第3回民衆史を語る会報告2019年

講演

第1部「橋梁に刻まれた鉄道の記録~根北線鉄道敷設工事から登録有形文化財への途」

第2部「伊屯武華水銀鉱(野村伊屯武華水銀鉱)地崎組・土屋組殉難者(中国人・朝鮮人・日本人)名簿」

お話 森 亮一さん(斜里町郷土史研究会代表)

第1部は

斜里の越川に、「渡らずの橋」と言われた第1幾品川橋梁(通称「越川橋梁」)がのこる根北線の埋もれた歴史を掘り起こした経緯を話された。

その背景と、そこにあった苛酷なタコ労働の実態を明らかにし、橋梁を有形文化財として登録するまでの内容でした。

根北線は、根室から標津を経て斜里に至る鉄道として、1922(大正11)年から構想されたが、33(昭和8)年、北太平洋北東防衛圏の基地強化を背景に軍備網を補充させる課題と、地域住民の「根室原野開発」という要望も伴って浮上し、37年北海道建設事務所の管轄に入り、38年斜里・標津間56,9kmの工事に着手した。43年竣工の予定だったが、日中戦争拡大のため、41年に工事は中止し、一部敷設された軌道は撤去され、中国大陸に移送された。(1933年当時、北海道を視察した三土忠道鉄道大臣に宛てた陳情書が斜里町の役場に残っていた)

森さんは1976(昭和51)年から聞き取りの調査を開始した。タコ部屋の実態を聞き取るのに10年かかったとのこと。

①議会を支点とする行政面からの証言

②鉄道員(第1、第2工区の監督を務めた方々)からの証言

この中からサラパ川に架ける鉄橋は鉄筋を使わず、玉石を使用する雑石コンクリート造りの橋梁を架けることになり、コンクリートアーチ型の橋の設計された経緯が判明する。

③土工夫(タコ部屋)に関連した人たちからの証言

日本一苛酷と評されたタコ労働の生々しいいくつかの証言からその悲惨な実態が明らかになった。少なくとも11名の死亡が明らかになっているが、実際はもっといると思われるとのこと。

戦後になって、1946(昭和21)年、根北線敷設の請願を採択したが、予算計上に至らず、53年復元測量開始。57年斜里~越川間12,79km、3駅のみの再着工となり、その間の開業となった。

しかし、60年貨物輸送中止以後、3駅は無人化され、レールバスに移行したが、日本一の赤字線と呼ばれて、廃止反対運動展開するも、70年8月廃止となった。

1994(平成6)年7月、越川橋梁の撤去問題が起こり、「知床の歴史を守る会」が、開拓時代の象徴として、越川橋梁保存に関する請願書を提出した。殉難者11人を確認し、コンクリート工事は鉄道技術の粋を結集し、文化財としての価値が高いと、94年9月保存に関する請願を採択した。

1986(昭和61)年から越川橋梁で地域住民も参加して追悼集会を開催し、今日に至っている。

2017(平成29)年、網走南が丘高校放送部が越川橋梁を題材に8分間のドキュメント「歴史を架けて」を製作し、道高文連の地区大会で1位となった。その折の報道がNHKでなされ、その映像がDVDで紹介された。

こうした歴史は押さえておかなくてはならない。高校生など若い人たちに受け継いでいってもらいたいと話を結んだ。

第2部は

「旧野村伊屯武華水銀鉱」での犠牲者を、中国人・朝鮮人・日本人と分けて調査したもので、道の開拓殉難者・受難者調査委員会の調査員を務めた時の資料に加筆・訂正したものでした。

①中国人犠牲者

(地崎組・イトムカ) 死亡者10名のうち 2名 留辺蘂大黒座

8名 富士見(イトムカ)

(地崎組・イトムカ華人収容所) 2名 富士見

(土屋組・イトムカ) 11名 富士見・華人勤労隊宿

②朝鮮人強制連行(野村鉱業K・K)犠牲者30名のうち

死亡場所が画定している人27名のうち 5名 留辺蘂・北見日赤

22名 富士見・二股

③日本人犠牲者 22名 富士見イトムカ・イトムカ鉱山・富士見二股等

〇日本人の犠牲者については今回初めて知るところとなり、今後どのように扱うか考慮していきたいと思います。

〇現在、慰霊碑の建立場所として、留辺蕊町墓地を第1候補として、6月に北見市議の小川清人さんのお力添えもいただき、北見市に要請しているところですが、いまだ返事を貰えていません。建立後の管理のことも考慮すると、墓地をもう少し追及したいと思っています。

〇募金は約180万円まで来ました。もう一息ですので、お力添えをよろしくお願い致します。

(以上)