共通T----------美術史基礎3-課題1-解説

キャプションとディスクリプション集です。

私が提出した時は、ディスクリプションも項目が分けられていないときでした。

学生なのでぼちぼち間違っているところもあります。

参考程度に。

リストーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1,青銅器

2,兵馬俑(始皇帝稜兵馬俑坑出土)

3,伝・顧愷之《洛神賦図巻》(北京・故宮博物院)

4,敦煌第285窟壁画

5,《菩薩立像》(京都・藤井有鄰館)

6,《仏坐像》(雲岡第20洞、460年代)

7,《弥勒菩薩像》(敦煌第275窟)

8,唐三彩

9,《鍍金花鳥文銀製八曲長杯》(兵庫県・白鶴美術館)

10,《盧舎那仏像》ほか(龍門石窟奉先寺洞)

11,《菩薩半跏像》(旧・天龍山石窟、東京国立博物館)

12,《薬師浄土変》(敦煌第220窟壁画)

13,関同《秋山晩翠図》(台北・故宮博物院)

14,伝・薫源《寒林重汀図》(兵庫・黒川古文化研究所)

15,范寛《渓山行旅図》(台北・故宮博物院)

16,郭煕 《早春図》(台北・故宮博物院)

17,李公年《山水図》(プリンストン大学美術館)

18,徽宗《桃鳩図》(日本・個人蔵)

19,伝・李唐《山水図》(京都・大徳寺高桐院)

20,馬遠《清涼法眼図》(京都・天龍寺)

21,夏珪《風雨舟行図》(ボストン美術館)

22,牧谿《観音猿鶴図》(京都・大徳寺)

23,耀州窯の青磁

24,龍泉窯《青磁鳳凰耳花生》(和泉市久保惣記念美術館)

25,倪瓚《漁荘秋霽図》(上海博物館)

26,顔輝《蝦蟇鉄拐図》(京都・知恩院)

27,因陀羅《禅機図断簡(布袋図)》(東京・根津美術館)

28,呂紀《四季花鳥図》(東京国立博物館)

29,唐寅《山路秋声図》(台北・国立故宮博物院)

30,石濤《細雨虬松図》(上海博物館)

31,八大山人《安晩帖》(京都・泉屋博古館)

32,景徳鎮の作例

1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

饕餮文方鼎(とうてつもんほうてい)

青銅製

高さ100cm、口横長62.5cm、重量82kg

殷中期

河南鄭州市張寨出土

四川省文物考古研究所蔵

●ディスクリプション

中国で青銅が本格的に造られはじめたのは中国最古の王朝殷と推測されており、優れた青銅が多く発見されている。この銅器の側面には威厳のある神を表した獣面文様が複雑に刻まれている。発掘時に底部と足には煤が残っており、動物の肉を煮炊きした痕跡もあったと報告されていることから、おそらく祭事の際に使われたもので、神に捧げるための神事の中心的役割をはたす器であったと考えられている。早期のものとして発掘されたその他の銅器は、小型のものに過ぎなかったが、中期になると鋳銅技術が向上し、このような大型のものが鋳造できるようになった。この銅器も内外合わせて約23個の鋳型から造られたものを溶接して、複雑な工程で造られている。この鼎は中国殷代工人の金属鋳造技術の水準の高さを示した名品といえる。

(備考)

縦目仮面、青銅製、82.5×78cm、三星堆文化(前16〜前11世紀)、四川省広漢市三星堆遺跡出土(こうかんしさんせいたいいせき)、四川省文物考古研究所蔵

各部を極端に誇張しユニークな顔つきをしたものである。三星堆を統治した古蜀国の初代の王を顔を模して造られたと考えられている。中国ではこのような複雑で巨大な銅器が多く発見されており、世界的にみても高度な鋳造技術があった。

2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

跪射武士俑 きしゃぶしよう

陶器

120cm

秦(前3世紀末)

陝山省、始皇帝陵1号兵馬俑坑出土

陝西省博物館蔵(せんせいしょう)

● ディスクリプション

中国を統一した秦の始皇帝は生前から墓陵を造り、没後に墓陵を守備するために東側の地下に7000体を超える陶製の軍隊を埋設した。この俑はその兵士のうちの1体で、地下5m、高さ2m、横幅約3.5mの空間に置かれた膨大な数の俑は、体のブロックごとに造ったものをそれぞれの人物の姿勢によって表面を細工し、焼成後に彩色して仕上げられていた。それぞれの俑は面貌が異なり、髪型から靴底まで徹底した描写がされており、当時の人々の様相がわかるほどにリアリズムが追求されたものとなっている。皇帝の命によって造られ、造形美を追求したものではないが、当時の陶工が膨大な数の俑を造るために考え出した手法は、その後の中国の陶磁史に大きな影響をあたえたといっても過言ではない。

(備考)

《秦始皇帝稜》東西345m 南北350m 高さ76m 秦(前3世紀末)陝山省臨潼県驪山(せんせいしょうりんとうけんりざん)

始皇帝陵は39年の歳月を費やして造られた。この兵馬俑があった 兵馬俑坑は陵墓の東側約1km先の位置にある。

3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

伝顧愷之(こがいし)

(344〜405年頃)

洛神賦図巻(らくしんふずまき)

1巻

絹本著色

27.1×572.8cm

東晋時代(とうしん)

北京故宮博物院

●ディスクリプション

人文画、山水画の始祖とされる顧愷之の伝承作品として、大英博物館の『女史箴図』と共に有名なものである。詞書きのない自然景観が連続して描かれた連環式構図をしたもので、洛都洛陽に流れる洛水に現れた女神 妃と詩人曹植との恋愛ストーリーが展開されたものである。漢時代までに描かれていた人々に戒めを教化する勧戒画とは違い、六朝時代の絵画は自由な精神で絵画を表現する領域が飛躍的に拡大し、技法や線描表現も発達した。顧愷之の線描は『蚕の吐く絹糸』といわれ、漢時代までの対象の外見を描くための輪郭線ではなく、生命感や精神の内面性を表現しようとすることが重視されている。構図は人物を大きくして背景の山を小さくし、樹木も図式的に描かれ、六朝時代の人物画の空間表現を今に伝える重要なものである。

(備考)

顧愷之、女史箴図(じょししんず)(部分)、25.0cm×349.5cm、絹本著色、東晋時代、大英博物館蔵

洛神賦図巻と同様に、この図も唐代の模写とされている。しかし顧愷之の画風を今に伝えるものとして貴重なものである。

4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

敦煌第285窟

壁画

幅6.4m、奥行5.9m、高4.3m

西魏538〜540年

甘粛省 敦煌莫高窟 第285窟

●ディスクリプション

方形窟をした内部は3つの龕があり、それぞれに仏像が安置された禅定窟である。天井のラテルネンデッケの図様を中心に、大般涅槃経にある『得眼林』の五百強盗成仏図が描かれ、窟内は仏教と神山思想が入り混じった悟りを得た者が登ることのできる理想の世界が描かれている。中国の神話世界に登場する神々や中国的な文様で満たされたなかにも、壁面各部にインドの神像も描かれている。このことは中国が西方の文化を取り入れるために、敦煌が西方を結ぶ要衝の地として重要な場所であり、その過程を知ることができる貴重なものである。また、莫高窟のなかでも保存状態がよく、北壁供養者列像の題記に紀年銘が残っており、敦煌にある他の窟の造営年をさかのぼる手がかりとしても注目されている。

