多田伸司

矢嶋澄策氏と私

昭和11年の秋、北海道に来襲した台風が、猛烈な風を伴っていて、札幌の街路樹も倒れるくらいであったという。その日の強風は北海道でもまれにみる異常なもので、北辺の上川地方や北見方面の山岳地帯に大きい被害をもたらした。

そんな強風を私が体験したのでは、昭和29年の洞爺丸台風と平成16年9月7日の台風18号の最大風速52メートルである。札幌市内で私の目の前で街路樹がなぎ倒され、積丹半島の神恵内村では、国道の大きな橋桁が強風による大きな波浪によって流された。更に体験はしていないが、平成18年11月7日の佐呂間若さ地区での竜巻がこれに匹敵するだろうか。佐呂間の風速は、F3で80数mだったという。多分佐呂間の竜巻が昭和11年にあったに違いない。とすれば、72年ぶりの強風で会ったことになる。

この時の山岳地帯の風倒木を建設資材として搬出する折に見つけたのが、イトムカ水銀鉱山のいわれであり、鉱石の鑑定に当たったのが矢嶋澄策氏である。北海道工場試験場での神長安太郎氏の分析結果は水銀含有量80パーセントという辰砂HgSの理論値に近い水銀校であることが判明した。

その後、当地の水銀分布地域の測量や採取試料の分析品位が水銀含有量1パーセント以上であったことを基礎にした交渉調査の結果から、2000トンであると結論している。

今、野村鉱業(株)の資料によれば、累計産出量は3300トンであっ

たとされているので、ほとんど狂いのない調査結果であった。すなわち発見した宝の山の当たり馬券は数千億円~数兆円であったことになる。

我々はそのイトムカで多感な青春時代を楽しく過ごさせていただいた。全く感謝してもしきれない思いである。氏は私の学校の先輩であるらしい。学校の同窓会名簿を見ると、昭和3年に我が母校を卒業している。そして氏はその後、北大の地質鉱物学科の昭和8年卒業の第1期生に名を連ねている。(第4期卒に我が恩師・佐藤文男先生の名がある)

昭和37年頃の留辺蘂高校の修学旅行で、イトムカ出身の生徒12,3名だと思うが、野村鉱業株式会社の東京本社で昼ご飯をご馳走になった。氏もそこにいたのではないか。定かではない。何しろ、「偉いさん」の前で、田舎のポット出が、使ったことのないナイフとフォークでステーキを食うのである。会話が弾むはずがないし、味も覚えていない。「偉いさん」の名前も覚えていない。ナイフでけがをしないように、変なマナーのことばかり考えながら、ご馳走になった。考えてみれば、氏は明治40年頃の生まれであり、私と3廻り位違うのだから、やむを得ない。

その後、長じて私は日特建設株式会社に入社した。東京電力の「安曇ダム」工事や、名古屋市の「地下鉄建設工事」に携わって数年して、東京の本社に勤務した。

ある時、会社の「地質やさん」と称される土木地質の素養のあるもの30数名が集められ、フィールドにおいて、改めて地質の勉強会を、1泊2日にわたって筑波でやったことがある。数名の講師がいたが、そこに氏が居られた。その時は早稲田の客員教授をなさっていたと思う。夕食会の時に自己紹介をしながら、思い出を語ったように記憶するが、氏だって突然イトムカの話になって大変面食らったのではないだろうか。その時の印象が私が思いつく彼のすべての印象である。

すなわち、彼はとんでもなく優しいジェントルマンの風貌と優しいもののいいようであった。土木の技術屋と接する機会が多かったので、鉱山やさんとはこんなにも優しい人が多いのかと一寸疑った位である。テントと味噌とコメを携えて何か月も山の中にこもって鉱脈を探して歩く、いわゆる「山師」の印象では決してなかった。数兆円に値する新しい鉱山を開発したという印象ではなく、名もない北海道立工業試験場の分析屋さんの、鋭い勘ととんでもない努力が結晶した結果が、こうなったのだろうと思った。しかし、同時に、氏にサウジアラビアやイスタンブール、はたまたボスポラス海峡の匂いも同時に感じ取ったことも事実である。そして、私もまた、当時の彼の年代に入ってきた。私もポスポラス海峡を眺めに行きたい。

