天孫降臨から崇神天皇 弥生時代最後の200年
伊都国・奴国・早良国・末盧国(福岡県) 夢の中の物語
作成:181001 箸休め第7回添付 トップページへ戻る。
奴国の衰退
奴国王 帥升は、傍目にもがっかりしながら、107年に後漢に派遣した使節の報告を聞いている。「生口を160人も献上したのに、駄目だったか。」倭王の叙任を得られなかったのだ。「(後漢の)安帝は、仰せられました。『倭国のほんの一部の奴国とその周辺しか支配していないじゃないか。東方には、国が沢山あるそうじゃないか。』」帥升は、東方進出の決意を固めた。
奴国の王は、帥升の想いを受け継いだ。北九州の状況は、次第に流動的になっていた。嘗ての朝鮮半島の窓口 末盧国は、次第に振るわなくなっていた。宇木汲田遺跡ウキクンデンが栄えたのは、弥生時代中期中葉だった。中期前葉~後期の吉武高木遺跡に代表される早良国は、既に奴国の支配下に入っていた。しかし、その奴国も、半島との貿易の窓口が、次第に伊都国に移って行ったため、繁栄に翳りがみられるようになっていた。奴国には中期~後期初の須玖岡本遺跡スグオカモトがある。伊都国には中期の三雲南小路遺跡ミクモミナミショウジ及び終末期の平原遺跡ヒラバルがある。
これが、商業国家の運命だ。物流ルートが変われば、あっという間に栄枯盛衰が逆転する。農業立国・産業立国とは、基本的に性格が異なる。奴国は、九州を離れて、東方に発展を求めなければならなくなっていた。
奴国の東征
終に、饒速日命ニギハヤヒを司令官に、東征軍を派遣する日が来た。帥升の無念から、もう10年も経ってしまった。高天原の主催神 高皇産霊尊タカムスビの名の下に、天香山命アメノカグヤマや天道根命アメノミチネ等32人の防衛フサギモリと共に、天物部アマツモノノベの5造・部を率いた大軍だ。奴国の全力を挙げての東征事業だ。そして、饒速日命は、河内の哮峰タケルガミネに天降り、且つ戦い、且つ調略しながら、今の関西の要地に勢力を広げて行った。
饒速日命は、国神の長髄彦ナガスネヒコの妹 登美依須媛トミイスヒメ(三炊媛ミカシキヤヒメ)を妃に娶り、河内の支配権を得た。同時に、各武将も、例えば、天香山命は東海を調略して狗奴国を建て、天三道根命は紀の国を支配するなど、各地に分散して行った。織田信長が武将を西国各地に派遣して、日本統一を急速に進めて行った姿を彷彿とさせる。西暦120~130年の事だ。この時期は、第三段階高地性集落(弥生時代V期前半。1c中~2c前半)に当たる。
伊都国の彦五瀬命ヒコイツセと磐余彦命イワレ
ある日、伊都国に住む四兄弟の長男の彦五瀬命と3人の弟達が集った。次男の稲飯命イナイ、三男の三毛入野命ミケイリノ、そして、後に神武天皇となる四男の磐余彦命(又の名は、彦火火出見命ヒコホホデミ、及び、狭野命サノ)だ。伊都国は、高皇産霊尊が、天火明命アメノホアカリの兄である瓊瓊杵尊ニニギノミコトを天降りさせた、高祖山タカスの麓にある。日本書紀によれば、塩土老翁シオツチノオジが彦火火出見命(磐余彦命)に、「東に美き地あり、青山よもに周れり。」と東征を勧めたと言う。既に、饒速日命の東征の話は伝わっていた。磐余彦命は、兄弟に強く東征を提案する。「美味しそうな場所が東にある。隣の饒速日命は、上手くやっているらしい。俺たちも行ってみよう。」今を盛りの伊都国を謳歌する二兄・三兄は、この提案に消極的だったが、終に彦五瀬命を司令官として、東征する事に同意した。西暦130~140年の頃だ。
彦五瀬命の東征軍は、饒速日命の東征軍と比べられないほど小じんまりとした部隊だった。四人の家族と久米氏の祖先及びその部下大伴氏の祖先の他には、記録に残る有力な将軍がいない。神武天皇が磯城で根拠地を得たのちの論功行賞でも、伊都国出身者の名前は、殆ど見当たらない。想像するに、当初の全戦闘員は100人に満たなかっただろう。
