佐藤弘子

郷愁

イトムカを去ってから、幾度大雪国道を通り抜けたことか!

特に新緑の頃、石北峠を越えて、イトムカが近くなり、木々の隙間から木漏れ日とともに、赤茶けた選鉱場の屋根が見え隠れしてくると、思い出の記憶が断片的に甦る。

思い出の引き出しを開け、記憶の糸を手繰り寄せなければならないこと、鮮明にしていることなど……。

私が幼かったイトムカの社宅は、天井から、はだか電球が吊り下がっていた。うす暗い所の上に、夜になると梟がフォーフォーとさみしく鳴きだし、声がもの悲しく響いていて、蒲団の中に潜ってもしつっこく耳に残り、恐怖のあまり寝られなかった事も、小さい時の事なのに、不思議とその頃の光景が脳裏に焼き付いている。

終戦まじかの頃だと思う。空襲警報のサイレンが鳴ったのを1度聞いたことがある。防空壕に入る準備をしてくれた。防空頭巾を被り、肩から水稲、布で作ったカバン(今でいうポシェット)の中には、カボチャの種や豆類を炒って、茶袋に入れてもらったのがうれしかった。またサイレンならないかなーといって叱られたものだった。

戦後、お茶の代わりに、キザラ糖が配給になり、母が近くの農家に行って、砂糖と穀物類を物々交換するために、大事にムロに保管してある砂糖を、母の留守に姉たちがクスネて作ってくれたカルメ焼き。小さな私はよだれを出しながら焼きあげるのを待ったものだった。あの味は今も忘れることのでない隔月なものものとなっ

ている。

意識的な記憶の中に、やはり配給所に務めた5年間、このころの生活の中で培われたものが沢山ある。色んな人達との出会い、いろんな先輩たちに囲まれて、紆

余曲折を経ながらも、毎日の仕事が楽しかったこと。勤務時間が終わると洋裁や、和裁を習った。大津さん宅に和裁を習いに行っていたとき、桃の節句には甘酒を呑みながらいろいろご馳走になり、お琴を弾かせてもらったことも度々だった。私はすっかり琴の音色に魅了されてしまい、もし結婚して女の子が生まれたら、お琴を習わせたいぐらいに思ったものだった。(残念ながら子供は男の子ばかりだった。)

体を動かすことが好きな私は、旭川地区の社会保険の卓球大会出場のため、卓球を指導して頂いたが、留辺蘂町で開催された予選会の2回戦目であえなく敗退してしまう。

あの頃のイトムカの冬は、空気が張り詰めて、寒さが肌に突き刺さるような感覚さえしたものだった。時に夜など、ダイヤモンドダスト現象でも起きそうな、鼻水をすするとくっついてしまいそうな、凍てつく寒さの中、スケートを教えてもらい、回数を重ねるたびに上達して、徐々にスピードをつけて、コーナーを回ることができるようななったことの嬉しかったこと。汗で濡れた髪の帽子からはみ出た部分だけが、家に着くとバリバリに凍ってしまうくらい、体が冷え切るまで、時間が経つのも忘れて夢中になってすべったものだった。

今でも冬が来ると思い出す、忘れることのない懐かしい思い出!(中略)(札幌市在住)