本件は、箸休め第5回の添付資料です。本文に戻るには、下記をクリックして下さい。
あこがれのグアテマラに到着した。ここは、マヤ文明の初期から中期にかけて、大繁栄した地だ。米国のマイアミからわずか2時間ちょっと。[米国駐在]に決まった時から、Tikal(グアテマラ)とCopan(ホンジュラス)の遺跡には必ず行くんだと念じていたが、終に実現した。日本から地球を半周してここまでやってくる事を考えると、実に近い。これで、[米国東部のR市]に住んでいる間に行きたい場所は、ペルーのChabin, Chimu, Paracasのプレインカ遺跡と、アルゼンチン~チリ国境のアンデス山脈の2ケ所を残すだけとなった。
マヤ文明は、どうしてもメキシコに栄えた文明の亜流のような感じがする。中国と日本あるいは、中国と朝鮮といったような関係だ。後者がいくら独自性を強調しても、大局的に見れば、「亜」という事実は変えられない。
BC9,000年頃にメキシコ中部のTehuacan渓谷で始まったTeosinte(とうもろこしの原種)農耕が、やがてカリブ沿岸のVilla HermosaのOlmecaに花咲く。そして、BC100年頃に、人口5万人が住んだというTeotihuacanの大ピラミッドに発展する。その後、Teotihuacan周辺からのがれて来た人々の力によって、メキシコ寄りのグアテマラの地に、Kaminaljuyuの都市国家が生まれる。DC250年頃には、グアテマラ中部のTikalやUaxactunが栄えた。メキシコ中部からの文明の流れは、更にホンジュラスのCopanにまで達した。Copanの初代王Sol Resplandeciente Quetzal Guacamayo (輝く太陽のケツァル・グアカマヨ=鳥の名)は、KaminaljuyuからCopanに流れてきて即位した伝説を持っている。その後、AD850頃までには南部マヤが消滅し、カンクン観光で有名なユカタン半島のChichen Itza, Uxmal, Coba, Mayapanなどに中心が移ってゆく。
1980年代末に初めて見たTeotihuacanのピラミッドに魅せられてから、90年代半ばにOlmeca, Tula, Chichen Itzaのメキシコの遺跡を訪れた。今回は、Tikal, Uaxactun, QuiliguaそしてCopanを見た。興亡の順番は異なるものの、マヤ・アステカのしめくくりとして、グアテマラツアーは、ここに来たというだけでも大感激だ。
首都Guatamala Cityのレストランで食べる料理は、どう控えめに評価しても、メキシコ風だ。とうもろこしの粉で作ったトルティジャを多く食べる。にわとりの調理法も似ている。スープ類が多いのが、いくらか独特の感じがするだけだ。いかにもメキシコ文化の支配地域という感じがする。
そのメキシコは、米国の属国に近い存在だ。スペイン語を話していなければ、一層そう感じるだろう。メキシコ人出稼ぎ労働者の数は、[NC州都R市]の人口の5%を占めるに至っているし、南西部の繊維産業地帯では、実に15%とも言われている。米国の前にあっては、メキシコはまるで子供だ。しかし、メキシコの支配下にあるように見えるグアテマラは、中米北部の強国だ。
グアテマラの女の子は、こじんまりして、実にかわいい。しかも、インディオとスペイン人の混血が中心で、黒人の血は、カリブ海沿岸を除いて、まったく入っていない。国花のOrquidia Blanca(白蘭)のような、薫り高い美人が多い。しかも、この国は、公娼制をとっている。Regalizadaといって、公的機関に職業登録をし、2ケ月ごとに医療診断を受ければ、合法的に営業できる。町の中では、el Mujeriego(すけべ)といった堂々とした名前のバーや、ひと目見たら、「これは間違いなし。」という匂いのする建物を、あちらこちらで見かける。[均茶庵]も、勿論、[米国東部のR市]出発前に心の準備と体の用意をした。病よけ一式は、年齢と7泊6日の旅を考慮して、6個で十分と判断した。