東征軍の出発
河内の浪速の渡りに至るまで、東征軍は、安芸の多祁理宮タケリノミヤに7年(春秋年。太陽年は、4年)留まり、更に、吉備の高嶋宮に8年(同。太陽年は、5年)も留まる。東征軍の途中の休息にしては、余りにも長い年月だ。(書紀では、合計3年。太陽年は、2年)想像するに、安芸・吉備の国神の支援を得られず、或いは、何とか得るために、長期間の滞在を余儀なくされたのだろう。兵糧にも苦労したと思える。記紀には、殆ど記事がない。饒速日命の東征軍は、海上輸送のために、海人と密接な連携があったと思われる。国の事業であり、兵站もしっかりしていた。一方、彦五瀬命軍の場合には、海人とは、単なる商業上の海上輸送契約に過ぎなかったのでなかろうか。資金が切れた所で、その先の航海を断られたのかもしれない。
しかし、吉備の速吸門ハヤスイノトで、終に支援者を得た。その後の案内・海上輸送・兵站を担当する椎根津彦シイネツヒコが、東征軍に参加した。そして、やっと河内の白肩津にたどり着く事ができた。
河内での初戦の大敗
彦五瀬命の軍は、河内の状況の偵察や作戦計画が、まるでできていなかったようだ。先ずは、信貴山の南龍田越えから、大和盆地に侵入しようとする。しかし、山地が険しいため、通り抜ける事ができなかった。このため、生駒山へ迂回して、生駒越えから大和盆地に侵入しようとした。ここは、長髄彦と同盟する饒速日命の本貫の地だ。待ち構えた軍と孔舎衛坂クサエサカで衝突すると、鎧袖一触大敗してしまう。急いで退却し、草香津で殲滅戦に備える。しかし、敵軍は追撃してこなかった。つまり、彦五瀬命の軍は、防衛側からしたら、海賊の襲撃程度の評価しか受けてなかった。追い返せばそれで良しとの程度だったのだろう。
東征軍の転進と磐余彦命の実権掌握
更に、南方の竈山カマヤマに逃げるものの、彦五瀬命は戦死してしまう。長髄彦の矢に当ったとあるが、実際に戦ったのは、饒速日命の軍だろう。長髄彦は、大和平野を根拠地とする。後に、倭朝廷で饒速日命の子孫の物部氏が力を持つため、表現を仮託した可能性がある。それに、神武天皇の兄を斃したのが物部氏であると、史書に書くわけにはゆかなかっただろう。
司令官を失った軍は、直ぐに乱れた。東征を提案して、彦五瀬命とともに作戦を進めて来た磐余彦命に、最早退却の選択はない。組織の整風が始まった。東征開始時点から消極的だった兄稲飯命は、真っ先に粛清された。記紀には、剣を抜いて海へ入ったと伝える。又、三毛入野命は、逃亡したのだろう。記紀には、波頭を踏み常世に行ったとある。
この時点で、新たに東征軍の総帥となった磐余彦命は、紅軍の毛沢東と言った所だろうか。殆ど匪賊と変わらない軍を率いていた。しかし、整風を終えた軍は、員数は減ったとはいえ、意識だけは統一されただろう。例えていえば、遵義会議後の紅軍のようなものだったろうか。
磐余彦命は、食料や資材確保のため、名草戸畔ナクサトベの女王を急襲して、殺害した。紅軍が、階級闘争と称して、少しでも資産を持っている人間を見つければ、片っ端から襲ったのと同じだろう。孔舎衛坂の大敗北の後であり、小さくても根拠地を確保できるのであれば、本来、名草を占領して留まった筈だ。それをやらなかったか、やれなかったのは、流寇化していたか、あるいは紀の国の支配者 天道根命の傭兵となって働いたと考えざるをえない。名草戸畔の殺害後、天道根命は名草の地を得ている。東征軍は、これでやっと一息つく事ができた。磐余彦命は、更に南下して、紀ノ川に至る。
奈良盆地への侵攻
