船橋義一

ガキ大将の日々

昭和23年は、樺太から引き揚げた我々家族4人が、イトムカへ入山し、新しい生活を始めた年でした。父治左ヱ門36歳、母絹代25歳、私5歳、妹静子1歳でした。

父が野村鉱業に入社面接の席で、「貴方は何か手に職を持っていますか?」の問いに、「俺のできないものは、蜘蛛の巣と蜂の巣だけだ!」とタンカを切ったそうです。後で、会社の広報誌に鉱山(ヤマ)の名物男第一号で取り上げられたそうです。体格も良く、仁王様のようでしたが、手先は器用で何でも作れましたが、気は短く、あまり協調性がなく、私も中学生の頃までストーブのシバシでよく殴られ、頭が切れ、包帯をしたまま学校へ行ったこともあります。

父は陰で「ヨッポイ」というあだ名で呼ばれていました。その由来は、ロシア語でヨッポイマーチ(日本語でバカヤローより悪い意味)という言葉を後輩たちに投げかけていたからだそうです。

あるとき、新しく入社してきた後輩が、周りの人達が父の事を、ヨッポイ、ヨッポイと話しているのを聞いて、名前がヨッポイなのかと勘違いして父を呼ぶ時に、「ヨッポイさん!」と言ってしまったそうです。父は烈火のごとく怒り、その後輩は訳も分からず平身低頭で謝ったそうです。それを見た人達は大爆笑し、腹を抱えて転げまわったと聞いています。

私も小学校高学年になるころは、環境にもなれ、悪いことだけは先頭に立ってやるガキ大将になり、校長先生には目を付けられ、廊下に立たされることは日常茶飯事。友人のイタズラも私の所為にされましたが、言い訳は聞いてもらえず……自業自得。そのうち登校した朝から夕方まで教室の一番後ろに立ったまま……。何をしたのか、思い出せないが……スカートめくりだったかなあ……?

でも私は日曜日や祭日の休みに畑仕事をさせられるより、学校に行っている時が一番楽しい時間でした。

スポーツが得意だった私は、運動会、そして学芸会はほとんど主役を戴きました。中学三年の頃は野球部の主将として、何年かぶりで大和、厚和を破り、予選を勝ち上がり、留辺蘂での決勝大会に駒を進めることが出来ました。その壮行式の挨拶を監督の栃内先生が西田君を指名。彼は、皆の前で胸を張り、「皆さんの期待に背くように頑張ってきます」その挨拶の通り、一回戦で敗退してしまいました。