大沼富雄

イトムカは人生の礎

私がイトムカに住むことになったのは、昭和31年1月、小学校6年の時でした。

それまで住んでいたのは、道南の木古内町でしたが、その年の1月10日に母が亡くなり、14歳年上の姉(長女)が嫁いでいた三浦利光家へ引き取られてきたからです。

 兄弟は、姉ばかり4人、そして父親違いの弟である私の5人でしたが、母が亡くなった時には、姉二人(長女・二女)はすでに嫁いでおりました。

 母はわたしの父親とは再婚であり、母が亡くなった時には父は出稼ぎに出たまま行方知れずで、連絡さえつかない状態でした。母はその父を恨んで死んでいったように記憶しております。唯一、父と血がつながっている私がいちばんわるいことをしているような「切ない気持ち」でした。

 そんな悲しい母との永久の別れと、故郷の木古内を後にして姉に連れられ、蒸気機関車を乗り継いで留辺蘂駅に着きました。ここなのかと思ったら、別の線路に小さなジーゼル機関車に連なった箱型の客車があり、それに乗ってイトムカに向かいました。

 小学校の私には、大変珍しく今でいうディズニーランドで乗り物に乗ったような気持ちでした。発車した後に走っても追いついて乗れるようなスピードではないかと思いながら、窓から外を見ておりました。やがてイトムカの大町につき、漸く到着したんだなと思っていたら、今度はバスに乗るというのです。2里(8キロメートル)ほど入った山奥にもう一つ元山というところがあり、そこが家だということでした。

 ともあれ、物珍しい思いと新し生活への不安が同居した思いで、初めてイトムカに到着したのでした。

 姉は幼い時から他家へ奉公に出たりして、私が気が付いたときには家にはおりませんでした。息子が3人おり、長男は私の弟くらいになっておりますので、私を「お兄ちゃん」と呼んでおりました。今までは、末っ子の甘えん坊であった私が、今度は兄貴分として過ごすことになり、いろんな面で我慢することになりました。母の死によって私の環境がガラリと変わってしまったことを改めて思い知ったのでした。

 私は幼いころに頭部の右後ろに火傷による小さなハゲがあり、これが坊主頭には目立つもので(自分ではそう思い込んでいた)馬鹿にされるし非常に恥ずかしいものでした。その劣等感から人前に出ることが非常に苦手で、話すこともドモリがちになりました。

 小学校6年生の3学期よりイトムカの分校、元山小学校に転校しましたが、私の記憶では、同学年の生徒は10人位ではなかったかと思います。しかし、2か月半もすると中学生です。大町の恵泉中学校に通学することになりました。恵泉中学校へは会社で運行しているバスかトラックでの通学でした。

 同級生の数は30数人に増えましたが、急激な生活の変化に気持ちがいつも沈みがちで、特に親友らしい友達もできないでいましたが、元山に鈴木君という転校生が来て、転校生同士で親しくするようになったのです。が、まもなくして彼はイトムカの水が合わなかったのか、確か肝臓の病気であったと思いますが、体が水膨れ状態で長い事大町の診療所に入院してしまい、本当に心配して、何度も見舞いに通ったものでした。

 何とか元気を取り戻して退院した時は本当にうれしかったのですが、同級生の一人に「彼の父親が、俺の家に来て、おまえのことを言っていたぞ、勉強の出来ないやつだが気持ちの優しい子だと」と告げ口され、彼は私のことを「勉強の出来ない奴だ」と家のものに悪い宣伝をしていたのかと愕然とし、私に告げ口をした同級生に同調して、退院した鈴木君にちょっぴり冷たく当たりました。ですが、けんか別れをしようなんて思ってもいませんでした。

 彼を好きであることに変わりはなく、自分が勉強しないのも承知のことであったので、ただ、「ちょっとお灸をすえてやれ」程度の気持ちであったのですが、経緯の知らない彼は「信頼していたのに、人間てそんなものなのか」と烈火のごとく怒りました。私としては「信頼していたと言いたいのは、こっちの方だ」と言いたいのですが、それ以来彼は口のききませんし、耳も貸しません。

 彼は子供のいない鈴木家に養子に来ていたのですが、病気と親友に裏切られたという思いからか、秋田県(八郎潟の近くと言っていた)の実家へ同級生の誰にも言わずに帰ってしまったのでした。

 このことは50年以上もたっている今でも心のしこりとして、悲しく残っております。確かに当時の私は、寂しさで何も手につかず、目的意識もなく、ただ図書室の本を読みふけるだけが楽しみであって、授業中であってもぼんやりとしていたようです。しかし、勉強は宿題さえしてゆかない私でしたが、どういうわけか国語と数学だけはなんとなく理解できました。国語は山田校長先生、数学は富樫先生でしたが、授業中になぜか眠たくならないのでした。