我が恩師デッポ先生

そういえば私が40年前になんとかご迷惑ばかりかけて卒業した時の、我が恩師8佐藤文男先生)の愛すべきあだ名は「デッポさん」であった。デッポさんが何に由来するかといえば、DEPOSIT、すなわち鉱山の鉱床である。私は学生の時この鉱床学に携わったが、異業種に関わって40年が経ち、今この冊子の編集委員を仰せつかって、図らずもまたここで水銀の鉱床学について考えることとなった。なぜかといえば、水銀の「イトムカ」に就て語るとき、アホなりに「鉱床学」を学んだ私が「水銀がどのようにしてできたのか」説明ができなかったためである。

どんな運命のいたずらなのか知らない。いやこれは、我が恩師「デッポさん」がもう一度、出来の悪い私に卒業論文の再再再試験を課してくださっているのかもしれない。しかし、もう思考能力の限界を超えた年齢に達しており、薄学による間違いを最小限にするために、物の本からの出典を明らかにして、お茶を濁すしかない。

ここに昭和25年9月発行の北海道地下資源調査書による理学博士・矢嶋澄策著「北海道の水銀鉱床」という論文がある。ここには世界と日本全体の水銀鉱床の分布と水銀鉱の種類と性質から始まって、北海道におけるそれを詳しく述べている。北海道庁の経済部地質研究所でこれを見つけた。(「地質研究所はなぜか経済部に所属している)

私が最も興味を抱いたのは水銀がどのようにしてできたかということである。その論文の第5章に、「北海道における水銀鉱床の成因とその地球科学的考察」という項目があり、イトムカ鉱山の鉱床について、次のように述べられている。

「該鉱山の母岩の変朽安山岩化即ち緑泥石化作用、絹雲母化作用、珪化作用、黄鉄鉱化作用、沸石化作用等熱水性溶液により母岩が変質し、豊富な鉱液の供給によって、高温度中稍稍静穏なる条件下にて沈殿を生じたるものであって、この鉱球中の核心部に黄鉄鉱を有し、外部に辰砂と膠状珪酸の輪状鉱を造っている。これは最初に鉱液が強いアルカリ性であって、この時に生ぜし、硫化鉄鉱は黄鉄鉱であった。次に鉱液が急激に物理的環境の変化を受け、この科学的平衡に変化を及ぼした結果、珪酸と辰砂とが同時に急激の沈殿を生じたものであることは、鉱床上部の形態がこれを証明している。自然水銀はこの辰砂の急激の沈殿に際して失した化学平衡のために、コロイド状に析出したものであって、明らかに1次的生成である」

即ち、水銀は著しく昇華性に富むことから、水銀鉱床は既成の消化物によって出来上がったのではないかと思われてきたが、地下の水の通りやすい岩石の割れ目に、様々な成分を含む浅熱水性の溶液のあるものが沈殿してできたものである。と。

話は変わって私は「デッポ先生」から二つのことを教わった。

一つは道を歩く速さである。車社会到来の一歩手前の時代だったので、山の中まで地質踏査のために相当な距離を猛スピードで歩いた。時速6キロメートル位であるから、かの松浦武四郎と同じくらいの速さであろう。足の脛が棒のようになってもまだ休めせてくれなかった。ちょっとした街に出ても歩く速さは変えられない。いつも横断歩道では人にぶつかりそうになる。見てはおられぬ状況であった。私もその傾向にある。

二つ目は、「地質学的なものの見方」だ。知床や奥尻島などで、第4紀の地質踏査で学んだことが多かった。これを要約すると、様々な地質現象の一つ一つを観察すると、一見すると無秩序に見えるが、その奥には隠された本当の秩序がある。あるところまで調べると急に構造が見えてくるのである。今にして思えば、工学は歴史的視点を持たないから、現在時点での最適適応だけを考え、どうしても自然の摂理を無視した開発計画になりがちであるが、地質学は悠久の自然史の流れの中で現在を捉えるから、未来を洞察できるのである、と教えてくれたのではないか。私はつくづく自分が胎生したイトムカを思わざるを得ない。