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三つ子の魂


【7. 箸休め番外編】の目次へ

均茶庵には、主体性がない。あるいは、環境にもの凄く影響される。改めて考えると、そんな思いがしみじみとする。これではいけないと反省しても、一時間後には元に戻っている。今では、諦めの気持ちだ。だから、出来るだけ主張を控えている(積もりだ。)

北畠親房・顕家 父子

北一輝

政治的に影響を受けやすい青春時代は、この傾向が人一倍強かった。高校生の頃までは、一体どこで影響を受けたのか、ガリガリの右翼だった。死に物狂いで、北畠親房の「神皇正統記」や「太平記」などを読みふけった。『大日本は、神国なり。』などと書いてあると、もうそれだけで目を赤くした。どこから調達したのか、北一輝の「日本改造法案大綱」「国体論及び純正社会主義」や血盟団の井上日召の「梅の実」は、愛読書の筆頭だった。きっと、もの凄く珍しい若者だったに違いない。

井陉关

红军士兵

そんな高校時代の終わりの頃は、毎晩北京放送を聞くのが、日課になっていた。「東風は西風を圧倒する 东风压倒西风」「帝国主義とすべての反動派は張り子の虎である 一切帝国主义皆是纸老虎」とか、林彪副主席が板垣師団を井陉关(「せいけいかん」と読んでいた。合っているのかな。漢音でJingxingguan)で殲滅した「人民戦争の勝利万歳 人民战争胜利万岁」等を一生懸命に読んだ。北京放送局から、パンフを沢山送ってもらった。

マルクス

エンゲルス

レーニン

無事大学の工学部に合格すると、当然のことながら、マルクス・エンゲルス・レーニンの世界に、まっしぐらに入っていった。

こう言う偉い人の肖像を見た時に、衝撃を受けた。思想内容ではない。みんな凄いヒゲをはやしている。カレーライスやスパゲッティをいただく時に不便だろうなと思った。ご飯のたびに、顔を洗うのかなとか想像してみた。毛沢東や朱徳や賀竜などの中共幹部だけは異なり、ヒゲをはやしていなかった。均茶庵は、ヒゲが生えない。

その後は、「毛選(けせん・もうせん)」つまり言わずと知れた「毛沢東選集」だ。全巻を中国語で読んだ。こんな馬鹿は、日本人でももの凄く限られていると思う。内容は、殆ど忘れてしまった。この時代は、無駄な時間をすごしたと考えるか、あるいは、それなりに価値があったと評価すべきか、今考えても難しい。

コロナと熱中症警告で自宅引き籠もりが続く中、この頃はもっぱら読書に時間をすごしている。当然、内容は大きく変わった。もう、上記した本には、近づきもしない。20年位前からは、金庸とその後継者黄易の武侠小説にのめり込んだ。二人が亡くなった今は、酒徒の「隋乱」や萧鼎のWeb版「诛仙」を楽しんでいる。均茶庵の勝手な評価ながら、萧鼎は現役の最高の武侠小説家と言って良いだろう。一方、杨伯峻(1909~1992)の「論語訳注」は、今でも愛読書の一つだ。嘗て「毛選」を読んだ語学の残滓は、まだ役に立っているようだ。

さて、長くなってしまったが、本題に入ろう。高校時代の超右翼の生活の色は、未だに色濃く残っている。何と、歴代の天皇のお名前を、84代順徳天皇まで諳んじることが出来る。「神武―綏靖-安寧―懿徳―孝昭―孝安―孝霊―孝元―開化・・・」と言った具合だ。それ以降は、持明院統と大覚寺統に分れてしまい、ちょっと複雑なので、覚えていない。順徳天皇は、承久の変の後の1221年に、逆賊北条義時によって佐渡へ配流となった。後鳥羽上皇は隠岐島、土御門天皇は土佐→阿波に配流されている。『三つ子の魂、百・・・』とは、実に恐ろしいものだ。しっかりと内部メモリーに残っている。