(備考)

敦煌 莫高窟外観

敦煌は200年にわたり造営された仏教芸術の宝庫として名高い。初期の石窟は5世紀初めの北涼のころと考えられ、早期の石窟は僧侶が坐禅修行をするための房室を設けられている。

5ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<菩薩立像>(京都・藤井有鄰館)

重要文化財

菩薩立像

?員数

銅造

33.1cm

3〜4世紀

陝西省三原県出土

日本、藤井斉成会有鄰館蔵

● ディスクリプション

左手に水瓶を持つ菩薩は、ガンダーラや中インドでは兜率天上の弥勒菩薩として信仰されていた。弥勒菩薩は仏滅後の救世主としてガンダーラや中央アジアの遊牧民族に崇拝されていた仏である。がっちりとした体に縵網相のあるたくまし両手が特徴的となるもので、大きな顔面で両目は大きく見開いき、髪は肩まで垂らされ、胸には2匹の獣が双獣胸飾としてあしらわれている。ガンダーラ風の趣が際立つもので、サンダルを履いた姿はガンダーラ仏の特徴である。中国での仏像制作は仏教伝来よりやや遅れておこなわれ、初期のものはインドの仏像の模倣から始まったと考えられている。制作は中央アジアとする説もあるが、この立像は中国において、初期の金銅仏として中国独自の仏像様式へ発展する過程を知るうえで重要な仏像といえる。

(備考)

如来坐像、銅造、39.7cm、後趙(338年)河北省石家荘出土、アメリカ、サンフランシスコ・アジア美術館蔵

中国で造られた現存する最古の金銅仏である。藤井有鄰館の菩薩立像と近い時期に造られたものであるが、作風も違い、中国独自の仏像が造りはじめられたことを示すものである。

6ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<仏坐像>(雲岡(うんこう)第20洞、460年代)

如来坐像

?員数

石造

1370cm

北魏(460〜467年)

山西省大同市雲岡洞第20洞

●ディスクリプション

雲岡石洞は、北魏の僧の中心的存在であった曇曜の提案により、五代続く皇帝を記念して第五代文成帝が国家事業として造営した、権力の象徴を示したものである。小型の洞も含めれば100を超えるものがあり、その中でも第16洞から第20洞までの5洞を『曇曜五洞』と呼び、この第20洞は五帝のうちで第二代明元帝を記念するものと伝える。堂々とした体躯に幾何学的な強い衣紋線が特徴の『雲岡様式』といわれるもので、大衣が躯体に密着し、胸から股にかけて幾重にも弧を描くところは廃仏以前の北魏の仏像様式を踏襲し、インドのマトゥラー彫刻にも通じる印象を与える。北魏では皇帝自らが仏教信者となり皇帝を生き仏として奉ったもので、国家統一に仏教信仰を利用した北魏独特の仏教文化の象徴として重要なものといえる。

(備考)

雲岡第16洞仏立像(部分)、石造、1350cm、雲岡早期、山西省大同市雲岡窟第16洞

雲岡五洞のうちで第16洞の本尊のみ他の本尊と異なる服装をし、南朝貴族の服装に由来した中国式の服装が着せられている。肌の露出を嫌う漢民族の好みに合わせたものであると考えられている。

7ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

弥勒菩薩像

粘土

?1躯

340cm

5世紀前半

甘粛省敦煌莫高窟 第275窟

●ディスクリプション

敦煌の第275窟は最古の石窟として名高く、この弥勒菩薩像はそのなかにある初期に造られた最大の彩色塑像である。奥行7mの単室の正面に泰然と両手を広げて坐り、台座の両側にある獅子像とともに人々を迎えるように安置されている。中国にはみられなかったイランの王侯の坐法に基づく交差する脚が特徴的なもので、ガンダーラやキジル石窟の兜率天上の弥勒菩薩交脚像に通じ、顔の表情と全体の浅い彫りは中国の伝統的な俑を思わせ、漢魏以前の中国の伝統と西方的要素の混在した像容といえる。また、両肩をおおう衣は桐社風の鋸歯文をし、雲岡初期の『曇曜五窟』の像の傾向に近く、第20窟の像との関連を推察させる。親しみと慈悲に満ちた表情は、石窟が造営された北涼時代は争乱の世で、多くの人々の救いに応じたように感じられるものである。

(備考)

弥勒菩薩説法図(部分)、壁画、104.0×261.0cm、7世紀、新疆ウイグル自治区キジル石窟224窟(第3区マーヤー窟)出土、主室前壁上部壁画断片、ベルリン、インド美術館蔵

弥勒菩薩が交脚して兜率天宮で説法する場面が描かれている。

8ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

唐三彩(自由選択)

重要文化財

三彩貼花文龍耳瓶(さんさいちょうかもんりゅうじへい)

1口

?陶器

高さ47.4cm

唐(8世紀)

東京国立博物館蔵

●ディスクリプション

龍耳瓶は随から盛唐にかけて好まれて造られたもので、現存する唐三彩の龍耳瓶で寸法が30cmを超えた最大級を誇る珍しいものである。唐三彩の龍耳瓶は作例も極めて少なく、他のものは粗雑な造りをしており、この三彩龍耳瓶は最も格調の高い華麗な趣を与えている名品として知られる。胴の三方にある型抜きによって造られた大きな宝相華のメダイヨンがアクセントとして入れられ、流れの入り混じる濃い釉の効果とあいまって豪華な仕上がりになっている。唐三彩は、白土の上に緑・褐・黄・白の釉薬やコバルトを用いた藍釉をかけ流して焼成したもので、華麗な色彩が国際的にも絶賛された。しかし、唐朝の衰退とともに生産も終息し、のちに耀州窯や越州窯のものが唐三彩に変わって完成度を高めていった。

(備考)

唐三歳彩、駱駝楽人俑、58.4cm、唐時代(723年以前)、西安市于庭誨墓出土、北京市社会科学院考古研究所蔵

日本でも遣唐使によって唐三彩が運ばれ、生活器が多く残されている。このような大きな人物と動物の俑は日本では少ないが、唐三彩の中でも名品として上げられている。

9ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

重要文化財

鍍金花鳥文銀製八曲長杯

?員数

銀器

長15.1cm

唐時代

兵庫県、白鶴美術館蔵

●ディスクリプション

中国では、唐代になり西方の物品の影響を受けた生活用器が作られるようになった。ペルシャや西方のシルクロード沿いの国々で作られたものが長安で広まり、唐代工人はそうした器に影響を受けて今までの中国にはない新たな食器を作りだした。西方のペルシアから伝わった八つの弧がつながった八曲長杯の形をもとに、側面の文様を唐の人々が求める中国的な特色をもつ植物文に発展させて、精緻な文様の銀器を作りだした。側面には端整にそろえて刻まれた魚子が整然と打ち込まれており、宝相華唐草と華卉や双禽を交互に配し、文様部分だけに鍍金を施している。中国の唐代の金銀器は、外来から伝わる影響を受けたものが多いが、西方で作られた金銀器を手本に、手本を超えた冴えをみせる名品が作られた時代である。

(備考)

鍍金銀人物文八曲長杯、銀鍍金、長28.2cm、6〜7世紀頃、 イラン、ササーン出土、天理大学附属天理参考館蔵

中国の金銀器に大きな影響を与えたササーン朝の銀器である。裸体婦人像は中国では受け入れられず中国的な植物文に変わった。

10ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<盧舎那仏像>ほか(龍門石窟奉先寺洞)

