総合T----------地域学基礎-課題1

テキストを取り寄せ、その要約と学べたことをレポートする課題です。

中路正恒編「地域学 改訂新版」京都造形大学 平成22年3月20日

実は、初回提出では不合格となりました。

なぜかというと、要約なのに自分の意見を書いてしまっていることでした。

確かにそのとおりで、指摘されていた所と、多少の文面を作り替えて2回で合格です。

まあまあいい点数をもらえましたが、参考程度にしてください。

1.第二章 第一節 地域生活に関わる地質 原田憲一 ——————————————

日本といわれる小さな地域の中で育まれた精神的気質は、これまでは風土から導きだされる研究が盛んであったが、地質条件にも大きな影響を受けている。風土論は、体験的に気候や視角的で理解できるものであるが、しかし、風土条件のみを語る比較文明論など、説得力のない日本論が流布している。

日本列島では、地質による制約によって大陸からの技術はそのまま使うことができない。日本は、世界の他の地域と較べてみると特異な地質で、4枚の地殻プレートが重なることによって、険阻な地形形態をしており、火山活動が活発で地震の多発する地域となる。そのことから、大陸から伝播した石造技術は地震に弱く利用できない。これまでに受けた数々の斜面倒壊や地震災害の経験は、文明の発達にも影響を与え、耐震構造を強める建築様式が発達し、自然の動きに順応できる生活様式を生み出してきた。

他にも、自然災害や疫病などの災厄を回避するため、古代の人々は自然との対話方法や宗教儀礼を編み出してきたが、自然の営みを科学的に解明した現代の人間にとっては、改善の効果のない迷信となるものもある。しかし、非科学的なものとして否定することなく、過去に生きた人々が経験から築き上げた叡智や危険回避方法として再検討を試みる必要がある。例えば、安定した場所には、安全地帯として神社や祠などが建てられていることが多く、逆に災害の多発する地域には、奇怪な伝説が言い伝えられている場合が多い。事実、神社の境内には御神木として巨木がある場合が多く、安定した地盤であることが例に上げられる。土地を活かした非科学的な宗教儀礼も地域文化に影響を与えている。

日本において、独特の地質が様々なかたちで影響を与えているにもかかわらず、地質学は無視されてきた。地域学に、比較文明論や風土論と共に、地質学の新たな観点を加えることによって、日本各地で培われてきた伝統的生活がより明確になることも予想できるのではないだろうか。

(810文字)

2.第二章 第八節 地域生活調査と文献資料=原田信男 —————————————

過去の人々が残してきた文献は、現代の人々の生活の成り立ちを知るための貴重な痕跡である。しかし、その文献を読み解く研究は、現代の私たちの思考を元に考察すると、大きな誤りとなる場合がある。多面性と思考が刻々と変化する人間を調べるアプローチは、歴史学・考古学・民俗学の分野区分の選択は不可欠となるが、1つの学問分野に限定せず、相互補完的に活用していかなくてはいけない。

まず、地域の概要を把握するためには文献調査から始まる。その中で、当時の人々によって記録されたものを「史料」として扱い、後の時代になって記述されたものを「資料」として分類される。歴史学では、『大日本古記録』や『大日本古文書』などを基本的なものとして扱ながら、記録・文書・記述を含めて文献資料として扱う。

日本において、律令国家が成立した後の『風土記』を始めとする政治的に編纂したものは多く残っているが、庶民の日常の生活を記録したものは少なく、研究が容易ではなかったが、大正期に入ると民俗や郷土史研究が盛んになり、資料が充実しはじめる。その中で、近代の地方行政組織レベルの文献資料は、ミニ官僚的思考が強く、散逸し保存状態が悪いが、その反対に当事者達が制作した史料は信憑性が高く詳細に知ることができる。文献史料が残りにくい民俗史を研究するには、文献を糸口としなければいけない学問的弱点を補うため、人々の習慣や口伝で伝わったものを地道に聞き取る調査が必要となる。地図と共に地域へ足を運び、聞き取り調査をしていると思いも付かない事実が発見できることもある。しかし、調べるテーマをしっかりと意識しなければ、必要な調査結果が得られない恐れや、実りの少ない調査に終わる。

