日本で歴史上モテまくった男と言ったら、光源氏と在原業平の右に出る人物はいないだろう。光源氏についての数値データを、残念ながら持ち合わせていないが、在原業平は生涯で3,733人の女性を相手にしたそうだ。源経信(1016-1097)が書いた『和歌知顕集』にある。均茶庵の実力では、どう逆立ちしても不可能な偉業だ。
これで羨まやしいと思っていたら、井原西鶴の『好色一代男』に、世之介と言う超人が出てくる。何と、一生に相手にした女性の数が3,742人で、加えて、男性の数は725人に上ると言う。江戸時代は、女性だけを堪能していたのでは、その道の達人とされなかった。男性の経験も積んで、初めて尊敬される好き者となった。二刀流は、宮本武蔵の専売ではなかった。 (もっと詳しく知りたい方は、末尾の注を参照してください。)
さて、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』は、江戸時代随一の滑稽本とされる。東京神田八丁堀を出発した弥次郎兵衛と喜多八が、京都五条に到るまでの各宿場町でのエピソードを書いた本だ。教科書的には、ここまでだ。一体、弥次さんと喜多さんはどんなお友達だったのだろうか。江戸時代のごく普通の習慣を、ほんの少しだけ紹介したい。
弥次さんの本名は、栃面屋弥次郎兵衛と言い、駿州府中(静岡市)で、親の代より相応の商人だった。しかし、衆道に溺れ、財産を擦ってしまった。衆道とは、若い男の子を相手とするオカマの道だ。女で身代を潰した、あるいは、女に騙されたという話は、今でもママ聞くが、男で身を潰したと文献で見たのは、均茶庵もこれが初めてだ。
弥次さんが注ぎ込んだ相手は、歌舞伎役者花水多羅四郎の弟子で陰間の鼻之助という。陰間は、オカマの男の子を指す。当時の歌舞伎座は、オカマの養成所兼販売所だった。財産を擦ってしまった弥次さんは、何と鼻之助と江戸八丁堀の長屋へ駆け落ちをする。均茶庵は、男同士の駆け落ちというのを、一九の名作で初めて知った。物語最初の『累解』に説明している。この鼻之助が、名を喜多八と改める。
いろんな事情があって、お伊勢参りの旅に出るわけだが、戸塚に着いた時に、旅の便宜上、弥次さんが父、喜多さんが息子と名分を決める。戸塚宿の名物は、「うどん豆腐」という事になっているが、実はもっと有名なものがあった。この宿には、大睾丸の乞食がいて、睾丸の上に置いた鉦を叩いて、往来の人からチップをいただいていた。宿が満員で宿泊を断られたた弥次さんが、歌っている。『とめざるは宿を疝気としられたり大きんたまの名のある戸塚に』ご参考までに、疝気とは睾丸が腫れて痛む病気の事だ。この歌は、乞食の故事を受けて、『泊めてくれないのは、宿をしないつもり(宿をせぬ気=疝気)。。。。。』とだじゃれている。こんな『滑稽談』が、五十三次ごとに続く。教科書には、書きにくいだろう。
喜多さんのご出身の陰間とは、もともと何だったのだろうか。平安時代の終わり頃に、鎌倉権五郎景政という武将がいた。鎌倉を建設した大英雄として崇められている。平安末に、八幡太郎義家に従い、16歳で後三年の役に出陣した。戦いで大活躍をしたものの、右目を矢で射られてしまった。三浦平太郎為次が、顔に足を懸けて矢を抜こうとすると、「武士の顔を草鞋で踏みつけるとは何事か。」と怒鳴りつけたという。
鎌倉七口の一つ極楽寺切り通しを星の井へ下ってゆく途中に、名物力餅家がある。この角を長谷寺の方に曲がって、江ノ電を越えると、鎌倉御霊神社がある。別名、鎌倉権五郎神社という。鎌倉の守り神になっている。
