高皇産霊尊タカムスビノミコトが瓊瓊杵尊ニニギノミコトを天降りさせたのは、筑前
天孫 瓊瓊杵尊が天降りした場所は、日向の国高千穂の峰(宮崎県)とされている。ここには、少々怪しげな遺跡と祭りも沢山ある。しかし、記紀によると、宮崎県に『日向』という名前を付けたのは、第12代景行天皇(316~334)だとしている。又、景行天皇の時から、初めて日向の妃を朝廷に入れている。天孫降臨の時代よりも、遥かに後だ。
天孫は、筑紫の伊都国高祖山タカスサン(福岡県筑前前原市)に降臨した。記紀には、『筑紫の日向』とある。高祖山~久士布流多気クシフルタケ(高千穂では、槵觸)の南側には、伊都国(筑前前原市)から奴国(福岡市~春日市)に通じる、日向峠がある。弥生時代終末期の伊都国の女王墓 平原遺跡からは、春分の日に日向峠に昇る太陽が見える。
複雑な天降り神話も、元々は最高神 高皇産霊尊の命令による瓊瓊杵尊の降臨という、単純な話だった。
従って、彦五瀬命ヒコイツセと磐余彦命イワレヒコ(別名、彦火火出見命ヒコホホデミ。後の神武天皇)が東征に出発したのは、宮崎ではなく、福岡という事になる。
尚、天孫降臨と言うのは、当初(天照大神と) 高皇産霊尊が、息子である天忍穂耳命アマノオシホミミに天降りを命ずるが、命は、「下界は物騒だ。」と途中で戻って来てしまう。再度命令されると、「息子が生まれたから。」と、未だ襁褓の中の瓊瓊杵尊を、代わりに降臨させる。だから、降臨したのは、孫であって子ではない。父のわざとしては如何なものかと思うが、神様の世界は、さてどうなのだろう。『天孫降臨』という名の芋焼酎があるが、赤ちゃんが瓶をぶら下げて高天原からやってきたのだろうか。
伊弉諾尊イザナギ・伊弉冉尊イザナミ
記紀にも、歴史上も、この両神を宮中で奉仕した事実はない。本来淡路島の漁業民の地場神として祭られていたらしい。九州には、両神を祭った古い記録はない。古事記編纂あるいは何等かの時点で、海人のこれまでの協力と功績を映して、皇祖として登場した。
天照大神
元々宮中で祭られていた神ではなく、伊勢地方の太陽神だった。記紀には、崇神天皇6年(258年)に、豊鍬入姫命トヨスキイリヒメとともに宮中から大和笠縫邑に移され、更に、垂仁天皇時代に、倭姫命ヤマトヒメが各地を放浪しながら奉仕し、25年(303年)に伊勢に祭ったとある。皇室で本格的に祭ったのは、奈良時代(~平安時代)の遅い時期と見られる。北九州には、天照大神を祭った古い記録はない。
素戔嗚尊スサノオ
ジキルとハイドのような二重性格を特徴とする素戔嗚命は、本来は、紀伊の須佐の地方神(荒魂)が由来で、後に出雲東部を経由して西伝し、出雲西部の大已貴オオナムチ(和魂)と合体したと考えられる。出雲の巫覡の活動により、出雲教が7-8cに全国に拡散した。その結果、出雲に生まれて、日本全国に広がったと、全く逆に捉えられるようになった。北九州には、素戔嗚尊を祭った古い記録はない。
神武東征
彦五瀬命と磐余彦命(後の神武天皇)が初めて東征を行ったわけではなく、既に饒速日命ニギハヤヒが、大軍団を率いて、河内の哮峰タケルガミネに天降っていた。奴国出身の物部氏の先祖とされる。物部氏による倭朝廷の実質的な支配は、AD587年用明天皇の崩御に際して、蘇我馬子が物部守屋及び宗家を滅ぼすまで続いた。
尚、紀伊半島を回り、熊野の山中を越えて奈良盆地に侵入するルートは、長髄彦に敗残の上、熊野灘で難破した兵が取れるコースではなく、現実離れしている。磐余彦命の軍は、紀ノ川を遡って奈良盆地に至ったと考える。
卑弥呼
奈良県箸墓に葬られている、第7代孝霊天皇の娘 倭迹迹日百襲媛命ヤマトトトヒモモソに他ならない。吉備を征服した吉備津彦命キビツヒコは、弟にあたる。孝霊天皇の時代に、霊感能力の高い娘を巫王として奉る事により、倭を各部族の結集点とすることができた。巫女王と俗世界の男王の二重権力構造は、第8代孝元天皇にも引き継がれた。倭迹迹日百襲媛命は、奈良平野南東部の神山 三輪山の大物主と聖婚の伝承を持つ。