盧舎那仏像ほか

?員数

石造

盧舎那仏 17.14cm

唐時代(675年)

龍門石窟奉先寺洞(ほうせんじどう)第19洞

河南省洛陽市

● ディスクリプション

唐王朝の皇帝高宗の勅願による龍門随一の大洞で、皇帝を現実世界の支配者として仏教世界の中心となる盧舎那仏になぞらえ、国家的規模で造営されたものである。伊水の東西両岸に切り立つ石灰質の岩山に大小1300以上の洞があり、第19洞は本尊盧舎那仏坐像を中心に左右には羅漢・菩薩・天王・力士の立像が相称形に彫り出されている。盧舎那仏坐像の表情は、切れ長の目と、ひきしまった唇によって意思的な表情がつくられ、衣文の表現は滑らかで写実的な表現が意識されたものになっている。この時代はインドの僧や西域の僧の往来も盛んで、中国の伝統と西方の文化が融合した新しい仏教美術の様式が開花し、中国美術史上屈指の良品が生み出された時代である。写実的で理想的な人体の表現を獲得するために、外来の要素を積極的に取り入れたこの時代の彫刻の完成形といえるものである。

11ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<菩薩半跏像(旧天龍山石窟、東京国立博物館)

菩薩半跏像

1駆

砂岩

139.4cm

唐時代、開元年間675年

山西省太原、天龍山石窟第14窟将来

東京国立博物館蔵

●ディスクリプション

長い間、中国では仏像彫刻に実際の人物のような抑揚のある体躯表現が禁じられ、ガンダーラや西方から伝わる要素を拭い去った仏像彫刻が造られていた。しかし六世紀半ばころからインドや西域への憧憬が高まり、肉体否定へのこだわりは薄れ、写実的な理想の人体表現を追求しはじめた。天龍山石窟は東魏から盛唐期にかけて、山西省の東西峰の断崖に24の石窟が開盤された所である。この像はかつて第14窟西壁に安置されていたもので、写実的な肉身表現が表れ始めた盛唐期の特徴が最も表れたものである。天龍山石窟の現状は、今世紀にはいって人為的な破壊に遭い、痛ましい状況を呈しているが、各地の美術館に保存されている断片から傑出した彫刻が集まった石窟であったことが知れ、この彫刻も唐時代の写実的な様式の頂点に位置づけられているものである。

(備考)

菩薩坐像頭部、砂岩、高35.0cm、唐時代 7~8世紀、天龍山石窟、根津美術館蔵

天龍山石窟の第21窟の北壁にあった菩薩坐像の頭部である。ふくよかな肉付けで、柔らかさを感じる写実的な仕上がりをしている。

12ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

<薬師浄土変>(敦煌第220窟壁画)

薬師浄土変相図

?員数

壁画

第220窟寸法、1辺約5m

唐(貞観16年)(642年)

甘肅省敦煌市(かんしゅくしょう)

●ディスクリプション

唐時代になり中国では石窟の壁面に浄土図の装飾を施すようになった。第220窟は釈迦如来像を安置した龕のある伏斗形をした窟で、北壁の1900年代に重ね描きされた壁画を剥離すると、唐代に描かれた薬師浄土変相図が現れた。南面に描かれた阿弥陀浄土変相図と共に見応えのあるもので、東方世界にあると考えられていた薬師浄土が壁画全面に描かれており、南北時代の連環画形式とは異なり、中心に集約して構成した新たな形式のものである。敦煌は前代に続き造営がおこなわれたところで、同代の長安と洛陽の寺院にも多くの仏教壁画が描かれていたようであるが、現在では多くが失われている。そのなかで唐期の絵画形式が反映された貴重な作例といえるもので、貞観16年の墨書銘もあることから、造営年代の特定できた重要なものといえる。

(備考)

阿弥陀浄土変相図、敦煌莫高窟第220窟南壁、唐(貞観16=642年) 甘肅省敦煌市(かんしゅくしょう)

南壁に描かれた阿弥陀極楽浄土図である。宝池を中心に、阿弥陀如来と脇侍菩薩に生まれたばかりの化生童子が描かれている。

13ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

関同(かんどう)

<秋山晩翠図>(しゅうざんばんすいず)(台北・故宮博物院)

?生きた年代 五代初10C前

秋山晩翠図

1幅

絹本墨画淡彩

145.5×57.3cm

五代(10世紀)

台北、故宮博物院蔵

●ディスクリプション

屹立する山々を高遠深遠法で描かれたもので、神仙が住むような奇観な山岳を力強い筆致でとらえ、壮観な自然の光景を描く山水専門画家として名を知らしめた華北山水画を代表する関同の作品である。始めは荊浩に画を学び、荊浩の縦方向の動きを基調にした皴法を継承して『出藍の美』と称されるまでになり、師を凌いだ関同の山水画の世界は『関家山水』と呼ばれ、独自の画風を編み出すまでになった。しかし、画中に人物を描く場合は自ら描かず、同時代の画家の胡翼に任せることが多かったと逸話が残る。この図も画面左下のわずかに描かれた橋や道によって人の気配を感じさせる程度にとどめられている。この図は、各部にぎこちない描線と模写の際の写し崩れとみられるあいまいな部分があり、北宋期の模本と考えられている。

(備考)

荊浩(唐末→後梁10C初)雪景山水図、絹本着色、138.3×75.5cm、五代、W.R.ネルソン美術館蔵

荊浩は北宋山水画の原型をつくった人物である。この図は、1930年代に山西省の墳墓で発見されたもので、荊浩の作品として確かな検証はされていないが、荊浩様式を符合する点が多く、山水研究にとって好資料の出現といえるものである。

14ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

重要文化財

伝薫源(とうげん)

?生きた年代

寒林重汀図(かんりんちょうていず)

?員数

原本、絹本墨画淡彩

181.5×116.5cm

五代(10世紀)

兵庫県、黒川古文化研究所蔵

●ディスクリプション

薫源は五代南唐の宮廷画家で、この作品は現存する数少ない薫源の伝承作品とされるもので、宋代の模本とみられている。しかし、江南山水画の始祖とされる薫源の作風を今に伝える貴重な作品である。この図は、初冬の江水と汀渚のつづく江南の水郷地帯が描かれたもので、華北山水画の荊浩や関同の岩山の高さを強調したものとは異なる画風を特徴としたもので、江南の湿潤な山や土坡をやわらかな線描で写実的に描き出している。薫源は北宋後期の米芾によって再評価され、明代中期以降、後継者の巨然と共に江南独自の南宗山水画の本流とされ、後世の人文画に大きな影響をあたえている。画面には南宋理宗朝と元朝の殿閣印、明末の米万鐘の鑑蔵印が捺され、多くの人物が収蔵してきたことを物語る。

(備考)

伝巨然、?生没年不詳、層巌叢樹図(そうがんそうじゅず)、1幅、絹本墨画、144.1×55.4cm、北宋(10世紀後半)、台湾、鯛生永、台北故宮博物院蔵

巨然は、山水画を薫源に学んで江南山水画の画法を受け継いだ人物である。巨然筆と伝える作品は多く存在するが、この図が最も質の高い作品とされるものである。

15ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

范寛(はんかん)

<渓山行旅図>(台北・故宮博物院)