Guatemalaでは、7人のスペイン人と同じツアーバスに乗り合わせることになった。夫婦3組に、おばあちゃん一人、そこに、日本人が一人混じるという、ちょっと異様な組み合わせだ。車窓から見えるあの看板を指し、ガイドがにやにやしながら早速説明した。「[均茶庵。]よかったね。いっぱいあるよ。」こちらも負けずに、「みんな可哀想にね。毎晩同じ相手だ。」おばあちゃんだけがむすっとしている。そして、ガイドが自慢げにこう付け足す。「ここで働いているのは、ほとんどがホンジュラス、エル・サルバドル、ベリセそして遠くニカラグアからやってきた出稼ぎの女の子です。グアテマラ人は、一割に満ちません。」いかにもグアテマラが豊かな国という事を強調している。確かにその通りだ。周辺の国々から見れば、きらめくような豊かさだ。しかし、スペイン人や日本人から見れば、驚くほど貧しい。
ガイドは、自分がLadino(ラディノ)だと誇りをもってくりかえす。そして、何かにつけてIndigeno(インディヘノ=インディオ)を見下す。南米では、白人とインディオの混血をMestizo(メスチソ)とよぶが、中米ではもっぱらLadinoと言い習わしている。しかし、Ladinoの中には、Mestizoだけではなく、植民地生まれの白人(Criole)もいるし、アジア人との混血もいるし、極端な場合にはインディオそのものもいる。インディオとラディノの違いは、ラディノがスペイン語を母国語とし、欧米風の服を着て、パンを食べ、カトリックを信仰して、都会に住んでいる点にあるようだ。これに対して、インディオは、マヤ由来の言葉とスペイン語を両方話し、マヤ風の派手な色彩を好み、とうもろこしを食べ、古来の信仰とカトリックの混合したような宗教を持ち、農村に住んでいる。服装は、米国からの古着がどっさりと入ってくるため、今では麦わら帽子を被っているかいないかくらいの違いになってしまった。それも、野球帽に取って代わられようとしている。新品同様の古着のズボンは、一本数ドルで買える。インディオながらラディノの真似をしており、未だラディノに成りきっていない人を、Indigena Ladinizadaとも呼ぶ。
Ladinoとその他を区別する言葉は多い。Lacandonは、Peten地区に住むスペインに服従しなかったインディオだし、西インド諸島に奴隷としてやってきて、今ではスペイン語を話す黒人と、ベリセからやって来た英語を話す黒人、白人と黒人の混血、ラディノとの混血、インディオとの混血などなど、いろいろと区別する。それが現実味を持って生きているところに、深いおそろしさがある。
スペイン人たちは、いつも陽気だ。出発時間は、間違いなく30分遅れる。初日には、おばあちゃんが、「荷物を忘れた。」といって、バスがはるかGuatemala Cityを離れてしまってから、小一時間もかけて、大渋滞のラッシュの中をホテルへ戻った。何のため眠気眼で朝6時にホテルを出発したのか、わけがわからなくなる。但し、不思議なことに、誰も文句のひとつも言わない。いらいらしていたのは、日本人くらいなものだ。そのくせ、約束した夕食の時間に10分ほど遅れて僕が顔を出すと、「[均茶庵]、遅い。時間は守れ。」という。ガイドもこの辺は十分承知しており、必ずサバをよんで出発時間を設定する。
Tikal遺跡に行く途中で、バスのエンジンが故障した。車の外は、40度Cはある。みんな木陰に集まり、ああじゃないこうじゃないと話をはじめた。ガイドは、通りかかったオートバイを停めて、いずこかに消えてしまった。警察官が、ヘルメットなしで、そのかわり防弾チョッキを着て、二人乗りのバイクで通りかかった。「どうしたんだ。」とバスの運転手に聞く。「こわれちまった。」警官は、マフラーを引っ張ったり、ナンバープレートを曲げたり、一応格好だけをして、30分ほどで立ち去った。スペイン人たちは、相も変わらずおしゃべりを続け、きゃっきゃと騒いでいる。ここでも、「一体どうなるのかな。」と内心心配していたのは、日本人だけだった。1時間過ぎた頃、どこからか替わりのバスが現れた。