この景正(かげまさ)の名前から、陰間(かげま)という言葉が出た。何と、鎌倉権五郎は、八幡太郎のお稚児さんだったそうだ。麻生磯次先生が書いている。しかも、「めかけ」という言葉も権五郎に由来している。矢で片方の目が欠けたから、めかけだそうだ。その昔、めかけは男の事を指した、いつの間にか女性も指すようになり、遂には女性だけを指すようになった。時の移り変わりは、由来を不明にする。
Wikipediaには、「(東海道中膝栗毛は、)文学的な価値とともに、文才とともに絵心のあった作者による挿絵が多く挿入され、江戸時代の東海道旅行の実情を記録する、貴重な資料でもある。」とある。(Wikiは、凄く下手な文章だ。)それ以上の知識は、取りあえず伏せていた方が良いかもしれない。京の五条には、弥次さん喜多さんの大きな銅像が立っているが、一人、「うふふ。。。」としておけば、十分だろう。真っ当な人は、教科書以上の知識を持ってはいけない。
そう、クリスチャニズムが蔓延するまでは、大らかな日本だった。LGBTかBLMか忘れたが、旗とプラカードを持って、したり顔に大通りを練り歩くことも、まるで必要なかった。
凄く勉強になったでしょう! (190519 均茶庵)
江戸時代に、何カ所くらい男の娯楽宿があったのか、資料を調べて見たが、良く分からなかった。一方、2019年の警察庁生活安全局保安課の統計によると、届け出済のソープが、全国で1,214軒で、デリヘルが20,319軒あるそうだ。又、全国防犯協力連合会の資料によると、2016年の「店舗型性風俗特殊営業1号」が、1,215軒で、デリヘルが19,297軒あったそうだ。セブンイレブンの店舗数が20,904店だから、セブン並みにお店があるとイメージしたら良いだろうか。
その他、労働省婦人少年局婦人課の資料によると、1974年10月末の届け出済のトルコは、1,185軒あったそうだ。成美子によると、1977年にトルコは1,340軒を数えたそうだ。尚、トルコは、1984年に東京特殊浴場協会によって、ソープランドに名称変更している。これが、ざらっとした数字だろうか。「店舗型」の数は、時代による変化が、余り無かったようだ。尚、売春防止法は、1956年5月に成立している。
江戸時代は、現代に比べて多かったのか、少なかったのか。 (200711 均茶庵)
左端の椅子は、どうしてこんな形か知ってるかな。
「デリヘル呼んだら君が来た」
ナナホシ管弦楽団
注)画像は、Webからダウンロードした。Mossburker には、下記から戻れます。
注)
外国の例について質問があったので、追記した。残念ながら、「相手の数」ではなく、「子供の数」の記録しか見当たらなかった。 201218 追記
世界で一番子供を作った男性は、モロッコ皇帝ムーレイ・イスマイール(1727~1792)で、合計1,171人。この内、888人は間違いなく皇帝の子だと言われており、ギネスの正式記録となっている。(皇帝は男だから、本当に本人の子供かどうか、確認のしようがない。)幼児時代を除き、又、老年になると精子が衰えてしまうので、この期間を除外して考えると、32年間毎日0.83~1.43回性交をした場合、この人数を生む可能性があると推計されている。
女性で最大子供を産んだのは、ロシアのヒョードル・ワシリコフの妻で、1725~1765年の間に27回出産し、合計69人を生んだ。双子が16組、三つ子が7組、四つ子が4組いた。多産児のギネス記録も持っている。こちらは、女性のため、確定の数字となっている。
尚、成吉思汗は、1,000人以上の子供がおり、そのY染色体の流れを汲んだ人の数は、現在1,600万人に上ると言われているが、詳細は不明だ。
日本では徳川11代将軍家斉(1773~1841)が、側室24人・お手つき20人以上から、合計53人を生んだと記録されている。女性の記録は、双子3組を含んで、合計17人との事だ。