坂本光男

イトムカ鉱山の最後を迎えて

 イトムカ鉱山は、昭和11年11月3日、北海道一帯に大暴風雨が襲い、これにより大量の風倒木が生じ、この風倒木を搬出するため、翌年玉曳道路を建設、その建設中の道路の土砂の中から芋辰砂を発見、ここにイトムカ鉱山が誕生したといわれています。

 その2年後、建設されたレトルト炉からイトムカ鉱山で初めての水銀が生産され、以後絶えることなく続いた34年間の水銀生産でしたが、昭和48年6月イトムカ鉱山の鉱石からの生産が最後となりました。開山以来何度と繰り返されてきた企業の縮小や拡大、人員整理そして増員。こうして続いた34年間でしたが、社会情勢と鉱石の枯渇には如何ともしがたく、昭和48年7月をもって採鉱部門の事実上イトムカ鉱山の閉山と決まりました。私は、その閉山前後のことを、再開を願い残っていた思い出を、書いてみようと思います。

 昭和45年の春、労組の退職金規定の改定を巡り、会社は従業員全員を解雇してきました。その後、30数人を雇用して操業を再開しました。200人を超える従業員から30数人になり、社宅の住まいもまばらで寂しい限りでした。翌年子どもたちの教育のこともあり、昭和46年4月長年住み慣れた大町の社宅から留辺蘂の社宅に移転しました。久しぶりの街の生活、そして子供時代を過ごした社宅に戻りやっとホッとしたところでした。

 それから僅か6か月後のことでした。閉山による解雇を受けたのです。組合も何もない30数名、如何ともすることもできずにいました。一部の人には大和水銀鉱業所へ転勤の打診もありましたが、多くの人は職安に失業保険のて手続きに行きました。その中で採鉱の人から、まだ鉱石はあるから生産は続けられる、との意見が出されたので会社に要望しました。会社は閉山を決定済みと、とりあってくれません。大町の社宅跡はすでにブルで地均しが始まり、営林署への辺地作業が始まっていました。求人は全くなく不安の日々でした。

 何度かの話し合いで、故小林社長が入坑し、切羽を見て操業再開に理解を持たれたようでした。しかし会社は閉山を決めています。再開はすぐにとはいかない難問です。私は社長室に呼ばれ操業を続けるにはと、次の条件を示してきました。確か、7,8項目あったと記憶していますが、確かなのは次の項目です。

1 月産2トンの水銀を出すこと。

2 予定の水銀の出ない時は2週間以内に社宅を明け渡すこと。

3 災害、事故にあい、罹災した時は労災のみで処理すること。

 操業の継続は経済性を満たし、自分達の責任で行うということでした。

 この、2と3を見ると、生産が未達成だったら雪深い冬に引越ししなければならないし、また事故になった時会社の補助は無く労災法のみになる。災害による罹災、水銀ガスによる職業病、坑内は危険がいっぱいです。

 また坑内の保安、設備の保安もそろそろ限界と思われてきました。人手不足、技能者の不足です。坑内は荒れてきました。また、交代人員がいなく、連続の採掘作業には職業病の発病も考えなければなりません。この生産と事故、そして職業病のことを考えると採鉱の人達の問題が多いのです。これは採鉱の人の意見を聞くしかないと思い、主に採鉱の人達と元町の社宅の一軒に集まり検討しました。ここに故小林社長と、故魚住所長も同席しました。富沢所長も出席予定でしたが出席できませんでした。結論はなかなか出ません。長い話し合いの末、ここまできたのだから春までやってみよう、その声に多数の人が賛成して操業続行が決まったのです。皆の意思による再開です。ですが、これまでに8名が鉱山を去っていました。人数不足、技能者不足そして身分は全員臨時夫の出発です。勿論、ボーナス、退職金などあるはずがありません。しかし鉱山の操業には、働く人が200人いても20人でしても、設備施設などは同じですから、同じ人数の国家試験をクリヤーした資格者が必要でした。幸いこれはクリヤーできました。私はこの集会の後、社長、所長と話をし、朝の出勤と帰りにはみなと同じバスに乗ってくれれば、皆もやる気が一層湧くので、そうしてほしいと申し出ました。次の日から同じバスで塩別から出勤してくれました。皆一つになりハリキッテの出発です。