スペイン人の米国人に対する敵愾心は強い。「イラクで一緒だったじゃないか。」と水を向けても、それは大例外のようだ。グアテマラの最初の朝バスに乗った時、同行者がどうもみんな欧州系のような感じがしたので、あえて「Gringoはいないのか。」と大声で聞いた。Gringoとは、Yanki(ジャンキと発音する)と同じように、米国人を思い切り馬鹿にした言葉だ。ガイドが、「安心しろ。今日は、Norte Americano(北米人。Americanoはもっぱら自分たちラテンを指す。彼らの〔アメリカ〕意識の中には、米国は含まれていない。)はいないよ。」と返事をする。バスの中には、いっせいに「Grin Go! (米国人は出て行け。)」と合唱のような声が響く。
Rio DulceのCatamaran Hotelに泊まったときは、プールサイドの東側にスペイン人が塊り、西側とバーに宿泊の米国人が集まった。自然に二つの集団ができた。スペイン人は盛んに、「Que fea.なんとひどい。あのデブ女。」と米国人の悪口を言っている。僕がビールを注文しにカウンターに行くと、米人は大声で5~6人の仲間と話しをしていた。「何だあいつら。四六時中ベチャクチャしゃべりまくっている。」カウンターにお腹をめり込ませながら、グラスをあおっていた。スペイン人たちのテーブルに戻ってから、「米国人が悪口を言っていた。」とうかつにも口を滑らせてしまった。たちまちスペイン人たちから、「なにを言っていた。何だ。」と詰め寄られた。これはしまった。仕方なしに、「米国の田舎英語で訛っていたため、何を言っているのかわからない。」とごまかした。スペイン人の間では、これを話題にまたまたおしゃべりが始まった。米国人とスペイン人は、お互いに自分たちの言葉、それぞれスペイン語と英語しか解しない。彼らにとって、日本人は次第に不思議な存在になってきた。
元々インディオの絶滅は、スペイン人の米州侵略がきっかけだ。この話題にだけは触れないようにした。ホテルに勤めている、あるいは街中であう、あるいは、観光案内をしているラディノにも、幾分のスペインの血が流れている。マヤとスペイン、両方とも、彼らの抜けがたい故郷だ。中には、スペイン人の血が流れていることを、ひそかに誇りにしている人もいる。彼らと米国人との関係、あるいはスペイン人との関係は、血の強さでも異なる。一見不思議だが、いずこでも征服された民族は、よほどの例外を除き、そんな物事の捉え方をする。
グループの中の年かさの一夫婦は、いつもポケットの中にあめと小銭を持っている。インディオの子供を見つけると、踊れという。あるいは、歌えという。そして、ビデオをとる。勿論、ご褒美としてあめを渡す。特別な芸を披露した子供には、ケツァル(US$1=Q7.5)コインを1~2個渡す。[均茶庵]には、とても耐えられないスナップだが、征服者たるスペイン人には、至極当たり前のことのようだ。
小学校に入る頃、朝鮮戦争で米軍が盛んにジープで移動した。そして、子供たちの集団の前を通るときには、必ず車の上からチューインガムをばらまいた。未だうっすらと覚えている。わずか50年前のことだ。グアテマラのアドベ作りの家は、貧しくも汚くも見える。しかし、日本の田舎、あるいは、敗戦後満州から入植した那須野が原開拓地には、この家にも及ばないような住居が並んでいた。わずか50年前の話だ。川治温泉のさらに奥に行くと、電気も来ておらず、子供たちは裸足であるいていた。だから、スペイン人のこんな姿を見ると、表現しようも無いほどつらい。この感情は、僕より5つくらい下の年代になると、きっと想像もつかないだろう。
グアテマラでも朝鮮半島人は大いに嫌がられている。Livingstonで、「あなたは中国人ですか、朝鮮人ですか。」と聞かれた。日本人にとっては不快感のする質問だが、彼らにはそんなことは皆目わかるはずがない。「日本人だ。」と答えると、相手はほっとした表情をする。「このあたりに朝鮮人が経営する繊維工場がたくさんあるんです。」僕がコメントする。「給料を払わずに、夜逃げするんでしょう。」「どうして知っているんだ。」という顔をする。
半島系の経営者は、たこ部屋か牢獄のような工場を作り、殴るようにしてグアテマラ人を働かせる。それでも、多少の金が欲しくて、みんな我慢する。しばらくたつと、経営者の姿を見かけなくなる。どこかに消えてしまったのだ。勿論、今までの給料は未払いとなる。そして、すぐに別の半島系の経営者がやってくる。「俺がこの工場買った。前のことはしらない。」未払いの給料を払うはずがない。そして、今までと全く同じように経営を続ける。勿論、最初からしくんでいた話だ。これが、彼らの常道だ。