?生きた年代

渓山行旅図(けいざんこうりょず)

?員数

絹本墨画淡彩

206.3×103.3cm

北宋(10世紀後半〜11世紀前半)

台北市、国立故宮博物院蔵

●ディスクリプション

范寛は、北宋時代の華北山水画の系譜に連なった三大山水画家の1人である。多くの山水画家が模本でしか残っていないなかで、本図は范寛の真筆と伝える貴重な作品である。はじめは李成の山水画を学ぶことをしたが、自然を描く山水画は自然そのものを師としなければいけないとして、山中にこもり独自の画風を創出した。垂直方向の短い線描を重ねる雨点皴といわれる特徴的な筆法は、高遠を重視した迫力のある構図の中にも緻密な描き込みをして画趣を高める配慮がされている。范寛は性格が温厚で寛大であったところから『寛』とあだ名が付けられたと伝えるが、生涯については資料が少ない人物である。しかし、その画業は李成派と范寛派の華北を二分するほどの一大様式を確立し、本図は後世の山水画家の規範となった北宋時代の山水画の集大成というべき作品である。

(備考)

李成 喬松平得遠図(きょうしょうへいえんず)、絹本墨画、205.6×126.1cm、五代末北宋初(10世紀)三重県、澄懐堂美術館蔵

李成の画風は、荒涼と広がる平遠のなかに樹木を組み合わせた寒林平遠が特徴とされ、范寛の高遠山水に対して、李成の平遠山水は華北地方の二大様式として流行した。

16ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

郭煕 (かくき)

?(?1023〜?1085年)

早春図

絹本墨画淡彩

158.3×108.1cm

北宋(熙寧(きねい)=1072年)

台湾、台北、故宮博物院

●ディスクリプション

宗時代は、宮廷画家の制度を整備して全国の画家を『翰林図画院』とよばれる画院に集めて皇帝や国のために絵画を制作させた。その画院長となった郭煕の現存推一の真髄作品である。巨大な山岳を『巻雲皴』の皴法によって表現し、墨の単色による枯木や岩肌の表現は、奥行に沿って量感と質感をあたえながら描き分け、高遠、平遠、深遠に三分割した『三遠法』の構図によって奥深い絵画空間に仕上げている。写実性と理想主義がバランス良く保たれた郭煕の画風は、李成の平遠と范寛の高遠の華北の二代様式を統合したもので、中国の基本的な構図法となる山水画の様式を確立させた。その理論を郭煕の息子である郭思が『林泉高致集』に実践論と古典的様式をまとめ、その理論を実作で示したものがこの図といわれる。正統な院体画風を確立した郭煕は、画院でも継承者の育成で活躍し、後世の画家に大きな影響を与えた。

17ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

李公年

(?〜1100〜1124〜?)

山水図

?員数

絹本墨画淡彩

130.0×48.5cm

北宋(11世紀後半〜12世紀前半)

ニュー・ジャーシー州、プリンストン大学付属美術館蔵

● ディスクリプション

徽宗朝の文臣であった李公年は、季節や朝暮の景趣をテーマにした山水画を得意とした画家である。主山の形態は巨然の影響があり、郭煕の筆致や李郭派の形式、華北と江南山水画の様式を図式的に折衷した新たな表現を試みたもので、多くの系統の表現を取り入れた山水表現を追求したものである。この図は夜の景色で、華北の風景の中に小さく月が描かれ、月明かりに照らされた山々が高遠の構図で捉えられている。雲煙の表し方が特徴的で、幻想的な空間を表出したことは詩的意趣を追求したといえる。李公年の山水は、中国において初めて制作された所蔵絵画の専書である『宣和画譜』に『騒人詩客の賦詠に合す』と記されている。この頃から、中国山水画は自然の本質を極める写実的山水画から、情趣を主眼にした理想化した山水画表現に発展していった。

(備考)

宣和画譜、25×16cm、元大徳六年(1302)、台北故宮博物院蔵

宋時代の内府所蔵絵画を譜録した全20巻からなる中国初の専書である。晋代から宋代の画家231名の作品が収録されている。

18ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

国宝

伝徽宗(きそう)

1082〜1135年

<桃鳩図>

?員数

絹本著色

28.6×26.0cm

北宋(大観元=1107年)

日本、個人蔵

●ディスクリプション

芸術家皇帝として知られる徽宗の作品である。第6代皇帝神宗の十一子として生まれて優雅な藩邸生活を送っていた。しかし、第7代皇帝哲宗が病疫のために退位して予期せず帝位についたが、政治には興味を持たずに画院の指導者として文芸を保護し『風流天子』と呼ばれた。徽宗自信も花鳥画の名手として院体の花鳥画を確立させ、過度の写実や装飾性にも走らない絵画性の調和を保った詩情の表現を描き出した。この図も輪郭のない没骨技法で描かれたもので、鳩の丸みと柔らかさが合致し、程よい色彩とともに鳩の華麗さが表現されている。構図は左に偏った中国の伝統的な絵画観からすれば異端な表現ではあるが、御院と花押によって画面全体にバランスが保たれ、花鳥画の新たな構図を確立したといえる。この構図は後世の山水画にも影響を与えたといっても過言ではない。

(備考)

徽宗、草書千字文(部分)彩箋墨書、31.5×1172.0cm、宣和4年(1122年)、遼寧省博物館蔵瀋陽市、遼寧省博物館蔵

徽宗は書にも優れ、『痩金体』といわれる針金のように鋭い書風を創始した。

19ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

国宝

伝李唐(りとう)

?生きた年代

<山水図>

双幅

絹本墨画

各98.1×43.4cm

南宗(12世紀)

京都府、大徳寺高桐院蔵(こうとういん)

●ディスクリプション

日本への伝来は3幅対の観音図の左右脇幅としたもので、長いあいだ呉道子筆とされていたが、のちに李唐の隠し落款が発見されて李唐作となったものである。北宋画院で活躍していた李唐は、北宋が滅亡した後に南宋の初代皇帝高宋のもとで南宋画院に復職した人物である。この図は南宋画の特徴が最も表れたもので、山水空間は余白部分が拡大して片方に重心があり、筆墨も簡略化して観賞するものに想像力を働きかけるような仕上がりになっている。荊浩・薫源以来の深い造詣的思索を重ねて描きだされた画風は、新たな山水画の可能性を切り開き、李唐から李安忠・蘇漢臣によって南宋画院の基礎が築かれ、元明清時代の馬遠・夏珪にまで影響をおよぼした。観音図と配される以前は4幅の四季山水図のうちの2幅、もしくは離合山水図のうちの2幅とも考えられている。

(備考)

李唐、万壑松風図軸、絹本著色、188.7×139.8cm、北宋 宣和6年(1124年)、台北故宮博物院蔵

元明清時代にまで大きな影響を与えた李唐が、南宋院体画の基礎を確立した図といえるものである。

20ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

重要文化財

伝馬遠(ばえん)

?生没年不詳

清涼法眼図

1幅

絹本着色

各79.2×32.9cm

南宋(13世紀)