 しかし私には心に重くのしかかることがあります。それは今まで一人で大町変電所の管理をしてくれていたOさんが退職したことです。北電の留辺蘂変電所から直接2万Vの電圧で送電されている大町変電所の管理をどうするかです。鉱山操業には留辺蘂変電所からの2万Vを6千Vと3千Vの電圧に変える大町変電所が欠かせないのです。大きな動力は3千Vの電圧で動くからです。引っ越しが忙しく、引き継ぎも何もできすの札幌への移転のOさんでした。後には誰もいない、自分でやるしかない、幸い2年前、2万Vの電圧を維持管理できる電気の国家試験で資格を取得したばかりでした。しかし、実務の経験は無し、暗中模索での始まりでした。あの老朽化した変電所、送配電線の管理の大変さが身に沁みての一人仕事でした。

 ここで操業条件の月トンの生産について考えてみます。今までの生産は、

昭和45年の全員解雇前の生産   約4~6トン(月)

昭和45年33名での生産     約1トン前後(月)

 これからわかるように22名での月2トンの生産は難題でしたが、生産は次のように達成しました。

昭和46年11月  生産量約2トン  同年12月生産量約2トン200

昭和47年1月  生産量約1トン900 同年2月  生産量約2トン  同年3月  生産量約1トン900

合計  10トン

 会社との約束月2トンを達成しました。事故もなく無事春を迎えました。ここまで達成するには事務の人も選鉱所へ行き、ボールミルなどの下に潜り、水銀集めをしていました。全員の努力の結果です。しかし、この春に2名の人が鉱山を去り20名になってしまいました。その一人に今まで採鉱の係を担当していたNさんがいました。会社はその後も採掘を継続する方針になりましたので、私が採鉱を担当することになり久しぶりの坑内の仕事になりました。しかしこれからどれだけの生産を確保できるかまず鉱床を見ないとなりません。

 今回採掘したこの鉱床は、開山当時からの倭鉱床から、東南方向に約200メートルに位置し、坑内の火薬取扱所裏側にあたります。坑内に入り採掘跡を見ると、少しでも品位の高い鉱石を出そうとした5か月間の苦労があちこちに見られました。相当な危険を覚悟しての出鉱なのが感じられました。品位は今までの数倍、そして辰砂の多い鉱脈です。採鉱の事務所に多くあった高品位の標本さえも無く、すべてを出し切っての生産でした。弓折れ矢尽きるの生産で、残りの鉱石はほとんどありませんでした。愕然としました。まが残っている、そんな微かな望みも消えてしまいました。これこ鉱石はほとんどないのです。しかし、生産しなければならない。思案の続く日々でした。幸い近くに辰砂は皆無ですが、自然水銀の多い鉱脈が見つかりました。急いでそれを出すことにして、出鉱しました。しかし、思っていた生産はでません。1トンを大幅に割る生産になってしまいました。鉱石の品位はこれ以上のものはありません。この鉱石で生産が回復しないと、採掘を継続する意味が全くなく、あとは閉山するしかない。その嫌な思いがよぎるのでした。所長は生産をどうするか、その決断を待っています。この鉱石の処理、生産について精錬の係、そして所長とも話し合いましたが、進展なしです。何度もヘレショフ炉を見に行きました。見ているうちにあることに気が付きました。今出鉱している鉱石は自然水銀がほとんどで、発破をかけると、バサバサの砂状になり、岩石に自然水銀が付着することが少なく、分離してしまうことが多い、そう考えて、坑内で発破をかけた鉱石を切羽で篩分けし、砂状の鉱石のみをカマスに入れ、直接炉口に投入すると、ほぼ予定の生産が出てきました。このヘレショフ炉は浮選での尾鉱を攪拌しながら乾燥させるのが、上段のドライハウス、1段、2段目、そして3段目のハウスでバーナー過熱し、水銀を一気に蒸発させる構造であるのに、今の鉱石処理は最上段から投入しているため、投入された鉱石は加熱する3段目に来るまで上段ハウスでの攪拌で自然水銀と分離してしまった鉱石が多くなり、品位が低下。また分離した自然水銀は上段の炉床に置かれたままの状態になって、定温加熱され、低濃度、長時間の蒸発、それで回収が悪かったのではないか。それではどうするのか。それは坑内で篩分けし、品位を上げ、カマス詰めにして運ぶしかない。しかし、篩分けする人手がない。篩分けの設備も必要。だが、時間と資金がない。辰砂の多い鉱床を探すしかないのだ。まだ、5か月間掘った続きの鉱床が何所かにあるのではないか、採掘跡を調べる日々が続きました。調べているうちに、この鉱脈の特徴は断層面に挟まれてレンズ上になっていること。この場所で生成されたのではなく、断層がでがきた時、断層の動きと共にどこからかここに運ばれてきたこと、5号ヒ、新ヒと、ここの辰砂の色、つやの違いがあること。しかし、この色、つや、輝きは何所かでみたことがありました。この3点が私の判断でしたから。

