2020年6月8日に、高城修三が「月と太陽―日本書紀の女たち」を上梓した。これまでの高城の考え方をまとめ上げた一冊だ。日本古代についての疑念は、この一書でほぼ解き明かされたと言っていいだろう。
大和国家の成立初期のみならず、持統天皇あるいはそれ以降の、「ほぼ定立された」歴史域まで記述しているので、若干冗長の感は拭えない。せいぜい崇神天皇の即位くらいまでに留めて、その分内容的に深掘りした方が、面白みが増しただろう。しかし、日本の古代にあっては、資料の量が極めて限定されており、所謂「純粋歴史書」としては、書くのが難しいかもしれない。将来改めて、「戯作」として、既存資料に拘らず、自由に想像を展開することを期待する。
一方、均茶庵は、箸休め第7回「伊都国・奴国・早良国・末蘆国(福岡県)」として、紀行をアップロードした。その後、同一内容で、タイトルを箸休め番外編第1回「弥生時代最後の200年」と変えた。話の中心を、神武天皇の東征に置いた。
神武天皇が奈良盆地南部に小さな拠点を構えた後の歴史についても、この機会に、考えて置く必要があるのではないかと思った。上記高城の論をなぞる形で、想像を逞しくしながら、均茶庵の考え方をまとめてみた。自ずから、高城の考え方とは若干の差がある。それよりも、論の立て方、資料の読み方が、遙かに雑な点は、お許し頂きたい。均茶庵は、あくまでも素人だ。
210629 均茶庵
1. 神武天皇の奈良侵攻が、歴史上の最初の事件ではない。それまでに、沢山のグループが順次近畿・東海・大阪に侵攻を試みており、中には既に土豪として定着した集団もいた。
2.近畿圏と筑紫の交易は、縄文時代に遡る程古い。上記1.の事情は、筑紫に相当伝わっていた。
3.神武天皇の率いた集団は、基本的には筑紫の不良・食い潰れ連中だったと考えられる。筑紫出撃に当たっての資金をどのように調達したのか伝わっていない。神武天皇の一族がそれなりの有力者で有り、自己調達をした以外に、有力者が資金を提供した可能性もある。あるいは、不良集団の所払いを兼ねた捨て銭の提供を受けたのかもしれない。
4.神武天皇の岡山での苦境と傭兵的な形での生活費の工面、更には、大阪上陸時の大失敗、その後の傭兵的な活動などを考えると、「計画的」で「現地の状況」をしっかりとFeasibility Studyした上での侵略とは考えられない。どちらかと言うと、計画性に欠ける流民の行動に近い。
5.神武天皇の集団は、岡山や大阪や紀伊などの様々な在地勢力の利害・支援・摩擦を経て奈良に攻め込む。そして、奈良南部在地勢力の内部分裂を利用して、調略を中心とした作戦により、奈良南部に僅かな拠点を得る。在地土豪の内部での(相続)争いに介入する形だったので、それ程有力でない軍事力でも、一定程度の成果を上げることができた。
6.元々食い潰れの連中だったから、盆地南部のそれ程豊かではない地域に封地を得て「主」となっただけで、神武天皇の部下達は、大満足だった。食い潰れあるいは奴隷の出自が、曲がりなりにも一国一城の土地持ちになれた。一方、在地土豪勢力にとっては、地味の良くない所に居着いた、まだ「何と言うことのない」、あるいは、「どうでも良い」小勢力だった。
7.成功に酔った部下達をこのまま放っておくと、バラバラに動き始めて、神武天皇による支配・統制が取れなくなってしまう。このため、部下達の娘・親族を神武天皇の宮廷に献上させた。これは、部下達に取っても、自分の地位を安定化できるので、大歓迎だったろう。
8.同時に、神武天皇とその勢力は、在地の土豪と片っ端から婚姻関係を結んだ。在地土豪にとっても、筑紫との関係を持っている小勢力と関係を結ぶのは、決して悪い話ではなかったろう。かくして、女性の「子を産む力」を繋ぎとして、部下・在地土豪との姻戚関係を積極的に作り上げた。
9.その後、神武及び後継者の生んだ娘を、順次部下・在地土豪に逆に嫁がせることにより、この姻戚関係を一層強固にした。又、男子に部下・在地土豪の娘を娶った。次第に、奈良盆地南部に関係性を拡大していった。
10.軍事力ではなく、女性の「子を産む力」により、次第に各在地勢力の中心者になっていった。あたかも、欧州の冴えない田舎貴族だったハプスブルク家が、はっと気がついた時には欧州各王室と全て姻戚関係にあり、ハプスブルク家がいつの間にか各王室の相続権(王位継承権)を握ってしまったようなものだろう。