近世・現代の天皇の御名は、「桃園(116代)―後桜町(最後の女帝)―後桃園―光格―仁孝―孝明―明治―大正―昭和―平成―今上(126代)」のみ覚えている。

尚、後桃園天皇(118代)の次に光格天皇(119代)が継がれているが、光格天皇の「お爺ちゃん」直仁親王は、5代前の東山天皇(113代)から別れている。つまり、後桃園天皇は、光格天皇の七親等にあたる。東山天皇は、光格天皇の「ひいお爺ちゃん」に当たる。

日本の歴史教育は、一般的に西暦で行われている。そのため、大学受験のために、平安遷都は、『泣くよ 794年』とか、源頼朝開府は、『いい国 1192年』とか、実に不毛な暗記がもてはやされている。欧州の歴史を中心に添えて、それに日本史を合わせるには便利だろうが、野蛮人の闊歩していた時代の欧州と先進地域東アジアの歴史比較は、殆ど意味を持たない。そもそも、欧州の歴史が、欧米人以外に意味を持つようになるのは、産業革命以降のごく最近の話だ。日本と東アジアの歴史は、『○○天皇の御代』で考えた方が、遙かに理解できる。さてはともあれ、均茶庵の頭の中には、『これこれの事件は、○○天皇の御代、従って、中国の△△王朝・皇帝の時代』と刷り込まれている。欧州は、全く出てこない。

神武天皇と前方後円墳

ところが、いつのまにかもの凄く不便な事が起こっていた。崇神天皇陵は「山辺道勾岡上陵(天理市)」、応神天皇は「誉田御廟山古墳(羽曳野市)」、仁徳天皇陵は「百舌鳥耳原中陵(堺市)」などなど、名前が変わってしまった。元々古代の天皇陵は、明治時代に比定されたものであり、学問的に果たして正しいのかどうか確定できていない。従って、地名で呼ぶのが、学問的には正しいのだろうが、このアプローチは、西暦で日本史・東アジア史を解釈しようとしているのと、まるで一緒だ。科学至上を称する学者は、時として燃料切れの人工衛星のように軌道から外れてゆく。まあ、世の中に順応し易い均茶庵としては、自分独自の考え方を、取りあえずは主張しない。

均茶庵は、蒲生君平の『山陵志』を持って、学生時代に陵を訪ね回った。京都に住んでいたから、交通の便も良かった。陵は、今のように素晴らしく整備されておらず、場所を探すのも難しい事があった。陵の名前の変化と共に、時の流れを感じる。しかも、今や「世界遺産」の名前の下に、お金(欲しい)様が、恥ずかしげもなく正義ぶって、陵の観光化に走り回っている。オリンピック利権に見倣ったのだろうか。地方公務員は、黒ん坊のご接待に忙しい。陵を発掘するのが学問上の正義だと、ひたすら主張する先生方もいる。別によその人のお金儲けや論文書きにケチをつける積もりはないが、超右翼だった頃の思いが、未だお尻の穴近くにこびりついている均茶庵としては、いささかの抵抗を覚える。

蒲生君平 像

そして、上に述べた皇室の歴史、特に江戸末期~明治の例を見ると、万世一系あるいは直系という思想には、結果として、殆ど拘っていない。眦を決して、口角泡を飛ばすような議論は、この点については、存在しなかった。その時その時の現実に合わせて、もの凄く便宜的だった。しかし、Y染色体の男系天皇継承の原則だけは、全く変えていない。

126代まで続いている天皇家の継承理念では、Y染色体の相続でなければ王朝が変わってしまい、今の天皇家ではなくなる事になる。45本のX染色体(女は46本)は、男女双方に引き継がれるので、交差などの変異を繰り返し、遺伝子には最早遠い時代の皇祖皇宗の跡形もない。しかし、Y染色体は男性にしか引き継がれないので、基本的に遺伝子は保存されている。『そういう理念』に基づいて皇位が継承されているという事であり、この考え方が科学的なのかどうかとは別の問題だ。(嘗ては、Y染色体は交差による乗り換えが起こず、変化しないと考えられていた。)

