本間富三

思い出の中から

1、選鉱場と私の進路

山肌に沿うように造られた大きな建物、選鉱場。今でもその残蹟を留めている。

広く大きな、赤い屋根は、大町地区のどこからも見ることができ、イトムカのランドマークであり、シンボルでもあった。

父はこの選鉱場の一番高い所にある職場が勤務場所だった。小学生の頃、夕方になると、ここによく夜勤の父の弁当を届けに行った。

父の職場は、元山地区で掘り出され、何キロメートルにも及ぶ大掛かりな索道によって、運ばれてきた鉱石を砕き、選別を行う最初の工程であった。そのため選鉱場の一番高い所にあった。狭く、小さな休憩所もその一角にあった。身体の小さい私は、下から500段はあったかと思う工場の中の階段を、一歩ずつゆっくり上って行った。登り切って上から下を見ると、その高さに足がすくむ思いがしたものであった。工場の傾斜に沿っての階段であり危険はなかったが、一段の階段が高く、小さな身体の小学生にとって、大きな弁当箱を運ぶのには骨が折れた。

選鉱場の中にはたくさんの大きな機械があり、特に鉱石を砕く破砕機は轟音をあげ、迫力のあるものであった。また、選鉱に使用する独特の薬品のにおいが鼻を突き、その情景は今でも鮮明に、深く目に焼き付いている。子供にとって、珍しいさまざまな機械類の動きは、興味の尽きないものであり、行くたびに目を奪われ、いつまでも見入っていた。

工場の機械、設備類は大型で、規模も大きく、当時としては最新鋭のもので、日本一、東洋一ではなかったかと思う。よくぞ、このような山の中に、このようなすごい設備を作ったものだと、子供心に驚き、感動したものだった。

そして、このような凄い機械類は誰が、どのようにして作ったのか、自分も将来このような機会を作ることができないものだろうかなど、さらに思いをめぐらしたものであった。

実はこのような子供のころの体験が、その後の私の人生の方向を決めたように思われる。

長じて私は理科系を指向し、大学では、機械工学を専攻した。学校を卒業するとすぐ、電気機械メーカーのT社に入社した。T社では、横浜の工場で、選鉱場で子供のころよく見ていた「芝浦」マークの大型電動機、モーターを制作していた。T社には定年まで勤めたが、終生、電気機械の設計、製造、販売の事業に関わり、それから離れることはなかった。

子供のころの、イトムカ選鉱場での体験が、私の目を開かせ、夢を育み、人生の方向を決める重要なきっかけになったともいえる。

2、熱心だった、会社の子弟に対する教育支援(省略)

3、恵泉小学校時代のおもいで 6回生(昭和28年卒)(省略)

4、恵泉中学校時代のおもいで 9回生(昭和31年卒)(省略)

5、イトムカの春夏秋冬 四季の変化と子供の楽しみ(省略)

6、終わりに

いま、その役割を終え、。ひっそりと大自然に帰りつつある思いで多いふるさとイトムカ……。

懐かしさのあまり、長々と、拙文を書き綴ってしまった。

官公のトロッコ列車で、2時間以上揺られて到着する、北海道大雪の陸の孤島イトムカ。イトムカを去って半世紀、あれからもうずいぶん時間がたっているのに、折に

触れて彷彿と思い出す。なぜだろうか?

最後にイトムカ在住中にお世話になった、先生、友達、社宅長屋のおじさん、おばさん、そして、当時の野村鉱業株式会社の経営者、管理者、労働組合の方々、すべて

の皆様方に改めて、お礼を申し上げたい。子供のころ、大変お世話になりました。本当にありがとうございました。

最後に、今回、このような素晴らしい 文集の企画を立ち上げていただいた発起人の皆さん、大変ご苦労様です。心より感謝、お礼を申し上げます。(富士市在住)