本間明夫

イトムカの思い出は湧き水のごとく

 私は昭和22年の11月の末、樺太から引き揚げてイトムカに1年と4か月生活を余儀なくされた運命の持ち主である。

 留辺蘂の駅からあの小さなマッチ箱の汽車に乗った。どんなところに行くのだろう、どんな生活が待っているのだろうと、不安は募るばかり。イトムカに向かう汽車だもの、トロッコの上に、マッチ小箱の中に、ずいぶん多くの客が珍しそうにこっちを見ていた。その中に年齢が同じくらいの少年がいた。ちょっとからかっているようでもあり、意地悪をしてみたいというような素振りに見えたこと、指をさしている子供もいてちょっと不愉快。

 2日程して私は一人で、中学校の入学の手続きに職員室に入った。その時の中学校の校長先生は伊藤勝見先生であった。面接のときに校長の言葉は「君、1年下がってするのがよいと思うのだが」という。私はそのまま2年生にしてほしい旨を話すと、「そうするか」とつげない言葉であった。きっと私の将来を考えてのことだったに違いない。2年生の教室に入って自己紹介をし、全体を見渡すと、そこに意地悪い言葉をかけた少年がいるではないか。元気な悪餓鬼なんだと、それは少年時代の姿であるようにも思われた。

 寒い冬の到来に、日々の食糧の不足、栄養失調になるのが目に見えている。着の身着のままイトムカに腰をおろしたのはいいけれど、近所の方から服や布団や鍋釜に至るまで貰わねばならなかった。貧乏とはこんな生活のことか、今までの樺太での経験がまたのしかかるとは、想像だにしていなかったのである。

 私もクラスの仲間とも打ち解けたころ、春の足音がイトムカの山間部に忍び寄ってきていた。新制中学校の3年生。制度の改革で1年延長はありがたい事であった。先輩の男子2名、女子3名と記憶しているものの、その人数も名前も定かではないが、スポーツマンの川股君、温和な野村君、おしゃべり上手な浜石さん、ふっくら笑顔の小幡さん、すっかり女らしくなった中島さん、会話をした記憶は全くないが、当時のことをこんな風に覚えている。遠くから眺めているだけだったかな。

 中学3年生の仲間は児玉君、佐藤勉君、木村幸子さん、天野久子さん、百崎もも子さん、富川さん、名前は記憶にない。学級委員長に。なり、生徒会の会長になり、送辞も答辞も私が代表してやったり、学芸会の時の挨拶に急きょ指名されたり、 僅かな間に多くの経験をすることができた。このような経験はその後の社会生活にも役立ったことは確かである。

 また、当時の恵泉中学校の先生方とは、いつの日にか、昔のことを語り合いたいと思っていました。しかし、その願いもかなわない年齢になってしまいました。昨年亡くなった伊藤勝見先生、札幌にいるといわれる館山先生、居場所が全く分からない丹治玉子先生、今でも元気でおられる中元先生とも話してみたい気持ちにかられる昨今である。年を重ねると昔のことが懐かしく思い出されるもの。そんなことが頭をもたげるゆえんなのだろう。