このごろは、半島人の習性が有名になってしまったため、日本人を騙る人間も増えてきた。グアテマラ人には、日本人も朝鮮人も区別がつかない。給料未払いの夜逃げを受けてから、「あれは朝鮮人だったのか。」と悟る次第だ。地の果てでは、正直日本人ブランドがしっかりと役立っている。
スペイン人は、底なしに愉快だ。そして、いっしょにやって行くには多少のコツがあるものの、一人混ざった日本人を、すんなりと仲間に入れてくれた。おかげで、ものすごく楽しい旅をすることができた。中身がないのにやたら傲慢な米国人や、いつも周りとの緊張感を抱えている日本人のツアーでは、こうは行かないだろう。それでも少し困ったことがあった。
昼飯が遅い。毎日2時か3時が昼食時となる。お腹が空いてたまらない。そして、食事はまず2時間は続く。食べるものが大してあるわけではなく、日本人であれば15分もあればお釣りが来る。小瓶一本のビールをちびりちびりと飲みながら、延々とおしゃべりが続く。ビールをいつも二本のむのは、日本人だけだ。
当然のことながら、夜も遅い。晩飯が始まるのは、9時過ぎだ。僕がいつも一番に眠くなり、早々に失礼する。リゾートホテルは、街の明かりから離れているし、この時間に繰り出してゆくわけにも行かない。昼間見たEl Mujeriegoの看板を志しても、物理的にどうしようもない。従って、残念ながら、Made in Japanの高級品一式は、手付かずで持ち帰りということになった。
終に最後の日が来た。みんなをホテルで下ろして、[均茶庵]だけが空港に向かうことになった。一番先におばあちゃんがバスを下りる。これが、このツアーの習慣になっている。そして、次の若奥様とお別れのBeso (キス)をする。両ほほにbesoをするのが習慣だ。次々と3婦人とbesoを交わした。そうしたら、おばあちゃんがバスのステップを登ってきた。「私は、未だしていない。」いいよいいよ遠慮するよと思っても、おばあちゃんはよっこいしょと上がってくる。最後に一段おおきな「チュッ。」という音がした。二回。「あんた若いね。本当に55歳かい。」余計なお世話だ。グアテマラで日にやけて肌が痛んだとはいえ、スペイン人に比べれば、僕の方がまだまだ柔らかい。
一週間が駆け抜けるように過ぎた。旅の帰りは、たとえいくら楽しかったことが続いたとしても、何となく寂しいものだ。雲の間に見え隠れするグアテマラの町を見ながら思った。「終わってしまったな。」
2003年9月12日
(追記)
1990年代半ばに、インカ遺跡が残っているペルーのクスコ、山の上のマチュピチュ、チチカカ湖畔の太陽の島、そして、チリ北部のインカ植民地を訪ねた。ボリビアにあるプレインカのティワナク遺跡にも、4WDで片道数時間ゆられて見に行った。勿論、メキシコのツーラやユカタン半島、オルメカなどにも行っている。後は、米国駐在任期の残り2年内に、プレインカのパラカス、チムー、チャビンの各遺跡に何とか行ってみたいと思っている。いずれも、ペルーの辺地で、いささか治安が悪いのが気にかかるが、あとこれだけ覗いておけば、天国でグラスを傾けながら、きれいなお姉さんたちに「南米の話」を存分にできるだろう。多分、メキシコから南米までこれだけの遺跡を見て歩いた日本人は、それほどいないのではないかと思う。
古代文明の遺跡と言っても、翻って考えてみれば、1,000年後の霞が関を掘り起こして、その礎石の銘文を一生懸命解読しているようなものに過ぎない。こう思うと、実に面白くない感があるが、1,000年後のことはとりあえず置いておこう。
ところで、南米の各地の遺跡には、なぜか「ちんぽこ」型を見かけない。アジア系の栽培農耕民であれば、繁栄と豊穣の象徴として必ず信仰するシンボルだ。中南米の文明は、いわゆるアジア系の植物栽培農耕ではなく、狩猟・牧畜系の色が濃い農耕だったのだろうか。こちらの系統は、もっぱら生贄によって再生の祭りを行う。
2003年9月12日
2018年2月19日 [ ]内改訂