京都府、天龍寺蔵

●ディスクリプション

南宋院体山水画の大成者である馬遠の作品で、皇帝直筆の賛を予定して描かれた馬遠の渾身の力作である。南宋画の特徴である重心を片方にする対角線構図は、李唐以上に明瞭になり余白部分が増大している。こうした構図は『辺角の景』や『残山剰水』と呼ばれ、絵画空間に詩的情趣を追求したものである。筆墨は法眼宗の祖文益の精神性の描写までも写し取ろうと、慎重でありながら力強くも描かれ、法衣の緻密な色彩法と筆墨法にも馬遠の特徴が顕著に表れているものである。同時代の南宗院体山水画の大成者の夏珪とともに、馬遠の余白のある絵画構成は『馬の一角』と呼ばれ、二人の様式は馬夏様式として継承されていった。また、日本の室町期においても詩情を追求した暗示的な作風は日本の水墨画の模範となり大きな影響を与えた。

(備考)

伝馬遠(ばえん)、?生没年不詳、雲門大師像、1幅、絹本着色、各79.2×32.9cm、南宋(13世紀)、京都府、天龍寺蔵

清涼法眼図とともに双幅として天龍寺に伝わるものである。

21ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

夏珪(かけい)

?生きた年代

風雨舟行図

絹本墨画淡彩

23.9×25.1cm

南宋時代(13世紀)

米国、ボストン美術館館蔵

●ディスクリプション

南宋時代に馬遠とともに活躍した画家である。対角線の下半分に偏った構図で南宋画の様式が明瞭に現れたものである。上部左の大きくとられた余白は極限まで研ぎすまされて無限の空間を暗示し、その余白部分にわずかにのせられた墨は、水墨でしか表せない潤いのある優れた空間に仕上げ、文学的な詩情を意識したものとなっている。また、余白とは対照的に右下の木と岩肌は緻密に描かれながらも不自然なところがなく、有と無が渾然と画面に成立させて一体感のあるものにしている。このような余白のある夏珪の構図は『夏の一辺』といわれ、同じような構図をする馬遠の画風とともに馬夏派として様式化され、南宋院体画の主流となり後世の画家に継承されていった。日本においても室町時代の水墨画に影響をあたえて山水画の模範とされた。

(備考)

国宝、雪舟、山水長巻(四季山水図)(部分)、横約16m×縦40.0cm、室町(1486年)、山口県、毛利博物館蔵

約16mの雪舟の大作である。夏珪の作風を倣って描いたもとの伝わる。

22ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

国宝

牧谿

?生きた年代

観音猿鶴図

3幅対

絹本墨画淡彩

観音図 171.9×98.4cm

猿図 173.3×99.4cm

鶴図 173.1×99.3m

南宋(13世紀)

京都、大徳寺

●ディスクリプション

大きく捉えた空間構成は牧谿の水墨画によくみられるもので、大胆に描き出された白衣観音と鶴猿は、全体の印象とは違い細部まで緻密に描かれている。全体に深い精神性を内包した大気とモチーフの質感の表現は日本では受容されて高い評価を受けた。杭州六通寺の僧侶であった牧谿は、精神修養のあい間の余儀としての創作ではなく、優れた画才を発揮しており、簡略化した画風は南宗以外の画家や画院にも少なからず影響を与えたといってもよい。しかし、中国においては評価を得ていたわけではなく、粗悪、古法無しという批評をされていた。日本においては、室町画壇や長谷川等伯などに模範とされた人物で、将軍である足利義満が収集したことをあらわす艦蔵印の『天山』印が捺されている。

(備考)

重要文化財、長谷川等伯筆、竹林猿猴図屏風(部分)、紙本墨画、1540×361.8cm、六曲1双、京都、相国寺蔵

牧谿の作品を元にして描かれた長谷川等伯の屏風図である。模倣することで牧谿の表現力を学び、自らの新たな絵画空間を造り出した。

23ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

重要文化財

青磁刻花牡丹唐草文瓶(せいじこつかぼたんからくさもんへい)

?員数

青磁

高さ16.7cm

北宋(11〜12世紀)

耀州窯

大阪市立東洋陶磁美術館蔵

●ディスクリプション

同光元年(923年)に青磁窯を耀州の管轄として開窯した重要な時期に造られたもので、隆盛をみせた北宋後期の名品として世界的にも知られたものである。耀州窯で焼造された青磁は、緻密な刻花装飾や押花装飾が主流で、耀州窯を象徴する装飾が顕著に表れたものである。側面に牡丹唐草文を大きく施し、張り出した肩と裾に蓮弁文帯を彫り込んで小さくしぼった口とともに全体を引き締めて器に緊張感をあたえ、図様の溝には釉が深くたまって器体をいっそう引き立てるものになっている。このような太白尊という形態は、宋代の磁州窯・定窯・景徳鎮では多くみられるが、耀州窯では作例が少なく貴重ないものである。釉色は五代の青みがかった釉調から、北宋後期の特徴であるオリーブグリーンをしており、このことは燃料が薪から石炭に移行したことを示している。

(備考)

青白磁牡丹唐草文瓶、高さ15.1cm、北宋(11〜12世紀)、景徳鎮、出光美術館蔵

景徳鎮の太白尊の作例である。太白尊と呼ばれるようになった所以は、唐の詩人『李白』が見近に置いた酒瓶からとったものと伝わる。。

24ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

国宝

青磁鳳凰耳花生(せいじほうおうみみはないけ)

銘 万世(ばんせい)

一口

磁器

高さ30.8cm

口径 10.8cm

南宋(12〜13世紀)

龍泉窯

大阪府、和泉市久保惣記念美術館蔵

●ディスクリプション

このような鳳凰耳瓶は南宋時代を中心に造られ始めた形態で、中国陶磁における古典ともいえる形である。頚部の左右に鳳凰の半身をかたどった耳が付けられたことから鳳凰耳瓶と呼ばれるようになった。この時代の青磁の特徴は、釉層が非常に厚く、何度もかけられて焼成された釉色によって、表面を半透明の深い緑によって全体が被われている。北宋陶磁のような繊細さを求めず、緩やかな曲線によって柔らかな印象を受けるもので、下地の灰白色が青磁釉によって和らげられた色合いは、江南の豊かな土壌によって生み出されたものだということを彷彿させる。日本では龍泉窯で焼かれた『粉青』と呼ばれる白みのある青釉がかけられたものを『砧手』と呼び、多くの茶人に賞玩されていた。『万声』の銘は、第111代後西院天皇によって命名されたと伝わる。

(備考)

重要文化財、青磁鳳凰耳花生 銘『千声』 1口、中国・龍泉窯、中国 南宋時代・13世紀、京都・陽明文庫蔵

鳳凰耳瓶は日本に多く請来されている。京都山科の毘沙門堂に伝来したもので、この鳳凰耳瓶も後西院天皇によって『千声』と名付けられたと伝わる。

25ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

倪瓚(げいさん)

1301〜74

漁荘秋霽図(ぎょそうしゅうせいず)

?員数

紙本墨画

96.1×46.9cm

元・至正15年(1355)

中国、上海博物館蔵

●ディスクリプション

元末を代表する四大家として黄公望・王蒙・呉鎮の山水画家の1人として、多くの文人画家に影響を与えた倪瓚の作品である。大富豪の家に生まれた倪瓚は、芸術三昧の生活を送り、邸内に建てた楼閣には数々の名品を収蔵し、多くの文人のたちが集まるサロンとしていた。しかし50歳を過ぎたころに漂泊の旅を始め、四大家に共通した隠棲や各地を遍歴する自由な生き方を選び、文人画家の模範とされる人生を送った。この作品はその流寓生活の時に友人の漁荘に訪れて描いたと伝わるもので、五代北宋の荊浩や関同の風格を用いて、故郷を遠く離れた悲傷を表すために樹木の葉をすべて落として、実際の風景ではない心象風景を表現したものといわれている。また、この作品は簡雅と評された自らの形式を確立する前の作品で、その芽生えが表れはじめた作品である。