紀伊の国を支配しているのは、饒速日命の将軍である天道根命だ。記紀によれば、磐余彦命は、天道根命の甥にあたる。双方ともに、高皇産霊尊を崇めている。東征軍が匪賊化しているとは言え、無碍に扱う訳には行かなかったのかもしれない。しかし、自分の支配地に長居して欲しくないだろう。
紀ノ川の上流は、奈良盆地に続く。盆地の西側の葛城には、赤銅八十梟帥ヤソタケルと呼ばれる強力な土着の部族が割拠している。ここへ磐余彦命を送り込んで戦わせれば、天道根命にとっては、東征軍が勝つにしろ負けるにしろ、一石二鳥だろう。こうして、配下の高倉下タカクラジを兵糧の補給と道案内に当らせた。この高倉下は、記紀における重要な役割にも拘わらず、神武天皇の根拠地設立後、特段の論功行賞に預かっていない。実際の役割を伺わせる。
磐余彦命は、葛城への直進を避け、大きく宇陀に迂回した。当地の豪族磯城氏は、当初奈良盆地北部を本拠とした長髄彦の同盟下に入っていた。しかし、同族の兄磯城エシキと弟磯城オトシキの間に対立があり、弟磯城は磐余彦命に寝返ってしまった。そして、兄磯城は、東征軍の武将 久米氏に討たれることになる。名前に兄・弟がついているものの、必ずしも血を分けた兄弟とは限らない。
兄磯城は、宇陀が本貫の地だから、何があっても侵略軍に降伏するわけにはゆかなかった。一方、弟磯城の本拠地は、大和平野南部の中央にあったようだ。この後、和平を装った宴会の席で、東征軍の久米氏が土着の部族を急襲して、大量に殺戮した。こんな手配は、磯城に基盤を置く弟磯城の協力がなければ不可能だろう。こうして、奈良平野の南部を磐余彦命が制圧し、根拠地とすることができた。弟磯城も、磯城の地を確保した。
長髄彦の死と根拠地の確保
この状況を見て、饒速日命はすぐに動いた。決戦のため南下の勢いを見せていた長髄彦を、饒速日命の子であり、長髄彦の甥でもある宇摩志麻遅命ウマシマジが殺害してしまう。恐らく、この機会に、宇摩志麻遅命は長髄彦の支配下にあった奈良平野北部を勢力下に納めたのだろう。この一連の戦争が終結した結果、第三段階高地性集落(弥生時代V期前半。1c中~2c前半)の時代が終わった。又、饒速日命~宇摩志麻遅命の子孫である物部氏の優勢も形作られた。
饒速日命は、磐余彦命の一世代上となる。第三段階高地性集落の終了の時期とも併せ考えると、彦五瀬命・磐余彦命の東征が完了したのは、西暦140~150年と考えれば良いのではなかろうか。中国紅軍と同様に、殆ど幸運とも思えるような勝利への道筋だった。往々にして、歴史とは、傍目から見て優勢な方が、必ず勝つとは限らないようだ。又、高貴な出だけが、政権を取れるわけでもない。中国の皇帝も、漢の劉邦、明の朱元璋と、流寇出身者は、枚挙に暇ない。日本では、豊臣秀吉の名を上げれば十分だろうか。
神武天皇の即位
即位した神武天皇の論功行賞は、ごくささやかな物だった。手に入れた領土は、まだ小さな根拠地に過ぎない。弟磯城に磯城の本貫を安堵し、天道根命に紀伊の本貫を安堵したのが、最大の賞だろうか。但し、名目的だ。久米・大伴・椎根津彦が、それに次ぐ。神武天皇の東征にあたり、熊野で功績をあげた数々の臣下は、何故か行賞に預かっていない。熊野経由の東征神話に実態がなかったからだ。
それでも、栄光ある伊都国の中で、決して一流ではなかった人たちが、或いは、もしかすると三流に過ぎなかった人たちが、侵攻した土地で、僅かでも領地と地位を得たという事は、十分満足する出来事だったのだろう。東征は、一段落する。
