井上由美子

厳しく懐かしいイトムカの生活

平成18年12月、イトムカ鉱山閉山40周年記念文集についての案内をいただきました。

発起人のお名前を拝見し、「アッ、お隣の玲子ちゃん!中野さんの初ちゃんも!」と思わず叫ぶと同時に、子どもの時の懐かしいイトムカでの生活が

一気に甦って参りました。思い出すままに書いてみたいと思います。

昭和20年3月、私どもの家族は大阪の大1回の大空襲で焼け出されました(父大畑壽三はそれより1年前にイトムカに行っておりました)。それから

1ヶ月後くらいに、親戚に身を寄せていた私どもを迎えに来た父と共にイトムカに行き、イトムカの住人となりました。

都会で育った私たちには、

イトムカでの生活は非常に厳しいものでした。最初は三郡の社宅でした。飲み水は二郡との共同水場まで汲みにいかなければなりません。小二の私も、

見よう見まねでバケツを天秤で前後にかつぎ、毎日水汲みを手伝いました。最初は少しずつでしたが、すぐにバケツいっぱいに水を入れ、バランスをとりながら

運べるようになりました。

間もなく四軍の社宅に変わりました。お隣はお風呂屋の利光さん、もう片方のお隣は床屋の小木曾さんでした。ここでは浴場の水をもらい、やはり天秤で運びました。

4年生の時に五郡の社宅に移りました。家の前向こうはグランド(1段高くなっていた)があり、その西側は小学校でした。校庭には山桜、オンコなどの木が植えられ、

オンコの実を取っておいしく食べたことが思い出されます。また、一面クローバーが植栽され、よく四つ葉のクローバーを探しました。時には五つ葉、6つ葉を見つけたこともあります。

恵泉小の名前の由来にもなっているきれいな水が、小学校の裏の坂下の大きな岩陰から流れ出していましたね。今でもあの水はどうなっているのかしらと思い出すことがあります。

5,6年の頃は、汽車の終点近くの製材所へ材木の雑っぱ(と呼んでいた)をよく貰いに行きました。学校から帰ると、それが日課でした。縄を2つ折りにし、雑っぱを置き、その上にあおむけに寝そべって、輪の方を首にかけ、他方の2本をそれぞれお腹の方に回し首の輪にかけて、上手に背負いました。帰るとそれを弟(利幸)と2人でストーブに入る長さに、鋸で引き(木を乗せて切る台もありましたね)、太いものは鉈で割り、たきつけにしました。

配給物もよく取りに行きました。冬は橇に乗せて帰るのですが、郵便局を過ぎて家までの間の坂で橇が雪の中に突っ込んでひっくり返り、積んでいた豆が放り出されたこともありました。あの頃の私達子供は皆、いろんな家事を手伝うことが当然でした。

私の記憶では、3月には時々大吹雪が来ました。夜中にすごい吹雪があった翌朝には、吹き寄せられた雪が家を覆い、家の中が暗くなるほどでした。

五郡の私の家からは、旧社宅、新社宅どちらの浴場もちょうど同じくらいの距離でしたから、そのときによってどちらかへ入りに行きました。風呂の帰り道、特に冬の夜は星が美しく見えました。大きな流れ星がスーッと流れて消えてゆくのもよく目にしました。(中略)

昭和27年秋、中学2年の時に父が川湯の硫黄山に転勤になり、7年半過ごしたイトムカを後にしました。その後、留辺蘂の北興化学、奈良県の大和水銀鉱業所、岡山の北興化学へと転勤し、私ども家族もその都度その土地へ引っ越しました。

過日、インターネットでイトムカ辺りの地図を見ました。イトムカ鉱業所、39号線に「恵泉橋」がかかっていることも知りました。中学校の時の遠足で登った武華岳(中学校の太田先生がイナゴク、1759メートルと教えてくださいました)。また、武利岳(イワナム、1876メートル)、北見富士(イニクイ、1291メートル)なども載っており、本当に懐かしい気持ちでいっぱいでした。私の故郷はやはりイトムカなのです。(岡山市在住)