武富妙子

遠くにありて

私の朝は母に話しかけることから始まる。今年、娘は母の亡くなった歳と同じになった。

私と娘の会話には母がしばしば登場する。ごく普通にそこに存在するように。

2001年9月、以前から心に決めていた母の50回忌にイトムカをねようと計画し、妹と二人、女満別空港に降り立った。レンタカーで札幌まで向かうことにした。

温根湯温泉で1泊してイトムカを目指したが、イトムカへの道は閉ざされていたため、石北峠でライオン岩を眺めながらお線香を手向け、遠い日々の記憶を手繰った。

昭和24年、4歳の私は母に手を引かれてトラックの荷台に乗り、父と兄の待つイトムカへ原生林を抜けて入山した。

陽気で民謡の大好きだった母だったが、ほどなく病気になり、3年後の昭和27年10月他界し、父の手で私達兄妹は育てられた。

今から思えば10年余りの歳月を過ごしたイトムカの生活が、それからの長い人生の中で、大切な思い出となり、生きてゆく上での支えとなった。

特にライオン岩を望む風景が懐かしく、今でも鮮明に覚えている映像の一つである。人生の決断を迫られるような苦境に立たされた時には、必ずこのライオン岩と青い空が現れて心が鎮まり、答へと導いてくれるのであった。遠く離れてより一層心に刻まれているのかもしれない。

子供の頃は長い冬も苦にならず、楽しい思い出ばかり甦る。校庭を踏み固めて水を撒くと、翌朝にはスケートリンクが完成していた。透き通った翡翠色のリンクの表面が鏡のようになって、雪の結晶が舞い降りたままくっきりと映っていた美しさは今も忘れられない。

山も川も覆いつくした雪山を、長靴をつけたスキーで兄の後を追いかけたことも懐かしい。動物の足跡を追い、どんな急斜面でも臆すことなく滑ったものだ。

猫柳が芽吹き、川の流れる音が聞こえ、川辺の土が見えるようになると、一気に春の香りが辺りに漂う。季節の変わり目を、体で感じる素晴らしい体験をこの後忘れることなく、少し鈍くはなってはいるが、今も春は香りから始まっている。

川べりの蕗のとうや、辺り一面のタンポポ、校庭のルピナス、忘れなぐさ、矢車草、蛇の枕と教えられた水芭蕉、父の育てた野菜やコスモス等を思い出しては、我が家の庭の草花に当時を重ね合わせて、ついあれこれと植えてしまう。

昭和30年代のはじめ、精錬所の煙突からの煙が周りの木々を枯らしてゆく様子や、小さなダムに沈んでゆく木々を通学途中に見ていたことから、これ以上変わらないでほしい、そんな思いがあった。

イトムカの森に入ることは叶わなかったが、安心したのも事実である。静けさを取り戻したイトムカを、遠くから眺めるだけでも、旅行も目的だった母への祈りは届いたであろうと思う。

札幌で兄と再会してから、帰路につくため千歳空港に着いたところ、物々しい雰囲気。手荷物の検査がいつもと違い、大勢の空港職員が厳重な監視をしているのに驚く。なんと2日前にニューヨークの同時多発テロが発生していたのである。長距離の移動の疲れと、旅行のもう一つの目的の、ある場所を探し当てるために奔走しており、ニュースを目にする機会がなかったのだ。

長年、気にかけていたことも解決し、母の50回忌も私なりにできたことで、今回の旅行は無事に終わり、日常の生活へと戻った。

太平洋に面した温暖な土地に移り住んで40年近くになる。様々なこともあったが、3人の子供たちもそれぞれの道を歩んでいる。イトムカの森を切なく思い出すことも今ではなくなったが、それでも鎮守の森としての私の心の中で大切なお守りとなっている。遠く離れて、長い時が過ぎても、イトムカは決して色褪せることのない、特別の思い出の地になっている。(津市在住)