総合T-空間演出デザイン1

歴史上の有名な巨匠を調べるて、その人の哲学を学び、

概要や生立ちをレポートする課目です。

けれども、おまけがあって。

もし「その巨匠と食卓を演出するなら」というものを制作します。

料理を並べるのではなくて、演出を考える発想力の必要な課題です。

ここが空間演出という課目の課題たる所以かな。

私は近代日本画、京都画壇の巨匠「竹内栖鳳」を調べました。

レポートは参考文献を見つけて書けばいいのですが....。

(まとめるのも大変ですが)

大きな難関!

食卓作りです。

松花堂弁当風でこんなものを作りました。

松花堂弁当は、京都八幡に住んでいた松花堂昭乗が農民の種入れを見て

それを道具箱に使い始め、そこからまたまた、

松花堂の箱をヒント、昭和初期に料理用の弁当箱になったものです。

ちょっと大学の課題にしたらかわいすぎるかな...。

技法を掛け合わで描いた画風が妖怪の鵺(ぬえ)に例えられ。

ライオンの図で評判が上がり。

徽宗皇帝の猫図を思い浮かべて描いた「斑猫」が重要文化財。

動物画を得意とする栖鳳なのでこんなんにしました。

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調べたレポートと概略、食卓のコンセプトと写真をA3の3枚にまとめて

イラストボードに貼付けて提出です。

完成した3枚です。


(ちなみに著作権は没後50年には公有になるそうです。)

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考えた文章も載せてみみます。

1枚目ー作家研究レポートーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ー作家研究レポート

ー竹内栖鳳

ー近代日本画に影響をあたえた京都を代表する巨匠

幕末の京都に生まれた1人の青年が、日本画の近代化を推し進め、教育者としても多くの弟子を育てる巨匠となった。栖鳳の生まれた時代背景は、日本が江戸から明治に変わる変革の時代で、社会が西洋の思想を取り入れ、近代的な国家を構築するために西洋から多くの文化が流入した。その中で、当時の絵描き達は息を飲むほどに写実を追求した西洋の絵に瞠目し、世の中の西洋化の流れと共にして、洋画の技法を研究し、新たな日本画の表現方法が模索されていた。また、明治に入り京都では都が東京へと遷都され、政治や文化は東西が意識された時代である。日本画界の情勢も東西の画派が意識されていた中、栖鳳は京都を代表する画家で、東京では横山大観が時代を主導する画家として名を馳せた。

幼少のころ、栖鳳が絵に興味を引く出来事があった。家業の料亭の客が即興でカキツバタの絵を描いたのを見たことに始まる。絵を描くことに熱中する栖鳳に、早くに母が他界したこともあって、父と姉は絵を描くこと許し、12歳の時に近隣に住む絵師・土田英林に絵の手ほどきをしてもらうことになった。しかし、家業を継ぐはずの栖鳳は、周囲の反対がありながらも絵を描くことを続けていった。16歳になり円山派の幸野楳嶺の私塾に入門した。楳嶺は後進の指導にも熱意があり、日本で初めての美術学校である京都府画学校の設立に奔走した人物である。楳嶺の元で学んだことは、栖鳳にとって技法だけではなく絵画教育の重要性を意識することになった。半年あまりで画塾の工芸長になり、楳嶺四天王といわれた栖鳳に、楳嶺は他派の筆法を習わせる機会を与える。しかし、多くの筆法を学んでしまった栖鳳の画風は流派を寄せ集めで描かれた「鵺派」と呼ばれてしまう時期がある。当時は他流多派の筆法を同時に使うことは御法度であったが、日本の時勢が和洋折衷の変革の流れの中、絵画の世界もその流れがあり、画派を折衷することは京都の画壇にとっても先駆的な実践で、栖鳳は日本画の新たな表現の模索を担うことになる。楳嶺の没後には美術工芸学校の教諭に迎えられ、その先駆的な絵画教育を受けた弟子は優れた名匠となっている。

栖鳳の画風を大きく変えた契機は、明治33年にパリで行なわれた万国博覧会の視察に派遣されたことである。渡欧し、自身の目で西洋画を確認する機会を得られ、新たな画境を取得した。このころから名を変え、「棲鳳」から西洋を意識した「栖鳳」へと名前を変えている。楳嶺の元で円山派の写実的な画風と他流他派を取り入れる視点を養っていた栖鳳は、日本にはなかった画境を西洋から学び、より写実的な絵画を意識することになる。その後、中国にも訪れ、日本で長い間君臨した狩野派の本流を見つめ直すこともする。多くの経験を重ね、日本画に多種の画法を取入れていった栖鳳であったが、詰まる所日本画の魅力を再認識し、技巧を発展させることが目的であった。

