいかに言葉を重視しているかの証左として、屡々引き合いに出される。

聖書に強い影響を受け、その軍務時代では「福音書の男」と呼ばれていたというウィトゲンシュタインは、今日に連なる分析哲学の始祖の一人である。

彼の主著であり、哲学を学んだものならば誰もが名を知る、『論理哲学論考』は、その文体のみならずその思想も、先に引用したヨハネによる福音書に類似している。

即ち、

1 世界は成立していることがらの総体である。

1.1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。

(中略)

2.1 われわれは事実の像を作る。

2.11 像は、論理空間において、状況を、すなわち諸事態の成立・不成立を表す。

2.12 像は現実に対する模型である。

(中略)

3 事実の論理像が思考である。

(中略)

4 思考とは有意味な命題である。

4.001 命題の総体が言語である。

(野矢茂樹訳による。ただし、引用者がナンバリングを漢数字から英数字に改めた)

初見では難しく感じられるかもしれないが、ここで述べられていることは、些か乱暴に書いてしまえば、先に申した通り、ヨハネによる福音書の冒頭と同じなのである。

われわれは世界の事実を、像をつくって写し取る。この像というのは、つまりは思考のことである。たとえば、われわれが頭の中でモグラについて考えているとき、頭の中のモグラは、この世界に事実として存在しているモグラの写像である。そして、われわれの思考は言語によって行われる。

これが、上に引用した部分の大意である。

思考と言語が対応するという考え方は、ウィトゲンシュタイン以降、西洋哲学を支配してきた。現代の哲学の中でも大きな部分を占めている心の哲学においても、「心的表象は構文論的構造を持つ」というお題目は、頻繁に唱えられる。私はこのお題目にはじめて接したとき、強烈な違和感を覚えた。

このお題目の言わんとすることは、「心の中で思ったことは、すべて言語で表すことができる」ということである。

しかし、赤ん坊は言語を使って考えていない。動物も言語を使って考えてはいない。そう、私は思った。

この反論が不適切であることが、今の私にはわかる。赤ん坊はたしかに言語を使って考えてはいない。しかし、赤ん坊が感じている漠然とした感覚は、要するに大人の言語に直せば、「おなかが減った」ということなのである。つまり、実際に言語を使って考えているかどうかではなく、考えていることを言語の形をとって表すことができるかが問題なのである。

この一連の議論を経てなお、前述のお題目に対して反論することができよう。大人である私たちも、ときに言葉にならない感覚を覚えることがある。言葉にしようとすると、指の間から零れ落ちる砂のように失われてしまうもの。そういったものが、確かにあるように思われるのである。私の申し上げていることに共感される方ならば、西洋哲学がなぜこのよおうなお題目を信じているのか、首をひねられるに違いない。

西洋と東洋の哲学の比較を行うことは、日本の哲学研究者が陥りやすい失敗の一つだ、という警告を、我々は屡耳にする。しかしここでは、敢えて轍を踏むこととしたい。

五経の一つに数えられる『易経』の「繋辞伝」に、次のような記述がある。

子曰、書不盡言、言不盡意。然則聖人之意、其不可見乎。

(子曰く、書は言を尽くさず、言は意を尽くさず。然らば則ち聖人の意、其れ見るべからざるや。)

「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」は有名な文句なので、目にしたことのある方も多いだろう。手紙の結びに用いることもある。ここで、書は文字のことであり、言は言語のこと、意は心の中で思ったことである。中でも、「言は意を尽くさず」に注目したい。言葉は心の中で思ったことの全てを述べつくせないというのだから、これは西洋哲学の伝統とは真逆の発想である。そして、おそらくは、東洋人の多くの意に沿う思想でもあろう。

禅の「不立文字」も、これと同じ思想である。かつて禅寺をおとなったとき、ベテランと思しき参禅者の方から「哲学と禅は相性が悪い」ということを聞かされた。すなわち、言葉で表そうとしてはならぬ。ただ座れ。只管打坐、というわけである。

作家の井上ひさしは、このような東洋の伝統を踏まえ、次のように述べている。

ちかごろは西洋の学者や思想家も、東洋のこの言語無力説を容れて、たとえば「ことばに先立って存在する沈黙」に注目する傾向がみられる。

(『自家製 文章読本』)

井上は例としてケーラーやホール、ポランニーを挙げているが、これらの思想家の論が「ことばに先立って存在する沈黙」に当たるのかはここでは措く。

ここでは、井上にとっても、けっして「ちかごろ」の思想家とは言えないであろうウィトゲンシュタインに再度焦点を合わせたい。ちなみに、井上自身はウィトゲンシュタインについては一切論じていない。

『論理哲学論考』を読んだことのない人でも、この本を締めくくる一節には聞き覚えがあろう。

即ち、

7 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。

(野矢訳)

さて、ここでウィトゲンシュタインが、些か唐突に書き記した「沈黙」とは、果たして「ことばに先立って存在する沈黙」なのだろうか。それとも、ウィトゲンシュタインは無味乾燥に、言葉の不在に「沈黙」と名付けたのだろうか(サルトルが、「あなたの不在がある」と言ったような意味で)。

ウィトゲンシュタインがケーラーやホール、ポランニーらに比べると一世代も前の思想家であることを考えると、ウィトゲンシュタインの沈黙は、単なる言葉の不在であると解するのが当然のように思われる。

(註。ウィトゲンシュタインとポランニーは生年が二つしか違わないが、ウィトゲンシュタインが三十三歳の若さで『論考』を出版したのに対し、ポランニーは齢六十近くになってから化学者から哲学者へと転向しているため、活動時期は大きく異なっている。)

[続く]

(2013/3)