北村和子
東京から来た子
父の転勤で初めて北海道に渡ったのは、昭和25年12月、東京で小学校に上がり、2学期の終了頃でした。
一面真っ白な、見たことのない世界にびっくりしたものでした。
転入で訪れた日には、東京から来た子と珍しがられ、冬にスカートをはいていると言われたことも忘れられません。
あの当時は、校長先生の奥様は、ハカマをはいておられましたね。十勝沖地震もその頃だったと思います。
1学年20人足らず。その小さな学校にも驚きました。
水道もお風呂もなく、親は寒い北海道に苦労したと思います。私たち子供はすぐに馴染んだようです。
また、男の子どもたちがうちに来てみかん投げをしたりして、父に「そんな事したらあかん」と言われて、皆が真似して笑われたものです。今では、テレビも関西弁もメジャーでしょうね。私も北海道の言葉がわからず、とまどったこともありました。今ではその言葉が懐かしく……。
そのあと、4年の2学期から、川湯の硫黄山、札幌。父はその後、函館、秋田から東京へ。私は高校まで札幌で、卒業してから大阪に戻りました。こちらで就職し、結婚して、ずっと関西人になってしまいました。
ここ10年くらいは夏と秋は観光に、冬はキロロ、トマム、ニセコ等、スキーに行っています。温根湯から層雲峡への途中、イトムカ鉱山跡地とバスガイドさんが説明した時には、思わず身を乗り出しました。そのときの印象は、私には強烈でした。でも、繁栄を見るのはいいけれど、衰退を見るのは淋しいものですね。
当時の会社のことは何も知らず、父の亡くなった今となっては、知りようもありませんが、東洋一の水銀鉱山だったと、のちに聞かされたように思います。
中学生の頃、赤江さん、溝口さん達が、札幌に来た時に訪ねてくれたり、大阪に来てからは木田(旧姓中野)さんを父と訪ねたり、佐藤(旧姓飯野)さんがご主人の転勤で甲子園に住んでいてお会いし、懐かしい話に花が咲きました。イトムカに住んだのは、3年足らずですが、今でもあの当時の家のまわりや、クラスメートの顔が目に浮かびます。
皆さん、今どちらに住んでいらっしゃるのでしょうね。お会いして、あの頃に帰りたいものですね。(高槻市在住)