(備考)

黄公望、富春山居図巻(部分)33.0×636.9cm 元(至正10)(1350年)、台北、国立故宮博物院蔵

元末四大家の1人、黄公望の約6メートルある大作である。黄公望も江南地方を遊覧し、晩年は浙江省の富春山に隠れ住んだと伝わる。

26ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

重要文化財

顔輝筆(がんき)

?生きた年代

蝦蟇鉄拐図(がまてつかいず)

?員数

絹本着色

各幅 191.3×79.6cm

元時代(13世紀)

中国

京都、知恩院蔵

●ディスクリプション

元時代を代表する道釈人物画家の顔輝の作品である。元時代の始めに編集された「画継補遣」によると、宋時代の末頃にはすでに画風を確立して世に名を轟かせていたと伝える。蝦蟇・鉄拐は、金代の王重陽が始めた道教の中でも大きな勢力をもっていた全真教の二仙である。衣文などの肥痩ある線描と手足や顔面の歪曲された描写を、自然と背景に解け合わせた画力は巧みで中国における神仙思想の深い神秘性を鑑賞者の心情に印象を与える。元時代の絵画は顔輝のような職業画工の存在があり、中国絵画史を人文画の歴史として捉えてしまうわけにはいかない好例といえる作品である。顔輝の画風は明時代の職業画家達に引継がれ、日本においても室町時代には大きな影響をあたえており評価が高いものであった。

(備考)

重要文化財、明兆 鉄拐図 紙本淡彩230.0×118.0cm、15世紀、京都、東福寺蔵

室町初期に宋・元の画風を研究した僧侶である。顔輝の絵をもとに、明るく平明な作品に仕上げている。

27ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

国宝

因陀羅(いんだら)

?生没年不詳

禅機図断簡(ぜんきずだんかん)

布袋蔣摩訶問答図(ほていしょうまかもんどうず)

1幅

紙本墨画

35.7×48.8cm

元時代(14世紀)

東京、根津美術館蔵

●ディスクリプション

江南地方で大きく発展した禅宗教団のなかで、僧侶達が独特の水墨人物画を描き始めた。因陀羅は河南開封の光教寺の僧侶であったと伝えるが、詳しい伝記は知られていない画僧である。この布袋図は現存するものが少ない貴重な因陀羅の作品とされるもので、禅機図の長巻の1部を断裁して軸にしたと考えられている。布袋と俗人の蔣摩訶が問答する様子を描いたものではあるが、因陀羅の描く人物はすべて不思議な笑いを浮かべている。笑みを浮かべる人物は他の画僧達にも共通したもので、因陀羅の描いた図も禅僧画僧の系譜に連なったものとなっている。習熟した高度な画法の持ち主ではないが、画人のもつ胸中の機鋒がみごとに表現されたもので元時代における逸品画風を代表するものである。右に書き添えられた賛は楚石凡琦のもので元末から明初の禅僧で能書として知られている。

(備考)

国宝、因陀羅、禅機図断簡 智常禅師図、楚石梵琦題詩、紙本墨画 一幅、35.3×48.3cm、元時代(14世紀)、静嘉堂蔵

他にも因陀羅の作とされる禅機図があり、紙質、描法、題賛、印章などから判断して、もとは画巻であっと考えられている。

28ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

重要文化財

呂紀(りょき)

?生きた年代

四季花鳥図

4幅

絹本著色

各176.0×100.8cm

明時代(15〜16世紀)

東京国立博物館蔵

● ディスクリプション

呂紀の作品で、4幅対のすべてが現存するものは他に例がなく貴重な作品である。花鳥画を得意とする明時代弘治朝の宮廷画家として活躍し、日本でも広く知られている。四季山水図や花鳥図は明時代に盛んに描かれており、この図も四季花鳥図と類を分けるが、古法の水墨山水画の要素に装飾的な技巧で著色された絢爛な花鳥を加え、水墨と著色の巧みな融合で従来にない躍動感のあるスケールで完成させたものである。中国で、山水画と花鳥画を組み合わせた様式を継承した者は、呂高・呂健・蕭増の名が挙げられ、日本でも雪舟をはじめとする室町時代から桃山時代の花鳥壁画様式にも影響を与えた。落款は錦衣衛指揮になってからのもので、画院在職中の呂紀の円熟期に制作された最優品といえる。

(備考)

重文 、四季花鳥図屏風、伝雪舟等楊、絹本著色、1双、室町時代、京都国立博物館蔵

雪舟の現存する作品は大半が弟子によるものであるが、貴重な雪舟直筆と伝えるものである。巨木の水墨の力強さに鶴と草花の華麗さが対比された、中国花鳥画の影響が顕著に表れたものである。

29ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

唐寅(とういん)

(1470〜1523)

山路秋声図(さんろしょうせいず)

1幅

絹本墨画淡彩

194.5×102.8cm

明・正徳11年(1516年)頃

台北、国立故宮博物院蔵

●ディスクリプション

絵の中に流れる滝は、素早い筆使によって険しい岩山に響きわたるように描き出された臨場感ある山水画である。明四大家の1人に数えられる唐寅は、文人としも第一級の人物であり院体画の巨匠として知られている。画中の自題詩によると河南の名山『女几山』が描かれたもので、滝を仰ぎ見る高士は李唐の山水画を思わせ、画面全体は高桐院にある李唐の離合山水図の双幅を折衷した画面で仕上げている。唐寅は粋で奔放な性格で「江南第一風才子」と自称したと伝わる。唐寅の交遊は広く、画を職業画家の周臣に学び、呉派のリーダー的存在であった文微明や、書家の祝允明とも交流があり、唐寅の表現力と技法は多くの画法を踏襲し、文人として豊富な知識から習得したものといえる。成熟期の作品では、題詩に歌われる世界を画中に表現して唐寅自身の様式を確立していった。

(備考)

文微明 春深高樹図 絹本着色170.1×65.7cm 明(16世紀) 上海博物館蔵

控えめな色彩とわかりやすい構図は、まじめな性格があらわれているようである。文微明は唐寅とは正反対の性格で、きわめて勤勉で努力家であったと伝わる

30ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

石濤筆(せきとう)

?生きた年代

細雨虬松図(さいうきゅうしょうず)

?員数

紙本墨画淡彩

102.0×41.2cm

清・康熙26年(1687)

中国、上海博物館蔵

●ディスクリプション

石濤は江南地方を実地に歩き、自身が見た自然の風景を自分の感性が感じたままを描いた作品が多く残されている。晩年にみられる荒粗で潤筆をつかった筆法とは異なり、石濤の作品のなかで中期の南京時代の基準となる作品である。この作品は画題と異なる季節で雨中の風景が描かれているものではなく、画面に書かれた題中の詩句に由来するもが描かれている。乾筆できめ細かく山肌を描き上げ、柔軟な中にも重みのある筆触は、伝統的な筆法に対極した画法で描き上げたものといえる。石濤は明皇帝の一族で、清の支配に対する忿懣を画中に表現した。古人を媒介とした保守的な宮中の画家を否定する独創的な画風を生みだした石濤の意思は、晩年に定住した地、揚州で「揚州八怪」といわれる次世代の画家達に引継がれた。

