佐久間正英さんの思い出

2014年1月20日、インターネットを通じて佐久間正英さんの訃報に接した。

直接お目にかかったことはないが、ツイッターでも多く発言されていた佐久間さんと、二度ほどツイッター上でお話させていただいたことがある。

文章の前半では、その一度目の接触のときの個人的な思い出を記し、後半では私個人の思い出を離れて、佐久間さんについて私が存じ上げていることを記す。

最初に佐久間さんとツイッターでお話しさせていただいたのは、東北大地震の直後だった。

多くの被災者が出ていた。福島原発が事故によって停止したことで、電力も不足していた。

人々の心はとげとげしくなっており、お互いを攻撃する者も多かった。

ミュージシャンたちも、攻撃の槍玉にあげられていた。「こんなときに音楽など不謹慎だ」、「電力が不足しているのに、電気を使う楽器を演奏するなど言語道断だ」といった批判にさらされていたのだ。

ライブを中止した者もいた。アコースティック楽器のみを用いたアンプラグドライブを行う者もいた。逆に、こんなときこそ音楽が力になるのだ、と反論し、活動を継続する者もいた。

直接の被災者とはならなかった音楽関係者たちも、周囲からの批判にさらされて精神的にまいっていた。私も、当時組んでいたバンドでライブを計画していたが、周囲からの「不謹慎だ」という声にさらされ、抜ける形になってしまった。

そんな最中、かねてよりフォローしていた佐久間さんが、ツイッターで、ミュージシャンとしての震災との向き合い方について一連のツイートを投稿された。

私はそれに触発される形で、佐久間さんのツイートをリツイートし、私の考えを書き込んだ。

音楽が不謹慎だ、というのも、音楽は力になる、というのも違う。

音楽は、祈りのようなものだ。具体的に誰かの力になるわけではないけれど、私たちは祈る。祈るというのは、結局自分のためにやっているのかもしれない。それでも、私たちは祈る。音楽は、そのようなものだ。

そんな趣旨のことを書いたと思う。

すると佐久間さんが私のツイートを目に留めてリツイートしてくださった。

さらに私が、「子供のころから聴いていた佐久間さんにリツイートしていただけるなんて、すごく嬉しくてありがたい」というようなことを書き込むと、「こちらこそありがとう!」というような内容の@ツイートを飛ばしてくださった。

私自身、この時期は気持ちが沈んでいた時期でもあったが、佐久間さんとのこの短いやり取りで少なからず元気づけられたのだった。

かつて、あるプロベーシストの方とお話ししていたとき、その方が、「俺は佐久間派閥なんですよー」と仰ったことを覚えている。現代のポップミュージックを担う人材の多くを育てた方だったし、慕われてもいたのだと思う。

ギターやベース、さらにはレコーディングについてセミナーを行い、その模様をネットで配信するなど、後進の育成に熱心な方であった。著書である『直伝指導! 実力派プレイヤーへの指標』(リットーミュージック)からも、それは伺える。各パートについての細かな練習法や、バンド全体での練習法が詳細に書かれているだけではない。今後の音楽業界で食べていくことがいかに難しいかを語り、兼業することを勧めていることからも、いかに面倒見のいい方だったのかが伺われる。

このように、音楽で食べていけないことを後進に伝える一方で、そのような音楽業界の仕組みを変えようとする活動もされていた。音楽業界で食べていけなくなっている原因は、「原盤権」のシステムにあるのだと考え、自分でサーキュラートーンレコーズというレーベルを立ち上げ、新しいシステムの構築を試みられていた。

四人囃子のベーシスト、一人のプレイヤーとしてキャリアをスタートさせた佐久間さんは、やがてプロデューサーとなってバンド全体を眺められるようになった。佐久間さんは、「バンド」という形態にはこだわりつつも、最終的はさらに広い視点をもって、日本の音楽業界全体を眺められていたのだと思う。

追悼の言葉は、陳腐になるから書かないことにしよう。直接の面識もない私が述べるのは、おこがましくもあろう。

ただ、今の日本の音楽の景色は、佐久間さんなしには全く違ったものになっていたはずだ。

親指と人差し指でピックを挟み、少しだけ親指を後ろに、人差し指を前にずらす。

私はそっとピックを逆アングルに握って、その感触を確かめた。

[2014/1/21]