 そのように勉強に気持ちが入らない私でしたが、学校は休みませんでした。通学バスに遅れても8キロの峠道を歩いて登校したことも何度かありました。

 ある日、元山の入り口の道路が大雨による土砂崩れによって通行止めになり、大町に通うバスやトラックは、赤岩と呼ばれるところから折り返し運転となり、私たちは裏山の方に臨時に作られた階段を使い、峠下の赤岩まで歩いてトラックやバスに乗り学校に通いました。そんな時、授業が終わり元山行きのトラックの荷台に私たちの通学生が乗って出発を待って坐っていたら、、私の前に立った初老の男が「この車は元山に行くのか?」と聞く声に聞き覚えがあり、ハッとして顔を上げると行方が分からなかった老けた父だったのです。私は同級生たちには「両親は死んだ」と言っていたので、父ちゃんとは呼ばずに中学生の制服姿に気づかない父の脛を手の指でつつきました。

 父は怪訝そうに私の顔を覗いて、「富雄か!」と素っ頓狂な声を出して驚きました。私はいつかこのような日が来るはずとの予感を持っていました。父は家に帰った時は息子である私のことを実に可愛がりましたから、木古内に帰って事情を知ったら必ず尋ねてくるだろうと思っていたのです。元山では土砂崩れのため裏山へ臨時に作られた長い階段を登り三浦家へ案内しました。その夜、父は義兄と一献傾けながらいろいろ話し合っておりましたが、そのあと私と二人で枕を並べて寝ました。成長後の私なら、恨み言を言ったり聞いたりしたでしょうが、当時はただ父に会えた嬉しさで胸がいっぱいになり何も言えないのです。

 翌朝、父が帰ることになり、私一人が切ない思いで見送りに出ました。別れ際に父は「一生懸命に働いてお前とヨシ子やリエ子(親戚にいる姉二人)と暮らせる家を見つけるから、それまで頑張っているんだぞ」と言い残しました。臨設の階段の下り口まで来たとき、「ここでいいよ」と言ってバック一つで階段を下りていきました。山を下り、道路を赤岩に向かって歩いてゆく姿を見送り続けました。曲がりくねった峠道を向こうの山の陰になるまで見送っていましたが、父は一度も振り返りませんでした。私には、もう父とは会えないのではないかという予感がありました。そんな予感からか、堪えても涙が次々と出てきます。

 その後、義兄との約束であったらしく出稼ぎ先から二、三度仕送りをしてきましたが、以後、音信が途絶えてしまいました。姉は「夫に申し訳ない」と父を怒っていました。

昭和32年1月の冬休み中に(中2の時)、稚内に嫁いでいた2番目の姉が「主人が、弟なら上の学校に行かせてもよい」と言っているとの話を、木古内の叔父宅で働いていた3番目の姉のよし子に知らせたとのことで、遥々イトムカにいる私を連れに来てくれました。冬休み中の急なことでありましたので、早速学校へ転校届を出し、同級生とのお別れの挨拶もないまま、イトムカを去りました。

 このイトムカでの2年間を今振り返ると、やはり楽しかった思い出も沢山あったことに気づきました。恵泉中学校での鱒浦海岸への海水浴一泊旅行、学芸会でのアリババと40人の盗賊、軟式テニス、武華岳への登山、イワナ釣り、マタタビ採り、温根湯への花見、ビリヤード等々。花見列車で初めてバナナを3センチ位wけていただいて「こんなにうまいものがこの世にあったのか!」という感激は今でも鮮明に蘇ってまいります。(中略)

 稚内に来てからの私は、充実しておりました。姉との約束通りに朝晩アルバイトをして学費や必要経費を稼ぎ稚内高校を卒業しました。一つだけ悲しい出来事は高校に入って間もなく、父の故郷の山形県は寒河江留場の大沼という姓ばかりの村に住む遠縁の人から「重い病気にかかった父が危篤状態でお前に会いたがっている」との知らせがきましたが、姉や義兄の反対により泣く泣く行くことを断念し、会わずに逝かせてしまったっことでした。父はイトムカを訪ねた後の半年後に病気で亡くなってしまったようです。

 その後、イトムカも解散し、同級生との連絡も途絶えてしまい、もう縁がなくなったと諦めていた平成元年頃に、元山から一緒に通学していた同級生の吉田昭夫君が、当時は武華ホテル勤務時代で、「稚内迄バスでお客さんを迎えに行くから会いたい」と連絡をくれたことがきっかけで十数年前にクラス会に初めて出席させてもらいました。その際に参加者で元山から通学していた同級生みんなで、当時住んでいた家の跡地を訪ねました。

 その時ばかりは、皆んな中学生の頃の気分に戻っていました。辺りは草木が生い茂り、自分たちが住んでいた頃の町の面影は全くありませんが、建物の基礎だけがそのまま残っておりました。それを見つけては、そこは自分が住んでいたところ、あすこは貴方のところと、みんな子供にかえったように懐かしみ、はしゃぎまわり、目を潤ませていました。故郷の地は自然の山林地に戻ってしまっても、渓流の水音は変わらず、私たちの胸を打ちました。小鳥の囀りの中で、その水音が当時のイトムカ鉱山で働き暮らしていた人々のように響きました。その声の中には、今はなき多くの方々のものもあり、自然と比べて人の世の儚さを感じたのは、私だけであったでしょうか!こうしてイトムカの皆様方と再び交際できる喜びを得ることができました。