神武天皇は、伊都国での妃 吾平津媛アヒラツヒメとは、早くに別れていたと思われる。古代においては、男が妻の所に通わなくなった時が、別れの日だ。東征には、子の手研耳命タギシミミのみを連れて来た。そして、即位後は、事代主の姫 媛蹈鞴五十鈴媛ヒメタタライスズヒメを皇后とする。皇后は、三輪山神の姫であり、同時に、磯城の流れもくんでいるとも言う。いずれにせよ、神武天皇は、婚姻の面でも奈良盆地南部に足場を固めたことになる。
神武天皇の後継者
神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛の間には、神八井耳命カンヤイミミと後の綏靖天皇となる弟の神渟名川耳命カンヌナカワミミの二人が生まれる。手研耳命とこの二人の皇子の年齢は、皇子達が、神武天皇の磯城制圧後に生まれた事から、20歳以上は離れていたと見られる。手研耳命は、東征に北九州からずっと参加したことと、大きな年齢差から、自分こそ後継者に相応しいと考えた。しかし、北九州の前妃の子であるため、奈良の磯城・三輪とは全く血の繋がりが無い。このままでは倭の有力者の支援を得られない。一方、神八井耳命と神渟名川耳命は、磯城及び大物主神の直系である。手研耳命は、二人の暗殺を謀る。同時に、大王の継承者としての正統性を主張するため、神武天皇の死後、神武天皇の皇后の媛蹈鞴五十鈴媛を妃とした。しかし、即位の儀式中に、神渟名川耳命に射殺されてしまった。第二代大王の位は神渟名川耳命が継いで、綏靖天皇となった。世にいう『欠史八代』が始まる。
第3代安寧天皇、第4代懿徳天皇及び第5代孝昭天皇は、即位期間の長さや即位時・死亡時の推定年齢及び皇后との関係から推測すると、記紀の記述とは異なり、父子(世)ではなく、兄弟(代)と考えられる。
神武天皇の崩御後、『後継者として選ばれた者』を父子関係に仮託した可能性もある。しかし、手研耳命が大王位の継承を謀る際、庶出であるために、神武天皇の皇后を自分の皇后とする事により正統性を獲得した事、嫡出の二皇子の暗殺を謀った事などから、神武天皇の非血縁者が継承した可能性は低いだろう。血統の重要性は、厳然として存在したと考えられる。この3代は、寧ろ、兄弟間の継承と考えた方が、自然だろう。
皇后は、いずれも磯城氏から入っている。第6代孝安天皇に至り、初めて皇后 押媛オシヒメを大王家から入れている。第7代の孝霊天皇も、安寧天皇の曽孫 蠅伊呂泥ハイロネを皇后としている。各天皇の治世の間に、大王家は磯城氏及び三輪山神を祭る部族との関係を強くし、王家としての基盤を強化したものと思われる。同時に、王家の独自権力を拡大するため、両部族の影響力の低下も、同時に図ったものと思われる。但し、基盤を強化したと言っても、大王家は未だ奈良平野南部における弱小勢力に過ぎなかった。
卑弥呼の時代
この第2代から第8代孝元天皇の間が、倭国大乱の時期にあたる。中国の史書では、後漢の桓帝(146-168)と霊帝(168-189)の治世の間とする。そして、卑弥呼が巫王に就く事により、大乱が終息したという。近畿・中国・四国・九州全般に亘り第四段階高地性集落が建設されたのは、弥生時代V期後半の2c後半~3c初頭にあたる。
この卑弥呼こそ、孝霊天皇の娘 倭迹迹日百襲媛命ヤマトトヒモモソに他ならない。吉備を征服した吉備津彦命キビツヒコは、弟にあたる。孝霊天皇の権力への欲望は、霊感能力の高い娘を巫王と奉る事により、政治面での影響力を高めた。小国ながらも、奈良盆地の各勢力の権力闘争の中で、恰も調停者としての役割を得た。あるいは、自民党の総裁が、必ずしも最大派閥から選ばれない、時には、小派閥から選ばれる事を思い起こせば、納得できるだろうか。倭迹迹日百襲媛命が、南部の政治的・霊的大勢力の三輪山の神である大物主と聖婚の伝承を持つ事は、見逃せない。孝霊天皇の時代に、倭大王は、磯城の地方権力から三輪山の権威と結びついた神・俗の権威へと成長した。