栖鳳が目指した日本画は、西洋画のように見たものをそのままリアルに描き上げるものではなく、東洋独自の絵画表現を意識し、写意をリアルに描き上げる精神的写実主義を目指したといえる。明治の欧化を推し進めた時代背景に、フェノロサの日本画の再評価をとおして日本の優れた絵画表現を再認識していた栖鳳は、大観と共に日本画の発展を願った。栖鳳の葬儀にいち早く駆けつけた大観の姿はみなを驚かせた。日本画の激動の時代に、東西の大家として長年ライバルとして意識していただろう。しかし、共に日本画の発展を願い、その同志の死に対して敬意はらいっていたに違いない。

-参考文献-

廣川孝著『竹内栖鳳 近代日本画の源流』思文閣出版 2000年3月20日

田中日佐夫・田中修二著『海を渡り世紀を超えた竹内栖鳳とその弟子たち』思文閣出版 2002年5月13日

平野重光著『栖鳳芸談 「日出新聞」切抜帳』京都新聞社 1994年11月10日

2枚目ー作家概要と食卓コンセプトーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ー和の融和力

ーキーワードは、優れたものを総て受け入れることのできる器と、多くの技巧をまとめる力。

ー栖鳳は和の文化圏で育った作家である。

ー竹内栖鳳<概略>

本名「恒吉」、京都生まれ

元治元年11月22日(1864) - 昭和17年8月23日(1942)

主に動物画を得意とする京都画壇を代表する日本画家で、写生と写意を重視した画風で生命感のあふれる傑作を多く生み出した。円山派の幸野楳嶺の私塾に入門し、楳嶺四天王と呼ばれるようになる。教育者としても裁量は高く、京都府画学校教員、画塾「竹杖会」などを主宰し、多くの名匠を育っている。文展、帝展の審査員もつとめ、受賞歴も多く、横山大観と共に近代日本画を確立した人物といえる。フランス政府からレジオン・ドヌール勲章、第1回文化勲章を授与。「斑猫」(山種美術館蔵)重要文化財指定。

ー抽出背景

私も京都で生まれ、生活し、絵を学んでいる。町を歩けば不意に史跡があり、社寺や美術館に行けば美術書に掲載されたものにも多く出会い、日本の美術史を見ていると、京都から展開したものや関係した人々が多くいる。美術史を学ぶ中で、近代の日本画を確立したといわれる栖鳳を知り、近代京都画壇を代表する栖鳳について調べるにはいい環境がある。画家にとって生活の場は少なからず画境に影響を与えると考えられる。栖鳳を通じて京都画壇の歴史を知り、自身の画境をどのように確立していこうかを考えてみることにする。

ー食卓のコンセプト

栖鳳が制作に意識したことは、日本画を発展させるために、日本以外の文化圏で発展した絵画の特徴を抽出し、日本画に融合させることである。日本の弁当に松花堂弁当というものがある。昭和の始めに料亭「吉兆」の創始者「湯木貞一」が創案したものであるが、発想のヒントは江戸初期の僧侶・松花堂昭乗が農民の種入れを面白く思い、それを自身の道具入れなどとして応用したという小物入れがあり、これを発展させて料理を盛りつける器として利用したものである。その発想力の連鎖は栖鳳にも喜ばれるものであると思い、それぞれの仕切られたところに栖鳳が変化していく過程を盛りつけ、画意を確立した過程を表現してみる。

3枚目ー食卓ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ー松花堂弁当

ーキーワートは「動物」で、栖鳳の変革に立ち会った生き物たちを盛りつける。

正体不明の妖怪「鵺」に例えられるきっかけになった「猫児負喧」。そして渡欧以前から「虎」に興味をもち、渡欧後には伝説の獅子と同期するライオンの「獅子図」を描く。その後に、日本のどこにでもいるような猫を描いた「斑猫」は、徽宗皇帝の猫図を思い起こして描いたもので、重要文化財に指定されることとなる。

写実を意識したことによって、描き出すモチーフが徐々に身近にあるものになり、写意を大切にした栖鳳は、「絵にする」ということは現実にあるものに感動し「動かされた心」がなければ絵できないと考えたのではないか。そして、多くの技法を習得しようとすることも、1人の人の技法や発想の限界を知り、外界から受けた刺激から学ぶことのできる「受けとめられる心」が大切であったと考えたのではないか。

文化の違いと優れた特徴を理解できることもセンスである。栖鳳自身が考えたことを食事をしながら語ることのできるもので、話のネタを提供して食卓を充実した会話のある空間にすることが目的である。区切りによって料理の違いをはっきりとさせられるのも松花堂弁当の特徴で、栖鳳の移り変わりに立ち会った動物を盛りつけ、それぞれの味が楽しめるようにしている。

旅やスケッチに頻繁に出掛けた栖鳳である。食卓を弁当形式にし、ランチョンマットを風呂敷にして好みのところで食事ができるようにした。

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参考文献探しはずいぶん前からやってましたが、

レポートの制作を始めて2ヶ月ほどはかかってるかな。

栖鳳のことは美術史基礎1で調べてから気になってましたが、

この課題ですっかりファンになりました。

1人の画家を調べることも楽しいですね。

レポートだけでは肩が凝りますが

遊び心もあるとっても楽しい課題でした。