(備考)

五松図、1幅、絹本墨画淡彩、李鱓筆、縦160.2 横89.0、清時代雍正年間1723-35頃、東京国立博物館蔵

五松とは5人の士大夫を象徴したものである。李鱓は自由奔放な画風を特色にもつ揚州八怪の1人である。江南都市絵画の流れは豪商の庇護のもと独自の画風の画家をうみだした。

31ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

八大山人(はちだいさんじん)

1626〜1705年

安晩帖

?員数

紙本墨画淡彩

第1面31.7×27.5cm

清 康熙33年(1694年)

京都泉屋博古館蔵

●ディスクリプション

主題豊かな22面からなる八大山人の晩年の傑作である。紙の質感を利用して、墨による微妙なにじみと濃淡よる掛け合いで画面が構成され、草々とした筆使いで爽快感を与えながらも筆致はしっかり堅調に描かれている。身近な植物や鳥魚などを変幻自在に展開し、最後の22面には制作の経緯を書いて締めくくっている。八大山人は明の皇族の1人で、清王朝に明皇族とし終生監視され続け、清王朝に抵抗の意思を持ち続けたと伝える。その自由のない生活で絵を描くことは数少ない安らぎと自己表現の手段であったと思われる。安晩帖のそれぞれの紙面に描かれたものは、八大山人の情念と虚無感とが複雑に入り混じった極限の境地の表現であったといえるもので、明の遺民画家の1人として伝統の束縛から離れ、自己の意思と感情を表現した清時代の傑作といえる。

(備考)

徐渭(じょい)、花卉雑画巻(かきざつがかん)(部分)、1巻、紙本墨画、徐渭筆縦28.4 横665.1、明・万暦3年(1575)、東京国立博物館蔵

徐渭は花卉雑画の名手で後世に大きな影響を与えた人物である。八大山人が身近なものを題材にしたことは文人の花卉雑画を継承したものといえる。

32ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

景徳鎮の作例

重要文化財

?作者

?生きた年代

五彩魚藻文壷(ごさいぎょそうもんこ)

?一口

陶磁器

高さ 34.8cm 胴径40.6cm

明・嘉靖年間(1522〜66)

景徳鎮窯(けいとくちんよう)

福岡市立美術館蔵

●ディスクリプション

景徳鎮は中国最大の陶窯で、唐時代を起源に多種多彩な陶磁器を生産した。明時代になり陶磁器の生産は官民両窯がせめぎ合い、染付けの『青花』と、色絵による『五彩』の技術が飛躍的に向上した。この蓮池魚藻の図柄は明時代に好まれた図柄で、丸く張った胴に泳ぎ回る独特の色をした鯉は『黄地紅彩の手法』といわれるもので、黄色の上に赤を重ね焼きし、色彩豊かな水草の中に橙色の鯉が泳ぎまわり、鑑賞者を楽しませるものに仕上げている。官窯では清時代に入ってから絵画性が促進され、大量の受注に対応するため民窯に生産の下請けをさせた。このことにより両窯の技術と感覚のギャップが小さくなり中国陶磁は最高峰に達することになった。現在でも景徳鎮の陶磁器は、世界中で最も知られた完成度の高い陶磁器の典型とされている。

(備考)

重要文化財、粉彩海樹図盤、古月軒、景徳鎮窯、径17.3cm清・雍正(在銘)、東京国立博物館蔵

古月軒は皇帝の座右に置くために作られた特製の器と考えられている。清代では明代の技術を基盤にし、さらに陶磁の絵画性を推し進め、釉彩成分の調合が飛躍的に進歩した。

参考文献リストーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(1)青銅器※《饕餮文方鼎》(四川省文物考古研究所)

・古田進一、山名伸生、木島史雄編『中国の美術見かた・考え方』昭和堂、2005年9月30日

・貝塚茂樹、伊藤道治他、著『中国の美術5銅器』淡交社、昭和57年9月4日

・ 韓中民、ユベール・ドラエ著(田島淳、弓場紀知訳)

『国際共同出版 図説 古代中国5000年の旅』日本放送出版協会、1987年2月20日

・前田耕作監修『カラー版東洋美術史』美術出版社、2008年7月5日

(2)兵馬俑(始皇帝稜兵馬俑坑出土)※《跪射武士俑》(1号兵馬俑坑出土)

・田村正隆発行『世界遺産 建築の不思議』、ナツメ出版社、2007年5月10日

・古田進一、山名伸生、木島史雄編『中国の美術見かた・考え方』昭和堂、2005年9月30日

・ 岸田順一監修『すぐわかる東洋の美術 絵画・仏像・やきもの&アジアの暮らしと美術』

東京美術、平成15年11月20日

・小川裕充監修『故宮博物院第1巻南北朝〜北宗の絵画』日本放送出版協会、1997年11月24日

・前田耕作監修『カラー版東洋美術史』美術出版社、2008年7月5日

(3)伝・顧愷之《洛神賦図巻》(北京・故宮博物院)

・小川裕充監修『故宮博物院第1巻南北朝〜北宗の絵画』日本放送出版協会、1997年11月24日

・古田進一、山名伸生、木島史雄編『中国の美術見かた・考え方』昭和堂、2005年9月30日

(4)敦煌第285窟壁画

・吉良文男著『いまこそ知りたい朝鮮半島の美術』小学館、2002年4月20日

・古田進一、山名伸生、木島史雄編『中国の美術見かた・考え方』昭和堂、2005年9月30日

・宮川寅雄、他、編集『中国の美術3絵画』淡交社、昭和57年6月21日

・ 李最雄、魯芸、山折哲雄、他著『敦煌の美と心 シルクロードの夢幻』

雄山閣出版、2000年7月20日

・下中直也発行『中国石窟 敦煌莫高窟 第1巻 敦煌文物研究所編』平凡社、1987年11月15日

(5)《菩薩立像》(京都・藤井有鄰館)

・松原三郎編集『中国の美術1彫刻』淡交社、昭和57年4月22日

・辻惟雄著『日本美術の歴史』東京大学出版会、2007年8月31日

・ 岸田順一監修『すぐわかる東洋の美術 絵画・仏像・やきもの&アジアの暮らしと美術』

東京美術、平成15年11月20日

・前田耕作監修『カラー版東洋美術史』美術出版社、2008年7月5日

(6)《仏坐像》(雲岡第20洞、460年代)

・青柳正規、東野治之他著『日本美術館全一巻』小学館 1997年11月20日

・松原三郎編集『中国の美術1彫刻』淡交社、昭和57年4月22日

・前田耕作監修『カラー版東洋美術史』美術出版社、2008年7月5日

・ 岸田順一監修『すぐわかる東洋の美術 絵画・仏像・やきもの&アジアの暮らしと美術』

東京美術、平成15年11月20日

・下中弘発行『中国石窟 雲岡石窟 第2巻 雲岡石窟文物保管所編』平凡社、1990年1月25日

・サイト『早稲田大学リポジトリ』、小山 満著『仏教図像の研究 : 図像と経典の関係を中心に』

2010年3月22日検索

http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/28800/18/Honbun-4677_15.pdf

(7)《弥勒菩薩像》(敦煌第275窟)