卑弥呼は、247年に魏に使節を送っている事から、非常に長命だったと思われる。巫王卑弥呼の時代に、大王は孝霊天皇から第8代孝元天皇に変わっただろう。孝元天皇は、神と俗の二重権力を統一しようとしたのだろう。その結果、卑弥呼存命の時から続いていた東海の狗奴国王 卑弥弓呼との争いに加えて、奈良盆地内の権力闘争も起こった。この戦いは、孝元天皇の娘で倭迹迹日百襲媛命の唯一の宗女である倭迹迹媛命ヤマトトトヒメを、13歳(春秋年。太陽年は7歳)で巫女王 台与イヨとして、卑弥呼の役割を継承させることにより、やっと解決した。再び以前の二重権力体制に戻った。同時に、孝元天皇の皇后に饒速日命系の欝色謎命ウツシコメを迎え、和解を図っている。神俗の権力の統一が図られるのは、256年の第10代崇神天皇の即位を待たなければならない。
新王統
記紀では、孝元天皇の長男は大彦であり、次男が第9代開化天皇とされている。本来なら、大王位は英雄の誉れ高い大彦が継ぐ訳だが、一体どんな事情があって、大彦が即位できず、次男の開化天皇が継いだのだろうか。記紀に説明はない。しかも、開化天皇は、父 孝元天皇の妃である 伊香色謎命イカガシコメを皇后に迎えている。
古事記によると、孝元天皇の宝算は57歳(春秋年。太陽年は、29歳)であり、開化天皇は63歳(同、太陽年は、32歳)としている。つまり、孝元天皇が崩御した時には、その子である大彦は、10歳に満たない子供に過ぎなかった。大乱の直後に大王位を継承する事が、果たして可能だろうか。更に、大彦が父の妃 伊賀色謎イカガシコメを皇后に迎えることは、年齢的にまず不可能だろう。妃は饒速日命の子孫にあたる。
こうなると、記紀の記述と異なって、開化天皇は、実は孝元天皇の弟だったとしか考えようがない。他に大王位継承の資格を持ち、適齢な皇子はいない。孝霊天皇の他の妃の皇子達は、後に全て臣下の祖先となっている。
開化天皇の皇子第10代崇神天皇は、本来大王位を継承した筈の大彦の姫で、従妹にあたる御間城媛ミマキを皇后とし、大王位継承の正当化を図っている。何故か大彦の妃の名前は伝わっていない。尚、孝元天皇の后 埴安媛ハニヤスヒメの皇子である武埴安彦タケハニヤスヒコは、河内隼人系と言われる妃 吾田媛アタヒメとともに、崇神天皇10年に反乱を起こし、大彦に誅殺されている。崇神天皇は、王権を完全に掌握した。
開化天皇をもって、『欠史八代』が終わり、新しい王統が始まる。しかし、天皇の背後では、引き続き饒速日命系の物部氏が、大きな影響力を持ち続けた。
神武天皇の宝算 Rev. 181004
神武天皇の年代に関しては、後年の作為が非常に多いとされる。敢えて、スペキュレーションしてみると、記紀の崩御の年齢127歳(太陽暦では、63歳)は、ほぼ正しいのではなかろうか。
以下、満年齢。太陽年を使用。
[筑紫出撃] 29~37歳 皇子 手研耳命を同行した。赤ん坊を連れて遠征に出発するとも思えないので、皇子が10~15歳と仮定する。又、神武天皇が19~22歳の時生まれたと仮定する。尚、記紀では、45歳(春秋年。太陽年では、22歳)の時に出撃とする。皇子の年齢を考えると、これは若すぎる。
[河内上陸] 37~46歳 古事記では、筑紫の岡田の宮に1年停泊(書紀では、崗の水門に2ケ月とするが、これは日向から出撃した事を前提としているので、削除。)安芸多祁理宮に7年(太陽年では4年)、吉備高嶋宮に8年(太陽年では5年)滞在した。航海日数は、魏志倭人伝でも奴国~邪馬台国が水行30日程度だから、無視できる。日向出撃から河内上陸まで、合計8~9年程度を要している。但し、日本書紀では、安芸と吉備の滞在をそれぞれ2ケ月・3年、合計3年2ケ月としている。(太陽年では、2年)その場合には、31~39歳となる。