高天原 (Rev.181003)
元々は、遥か遠い天空あるいは海の彼方の国をイメージしていた。しかし、朝鮮半島から弥生人が北九州に移って来ると、北九州の高千穂(高い山の意味)が、天降りの地となり、南部朝鮮が高天原と意識されるようになった。南部朝鮮には、高皇産霊尊の物理的な跡は見つかっていない。
弥生人が大和に移ると、今度は、天降りの神話の場所が畿内に移動した。河内に侵入した饒速日命は、河内の哮峰タケルガミネに天降りした。つまり、北九州が高天原になった。一方、磐余彦命は、『人』として海路を旅してきたため、奈良盆地に天降りの地は無く、筑紫がそのまま天降りの地だった。
時が遷るに従い、高天原は天降りがあった山や丘に、比較的近い天空と認識されるようになった。決して仏国浄土のように、十万億土の彼方にあるわけではない。更に、漠然と遠い高天原よりも、神が天降った身近な山や丘の方が、より重要視されるようになった。
景行天皇時代(316~334)に九州南部が倭国の支配下に入ると、日向との利権関係も出来上がり、妃が次々と嫁いでくる。妃達にとっては、神の天降る地は、決して筑紫の日向ではなく、高千穂の峰々が連なる遥かな日向だった。倭国の後宮で、「天孫降臨の地と高天原」を主張するようになった。更に、薩摩が倭国の領域となり、隼人が朝廷に仕えるようになると、天降る地と高天原は、霧島の活火山帯にある高千穂山にまで、南進する。
出雲・吉備・安芸
吉備地方は、独特の特殊器台・特殊壺の文化を持っており、弥生時代後期後半2c初~3c中から、独自の勢力圏を作っていた。記紀によれば、第7代孝霊天皇は、二男の吉備津彦キビツヒコを吉備に派遣して、統治させたという。比較的早い時期に、倭国の影響下に入り、前方後円墳を採用した。
一方、安芸の祖 安芸津彦命アキツヒコは、彦五瀬命と磐余彦命が安芸の多祁理宮タケリノミヤに寄港した際に、出迎えたとされている。しかし、考古学的には、王国と呼ばれるような遺跡は、見つかっていない。倭国による安芸の支配は、吉備占領とほぼ同時期に行われたかと思われる。
出雲と倭国は長らく緊張状態が続いていた。記紀に依れば、天穂日命アメノホヒが天から下った際に持って来た神宝を、崇神天皇60年(286年)に、倭国に捧げて投降したとされる。出雲は、丹波、安芸、吉備からの、倭国の包囲網に屈したという事だろう。何れも、時期的には奈良盆地に倭国政権が成立してからの話となる。
推定人口
1996年に鬼頭宏が行った、西暦200年頃の全日本の人口は、500~700千としている。内、近畿100(畿内30、近畿周辺70)、東海54、九州106(北九州41、南九州65)、東山85、南関東60 その他95~295。別の推定では、西暦0年頃の全日本の人口は、300~500千としている。
春秋年と太陽年 Rev. 181004
現在では、1年=365日が使用されているが、日本では、554年に元嘉暦が伝わるまで、現在の1年を2年と数えていた。春秋年と呼ぶ。太陽が真東から出て真西に沈む春分・秋分を年の基準としていた。年の初めには、豊作を祈る祭りと豊作を感謝する祭りが行われた。参考までに、中国では南北を重んじるが、日本では古来日の出・日の入りの東西を尊んだ。
神武天皇の諱
神武天皇には、磐余彦命・彦火火出見命・狭野命など、沢山の諱がある。均茶庵は、即位前については、磐余彦命を使用し、即位後は神武天皇と呼ぶ。尚、磐余は『大和の地名である磐余』説ではなく、『磐生れイワレ=岩から生まれた(神)』の意味と理解する。又、磐余彦命の諱は、その意味から解釈すると、東征出発時点の第四皇子の名前とは到底考えられず、大王即位後の名前と推定する。元々は、狭野命だった可能性が大きいだろう。
彦五瀬命ヒコイツセと磐余彦命イワレヒコは、高嶋宮に8年間(太陽暦では5年)留まった。椎根津彦シイネツヒコが合流した事により、一気に河内の白肩津へ攻め込む。