 私は入社したのが昭和27年3月、まだ雪が軒先まであり、イトムカ元山の春はまだまだ先のことでした。坑内では5号ヒがみつかり、生産も急ピッチに上昇して、給料の分割払いも2,3か月で終わり、戦後の不況からやっと脱出していました。坑内は露天から約130メートル下の6番坑が坑底でした。私は連れられて事務所から立坑を下り、4番坑から第4斜坑を下り、5番坑から第5斜坑を下り、坑底の6番坑につきました。この第5斜坑を下りるときの気持ちと、坑底でみた鉱脈は今でも思い出す光景です。第5斜坑はほとんど垂直に近く、高低差は20メートル、下でカンテラの光の動くのが見えていました。足が竦んでしまい、梯子にしがみつくようにして坑底に降りました。空気がヒンヤリとし、周囲の岩盤は黒色です。その黒色の岩盤が2つに裂けています。その裂け目は30センチほど、その裂け目の間にびっしりと焼けた枝木、黒く焦げた川砂、米粒ほどの大きさからクルミの実位の大きさの芋辰砂、炭化した木片の年輪に辰砂の結晶、130メートル上の地上で起きた幾億年前か何万年前かの出来事がここまで落下して、ここに詰まっているのです。息を凝らしていた時間でした。イトムカの水銀交渉の生成は一度でなく複数回であることが一目瞭然でした。初めて見る地下での断層です。その周辺を見ると辰砂の鮮やかな鉱脈が、その断層によって切られているのがハッキリとわかりました。片側は何所かに移動して見えないのです。断層で移動した鉱脈が何所かにある、断層面には方向を示す条痕が残っていました。この様子は今でも思い出し、私の強いイトムカの思い出の一つとなっています。この思いでがここにきて甦ってきたのです。ヒヨットしたらあの断層で飛んだ片割れがこれではないか。全身に鼓動の速くなるのを感じ取りました。さっそく図面で断層方向と坑道の位置を確かめると、方向は同じです。水平距離で約200メートル、落差が約60メートルの移動です。20年前の辰砂の色、つや、輝きが似ている。胸が躍りました。早速所長に話をし、その断層を掘り進むことにしました。しかし、閉山を決めていたイトムカには新しく炭鉱坑道を掘進する計画はなく、掘進に必要な岩石を積み込む機械ローダーは大和水銀鉱業所へ送られていました。人の手のスコップ積みでは時間がかかりすぎるし、これの連日作業では働く人の体力が持たない。幾度か交渉し、ローダーを返送してもらいました。しかしこれがレールの上を満足に走れないローダーなのです。これを修理するのにまた月日が経ってしまいました。生産は相変わらず低調です。このころから生活に不安を感じてきた人達が家に相談に来ることが多くなってきました。そのたびに私の計画を説明するのですが、不安と苛立ちの気持ちを抑えることができない様子で。放言も飛び出し、気持ちの荒れてきているのが感じとれました。現場では機械のトラブルが度々起こり、なかなか予定通り進みません。ですが、掘進している切羽の断層面には辰砂の痕跡が多くみられ、希望が湧いてきました。20年前の感動に会えるのではないか、そんな希望を持っての毎日の入坑でした。しかし、良い結論は出てきません。

 再操業をして1年がすぎて春になりました。この春はいつにない雪の多い年でした。しかし、元山の春はまだまだ先のことです。私は春の嵐の夜、一人で元山事務所(旧ボーリング事務所)に残り、炭鉱奨励金の書類つくりをしていました。いつの間にか風の音も消えていました。時計を見ると朝でした。事務所は昨夜の雪の中にすっぽりと埋まり、窓から外は全く見えませんでした。雪を掻きわけ、外に出ると、空は晴れわたり、抜けるような青空でした。武華岳の稜線には吹雪でできた雪庇がライオン岩を包んではっきり見えました。昨夜の吹雪の名残なのか、時々雪庇の上面を雪の舞うのが微かに見えていました。この思い出が、元山最後の冬の朝でした。予算の時期になり、魚住所長が48年度の予算で上京しました。東京でよい報告を待っている、と言って出発されましたが、朗報はできませんでした。所長が帰られたのは6月の中過ぎていたと思います。採掘は中止になり、採鉱の後片付けが始まったのは7月1日からでした。