[磯城の根拠地成立] 39~49歳 紀ノ川ルートの場合、大した戦闘がないので、磯城の根拠地を得て、媛蹈鞴五十鈴媛を妃とし(後に皇后)、樫原に即位するまで、2~3年と推定する。
[崩御] 59~71歳 手研耳命の即位儀礼中に、神渟名川耳命カムヌナカワミミ(後の、綏靖天皇)が射殺する。神渟名川耳命が18~20歳の時と仮定すると、兄 彦八井命ヒコヤイは、2歳程度年上のため、20~22歳と推定する。記紀では、神武天皇の宝算を127歳(太陽暦では、63歳)とする。日本書紀の安芸滞在3年説を取ると、53~64歳の崩御となる。
瓊瓊杵命の降臨 Rev. 181005
夢は、どんどん膨らみ、現実からどんどん離れて行く。
記紀によると、彦忍穂耳命の代理として、瓊瓊杵命が襁褓の赤子の時に筑紫の日向に降臨した。そして、木花開耶媛コノハナサクヤとの間に生まれたのが、火遠理命ホオリ=海幸彦だ。所が、火遠理命の別名は、彦火火出見命と言う。これは、神武天皇の諱と同じだ。火遠理命と海の支配者 大綿津見神オオワタツミの娘 豊玉媛トヨタマの子の鵜葺草葺不合命ウガヤフキアエズは、豊玉媛の妹 玉依媛タマヨリを娶って、五瀬命・磐余彦命(彦火火出見命)を生む。どうも、鵜葺草葺不合命は、一代おまけではなかろうか。本来、瓊瓊杵命の直接の子が五瀬命・磐余彦命(彦火火出見命)であり、後に海人族の説話が付け加わったのではなかろうか。
西暦130~140に磐余彦命が筑紫を30~40歳で出撃したと仮定する。瓊瓊杵命が、四男の磐余彦命を25~30歳で生んだとすると、筑紫の日向に天降ったのは、西暦60~90年頃となる。奴国王が、後漢光武帝から57年に漢倭奴国王に封ぜられ、金印紫綬を受けた。その後に、瓊瓊杵命が伊都国に天降ったことになる。奴国とは、別系統の部族だ。
天降りした人たちが、農耕民と考えてはいけない。彼らは、農耕民の暮らしている中に、侵略者あるいは戦乱からの逃亡者、良くて商業民としてやって来た人達だ。世界のどの古代史を見ても、『神の与え賜う土地』にやって来た人達は、定着農耕生活をしていた人達ではない。農耕民は、余程の事情がない限り簡単に移動できない。運べない資産を持っている。
尚、磐余彦命が瓊瓊杵命と血の繋がりを持っている必要性は、必ずしもない。世代的な話だけだ。父の代に、半島から筑紫に渡って来たということだけだ。磐余彦命が大和盆地に拠点を構えて、神武天皇となった後に、自分の直系の父として借りて来た可能性もある。
尚、持統天皇忖度説は取らない。この説では、天武天皇=高皇産霊尊、持統天皇=天照大神、草壁皇子=彦忍穂耳命、文武天皇=瓊瓊杵尊を考えるが、わざわざ事を複雑に考える必要はない。元々は、神武天皇の父の世代が、海を渡ってやって来たと言う、単純な話だろう。
彦忍穂耳命の降臨 Rev. 181010
神話と歴史のはざまを埋めたのは、ドイツのシュリーマンだ。日本には、石像構造物が殆どないから、遺跡は朽ち果てて後世に残らない。だから、シュリーマンのような荒業は、難しいかもしれない。しかし、スペキュレーションだけは自由にできる。
彦忍穂耳命の代理として天降った瓊瓊杵命は、襁褓の中にいる第一皇子だった。この時、父の彦忍穂耳命は、19~23歳という所だろうか。数年前(2~5年前)に、高皇産霊尊の命令を受けて天降ったものの、伊都国における拠点作りという任務を全うできず、高天原に逃げ帰ってしまった。14~21歳の時の物語だろう。西暦55~88年頃で、奴国の全盛時代にあたる。これ以降、歴史にも神話にも、彦忍穂耳命の名は出て来ない。
均茶庵 筆