11.オットセイは、ボスの雄一頭が数百頭の牝を支配する。しかし、子供に伝わっているボス雄のDNA比率は、せいぜいで30~40%だと言う。牝は、密かに他集団から潜り込んできた雄と交尾をしている。
神武天皇の率いた集団の女が、神武天皇のDNAに忠実だったとはとても思えない。逆に、神武天皇にとっては、自分の後継者となる皇子を除いて、妃嬪の子が誰のDNAであるかは、殆ど問題にならない。「嫁がせて姻戚関係を構築する」のが、目的だからだ。中国の皇帝と異なり、オープンな朝廷を作った。(勿論、日中の慣習の違いもあるが。)
12.綏靖天皇→孝霊天皇まで、この姻戚拡大が続いた。天皇家は、絶倫なセックス・マシーンとして影響力を伸ばしていった。ユンケル黄帝液がない時代に、まあ、楽な仕事ではなかったろう。王家と権力維持のために、とにかく多数の女と回数をこなさなくてはならない。
13.孝霊天皇の治世に到り、卑弥呼を三輪の神(実体は、神官なのか、政治勢力上の有力者なのか分からない。近畿や尾張や大阪や紀伊の勢力の、聖的な統合者・神官なのかもしれない。)に嫁がせることによって、神・俗融合による統治体制が完成した。神武天皇の時代からこれだけ時間がかかったと言う事は、三輪の神は、最後まで天皇家の女を受け入れることに抵抗したのかもしれない。
14.しかし、システムの完成と同時に、この女の「子を産む力」による支配方式は自己矛盾に陥った。
つまり、卑弥呼が神の子を宿すことにより、孝霊天皇の系統が、天皇位を相続することの正統性に疑義が生じることになる。卑弥呼の子が、神の子として正統性を主張できる。古来、他所の男が女性の元に入り婿することにより、王朝は変わる。
15.このため、孝霊天皇は、聖・俗の協調を、自己の俗権力の下に統合しようとした。卑弥呼の相手の三輪の神を、絶大な力を持った恐ろしい大蛇ではなく、小函に入る「小さな蛇」と矮小化した。同時に、卑弥呼の生殖能力の消滅=子を産む力の消滅を図った。その象徴として、箸(当時は、ピンセットみたいなもの。)でおまんこを突いて、卑弥呼は突然退場する。箱を開けて、驚いてひっくり返ったのなら、絶対に尻の穴を刺す筈だ。自死でも事故死でもない。この突然の事件は、卑弥呼が孝霊天皇に対して受胎を告知したことを契機に起こったのかもしれない。
16.勿論、この時点では、孝霊天皇が三輪の神を滅ぼすだけの力を、未だ持っていない。
17.卑弥呼の死後、孝元天皇は、箸墓建造という大土木工事を直ちに行うことにより、卑弥呼の聖性の祀りと象徴化を行い、同時に、「神の子を産む力」の消滅を宣言した。そして、何よりも、卑弥呼の聖的な力の棚上げを行った。
18.しかし、孝霊天皇は、自己の俗権力至上を目的としていたため、各豪族との利害調整が上手く行かず、反孝霊天皇勢力の反乱を招いてしまった。最早、世俗権力の闘争を、「神」を媒介としたオブラートに包み込むこともできなくなっていた。
19.その後、どんな内容で手打ちをしたのかは分からないが、卑弥呼の後継者の創立(イト)がその一つだったろう。又、箸墓の建造継続も、卑弥呼の聖性の象徴化、及び各在地勢力を統合するための共同事業として、必要だったろう。
20.以降、孝元天皇・開化天皇の二代の間に、天皇家が三輪山を含む奈良全体を順次勢力圏に収めていった。奈良の有力な支配者となった天皇家は、尾張・大阪の在地勢力との同盟関係を、婚姻関係などを通じて、更に強化していったのではなかろうか。
21.二代の努力を経て、最終的に、崇神天皇が、女性の「子を産む」役割と「神」の役割を事実上分離して、聖性を俗性の下に押し込むことに成功した。かくして、「ハツクニシラスミコト」となった。
勿論、天皇のセックス・マシンとしての役割は、引き続き重要な役割を占めるが、これまでの重労働の度は、大いに軽減されただろう。
22.天皇家を支える経済力の基盤が何によったかは、検証が必要だ。しかし、農業生産による富みのみでは、ワンランク上の統治・権力をもたらすには限界がある。従って、東海との交易、瀬戸内海との交易、朝鮮半島・日本海などとの交易を通じて、富みを得ていたのではなかろうか。古来、直接生産によって得られる利益よりも、交易によって得られる利益の方が、遙かに大きかった。
210628 均茶庵