SRY: Sex-determining Region Y

つまり、女性天皇は問題ないが、女系天皇は本質的な意味が異なる。というより、そもそも日本に女系天皇なんて、歴史上存在しなかった。もしかすると崇神天皇第10代・仲哀天皇14代&神功皇后(武内宿禰→応神天皇第15代)・継体天皇第26代の三代には、王朝交替があったかも知れないが、はっきりとは検証できない。その後、現在の皇統は、継体天皇から絶えることなく続いている。しかし、そもそも皇統がどうのと言った議論は、皇室と時の権力者が行う話であって、均茶庵には元より参加する資格がない。『その位に在らざれば、その政を謀らず。』

神功皇后 (歌川国芳画)

今は昔、・・・・

元超右翼、そしてちょい左翼、そしてノンポリ中道、そしてやや右翼と変遷を重ねてきた成れの果て均茶庵は、友達よりも長生きして令和時代を楽しんでいる。今や絶滅危惧種に近い生活環を過ごした。まあ、プロ野球では、右翼の糸井と左翼の陽川が時々ポジションの交替するから、アマチュアの均茶庵であれば、一生の間にこの程度のブレが起こるのは誤差の範囲内だろうかなんて、考えたりもする。

阪神タイガース

左翼 陽川尚将


右翼 糸井嘉男

時は移り、そんな均茶庵は、政治にはまるで興味を持っていない。銭湯の談議にも、参加しない。ナイーブな心はいつしか消えたが、その分主体性のなさと優柔不断は、最大の個性として、しっかりと保っている。そして、「三つ子の魂」も、何故かしつこく残っている。

え~と、何を言いたかったんだっけ。そうだ、「三つ子の魂」の成れの果ての物語だ。当然のように、均茶庵は未だ時の流れに飲みこまれて、ふらふらとこの世を漂っている。

まあ、均茶庵は、孫の世代までY染色体を伝えたから、もうお役目終了だね。

神武東征に興味のある方は、「箸休め 第7回」もどうぞ。    200811均茶庵


どうきょうは座ると膝が三つでき

河野太郎大臣が、「女系天皇」を認める発言をしている。如何なものだろうか。この考え方は、弓削道鏡の子を天皇にしようとする話と、全く同じ意味だ。つまり、皇統を改める事になる。嘗ての権力者藤原氏にせよ、平氏にせよ、徳川氏にせよ、女性を天皇に嫁がせる事はあったが、男子が女帝に嫁いで、その皇子を天皇にしようとする試みは、日本の歴史上存在しなかった。河野大臣の主張は、道鏡の欲望と軌を一にしている。

外国暮らしが長かったためだろうか、クリスチャニズムに色濃く染まってしまっているようだ。父の歩んだ道を省みず、自らも無造作に践んで行こうという蛮勇には、いささか失望させられた。こんな時にだけ、「三年父の道に改むる無きを、孝というべし。」に拘らなくても良いだろう。魯迅でさえ、孔子のこの言葉は「曲説」だと言っている。後日の歴史書に、道鏡と並んで河野太郎の名前が残る事を、密かに案じる。

但し、繰り返すが、均茶庵は、時の権力者ではないので、本件について発言をする立場にはない。均茶庵は、河野大臣の選挙区内(神奈川県第15区)に住んでいるので、これからは票を入れないことが、精一杯の密かな意思表示になるだろうか。

Rev. 200824 均茶庵

補足)歴代の女性天皇は、10人おられる(内、一人は重祚。)独身者は、44元正天皇、46孝謙天皇、48称徳天皇(孝謙天皇の重祚)、109明正天皇、117後桜町天皇の5人おられる。夫君が天皇だった女性天皇は、33推古天皇、35皇極天皇、37斉明天皇、41持統天皇の4人おられる。そして、43元明天皇は、夫君が草壁皇子で、天武天皇と持統天皇の皇子であり、又、皇太子だったが、即位前に薨去された。   201123 均茶庵

注)均茶庵が自分で撮ったデジカメ写真よりも、はるかに立派できれいな写真が、Webを飾っている。そこで、思い切って自分の写真を最小限とし、Webの芸術からお借りした。

問題あるようでしたら、ご一報下さい。削除します。

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