問題意識を明確にし、研究者の機動力と視点の広さ、多種の学術分野の成果を積極的に取入れ、見識の広さと柔軟性が必要とされる。地域調査においては、文献資料を読むばかりではなく、自分の体を使って理解する態度が最も重要である。

(815文字)

3.第三章 第三節 鎮魂という人々の営み—死者の主体を語れるか=北條勝貴 ———

誰もが訪れる死、科学が発達してもなお、避けて通ることができない生命としての呪縛。住職として葬儀の説法をおこなった際の喪主との会話の回想から、生者と死者の対話のあり方を問いなおす。

人は現世で命が果てたのちにも世界があると考え、様々なあの世の世界を想像する。死後の世界がどうあるのか、生命の終焉は一己の問題だけで終わらず、国家的規模でも扱われ、死者の魂の行き先を推測し続けてきた。しかし、対話のできない死者の回想は危険を伴う。特に歴史学者が扱う問題は影響力が強く、死者との関係について慎重に問いなおされている。人間は、生命の繋がりの中にある知識の伝承によって文化的営みを発展させ、死者が現世に残した言葉と痕跡によって現在の社会が成り立つ。その中で、死者と倫理的関係を築くことは可能なのか。対話のできない死者の主体を語ることや批判をすることは、人文学全般に共通する問題なのである。

これまで、死後の世界との関係は宗教的思惟が担ってきたが、無宗教という意識が広がった近代日本において、死者の存在は多様な分野で思考を迷走させる。現世に生きる者は、まだ見ぬあの世の世界にも現世のモラルや規律を適用し、他界した者をも正邪によって振り分ける。その中でも、非業の死を遂げたものが、現世に生きる我々に残したインパクトは大きく、様々な呪縛を与え、御霊会などによって鎮魂を祈願してきた。しかし、死後の世界は現世の思考が適用できるものなのだろうか。現世での関係が深ければ深いほど、この世に残された者は、記憶の中で死者への回想が高まる。

現代でもあらゆるメディアで死が扱われ、死者の声を代弁し、語り続けられる。しかし、終焉を迎えた人は同じ生命として二度と再生されることはなく、死者が現世に残した言葉以外に語ることはない。我々生者は死を客観的に受け止め、安易な終着点を求めず、死というもから受けた爪痕に耐える精神を養い、これからも長い間向き合っていく必要がある。

(814文字)

4.まとめ 地域性の価値と問題 ————————————————————————

人間の文化的営みは、生命と思想の連鎖によって育まれる。その思考の連鎖は地域によって違いがあり、地域外の文化に対して違和感を感じることは、生まれ育った地域の中で作られた価値観で生きているという証である。1人の自我として、自由に思考していると思っていることですら、地域の人々が考えてきたことを受継いだもので、過去の人々の思考の内にある。

地域文化というものは、異文化と融合することでも発展してきており、固有性に特別な価値があるわけでもないが、現代は地域文化という考えの中に、二極化した2つの問題があるのではないだろうか。

1つは、地域の文化価値が低下し、文化の融合によって平均化が進み、地域文化というものが明確に示しにくくなっている。2つめは、メディアの発達によって情報の大量配信が行え、伝達スピードも早くなり、通念の違いを理解するための緩やかな和合ができないでいる。急激に精神的気質の違い知ってしまうことは、地域ごとの隔たりを大きくし、問題が大きくなると民族紛争にも繋がる。

日本においても、明治時代以降には西洋の文化を取り入れ、西洋化した生活習慣が日常化している。その日常の生活も、物流の発達によって資源や食料を輸入することで生活をまかない、対外貿易によって経済活動を維持している。しかしそこには、異文化との駆け引きと、民俗紛争による危機的状況に陥る不安がはらむ。地域学は、文化を研究する1つの学術分野に留まらず、自国の文化が消滅しつつあり、生活習慣に違和感を感じた現状と、異文化との関係に危機感を感じ、今後、日本という国が世界の中でどのような立場をとるかを考える上で、意義ある研究となるのではないだろうか。

最後に、私自身が生活してきた京都という地は、様々な伝統文化が育まれた地域として、文献も豊富にあり、地域学を学ぶ上で恵まれた環境ではないだろうか。私が受継いだ地域性を再考するため、居住する地域の研究を進めていきたい。

(808文字)

(総数3247文字)

参考文献———————————————————————————————————

浅見洋『鈴木大拙と日本文化』朝文社 2010年6月18日