・古田進一、山名伸生、木島史雄編『中国の美術見かた・考え方』昭和堂、2005年9月30日

・松原三郎編集『中国の美術1彫刻』淡交社、昭和57年4月22日

・前田耕作監修『カラー版東洋美術史』美術出版社、2008年7月5日

・ 李最雄、魯芸、山折哲雄、他著『敦煌の美と心 シルクロードの夢幻』雄山閣出版

2000年7月20日

・ 田辺勝美、前田耕筰編集『世界美術全集 東洋編 第15巻 中央アジア』小学館

1999年3月20日

・下中直也発行『中国石窟 敦煌莫高窟 第1巻 敦煌文物研究所編』平凡社、1987年11月15日

(8)唐三彩※《三彩貼花文龍耳瓶》(東京国立博物館)

・三上次郎、佐藤雅彦、他、著『中国の美術4陶磁』淡交社、昭和57年8月7日

・ 岸田順一監修『すぐわかる東洋の美術 絵画・仏像・やきもの&アジアの暮らしと美術』東京美

術、平成15年11月20日

・前田耕作監修『カラー版東洋美術史』美術出版社、2008年7月5日

(9)《鍍金花鳥文銀製八曲長杯》(兵庫県・白鶴美術館)

・古田進一、山名伸生、木島史雄編『中国の美術見かた・考え方』昭和堂、2005年9月30日

・日比野文夫 他、著『中国の美術6工芸』淡交社、昭和57年10月25日

・白鶴美術館発行『白鶴美術館名品選』便利堂、平成元年3月10日

・サイト『天理大学附属天理参考館』2010年3月24日検索

http://www.sankokan.jp/selection/a/orient/aori005.html

(10)《盧舎那仏像》ほか(龍門石窟奉先寺洞)

・古田進一、山名伸生、木島史雄編『中国の美術見かた・考え方』昭和堂、2005年9月30日

・松原三郎編集『中国の美術1彫刻』淡交社、昭和57年4月22日

・ 岸田順一監修『すぐわかる東洋の美術 絵画・仏像・やきもの&アジアの暮らしと美術』

東京美術、平成15年11月20日

・前田耕作監修『カラー版東洋美術史』美術出版社、2008年7月5日

・ 下中直也発行『中国石窟 龍門石窟 第2巻 龍門文物保管所、北京大学考古系編』平凡社、

1988年8月5日

(11)《菩薩半跏像》(旧・天龍山石窟、東京国立博物館)

・古田進一、山名伸生、木島史雄編『中国の美術見かた・考え方』昭和堂、2005年9月30日

・前田耕作監修『カラー版東洋美術史』美術出版社、2008年7月5日

・水野清一著『中国の彫刻 石仏・金銅仏』日本経済新聞社、昭和35年1月1日

・常盤大定、関野貞著『中国文化史蹟第8巻』法蔵館、1976年4月10日

・サイト『東京国立博物館』2010年2月8日検索

http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=B07&processId=02&colid=TC374

・サイト『根津美術館』2010年4月13日検索

http://www.nezu-muse.or.jp/jp/collection/detail.php?id=20081

(12)《薬師浄土変》(敦煌第220窟壁画)

・古田進一、山名伸生、木島史雄編『中国の美術見かた・考え方』昭和堂、2005年9月30日

・宮川寅雄、他、編集『中国の美術3絵画』淡交社、昭和57年6月21日

・ 岸田順一監修『すぐわかる東洋の美術 絵画・仏像・やきもの&アジアの暮らしと美術』

東京美術、平成15年11月20日

・ 李最雄、魯芸、山折哲雄、他著『敦煌の美と心 シルクロードの夢幻』雄山閣出版

2000年7月20日

(13)関同《秋山晩翠図》(台北・故宮博物院)

・小川裕充監修『故宮博物院第1巻南北朝〜北宗の絵画』日本放送出版協会、1997年11月24日

・ 小川裕充、弓場紀知編『世界美術全集 東洋編 第5巻 五代・北宋・遼・西夏』小学館

1998年12月20日

・宮川寅雄、他、編集『中国の美術3絵画』淡交社、昭和57年6月21日

(14)伝・薫源《寒林重汀図》(兵庫・黒川古文化研究所)

・小川裕充監修『故宮博物院第1巻南北朝〜北宗の絵画』日本放送出版協会、1997年11月24日

・ 小川裕充、弓場紀知編『世界美術全集 東洋編 第5巻 五代・北宋・遼・西夏』小学館

1998年12月20日

・宮川寅雄、他、編集『中国の美術3絵画』淡交社、昭和57年6月21日

・辻惟雄著『日本美術の歴史』東京大学出版会、2007年8月31日

・ 岸田順一監修『すぐわかる東洋の美術 絵画・仏像・やきもの&アジアの暮らしと美術』

東京美術、平成15年11月20日

・ サイト『黒川古文化研究所』2009年12月28日検索

http://www.kurokawa-institute.or.jp/

(15)范寛《渓山行旅図》(台北・故宮博物院)

・小川裕充監修『故宮博物院第1巻南北朝〜北宗の絵画』日本放送出版協会、1997年11月24日

・ 小川裕充、弓場紀知編『世界美術全集 東洋編 第5巻 五代・北宋・遼・西夏』小学館

1998年12月20日

・古田進一、山名伸生、木島史雄編『中国の美術見かた・考え方』昭和堂、2005年9月30日

・辻惟雄著『日本美術の歴史』東京大学出版会、2007年8月31日

・前田耕作監修『カラー版東洋美術史』美術出版社、2008年7月5日

(16)郭煕 《早春図》(台北・故宮博物院)

・小川裕充監修『故宮博物院第1巻南北朝〜北宗の絵画』日本放送出版協会、1997年11月24日

・ 小川裕充、弓場紀知編『世界美術全集 東洋編 第5巻 五代・北宋・遼・西夏』小学館

1998年12月20日

・古田進一、山名伸生、木島史雄編『中国の美術見かた・考え方』昭和堂、2005年9月30日

・宮川寅雄、他、編集『中国の美術3絵画』淡交社、昭和57年6月21日

・辻惟雄著『日本美術の歴史』東京大学出版会、2007年8月31日

・ 岸田順一監修『すぐわかる東洋の美術 絵画・仏像・やきもの&アジアの暮らしと美術』

東京美術、平成15年11月20日

・前田耕作監修『カラー版東洋美術史』美術出版社、2008年7月5日

(17)李公年《山水図》(プリンストン大学美術館)

・小川裕充、弓場紀知編『世界美術全集 東洋編 第5巻 五代・北宋・遼・西夏』小学館

1998年12月20日

・宮川寅雄、他、編集『中国の美術3絵画』淡交社、昭和57年6月21日

・サイト『台北、国立故宮博物院』2010年3月27日検索

http://www.npm.gov.tw/ja/collection/selections_02.htm?docno=756&catno=14&pageno=2

(18)徽宗《桃鳩図》(日本・個人蔵)

・小川裕充監修『故宮博物院第1巻南北朝〜北宗の絵画』日本放送出版協会、1997年11月24日

・ 小川裕充、弓場紀知編『世界美術全集 東洋編 第5巻 五代・北宋・遼・西夏』小学館

1998年12月20日

・青柳正規、東野治之他著『日本美術館全一巻』小学館 1997年11月20日

・古田進一、山名伸生、木島史雄編『中国の美術見かた・考え方』昭和堂、2005年9月30日

・宮川寅雄、他、編集『中国の美術3絵画』淡交社、昭和57年6月21日

・辻惟雄著『日本美術の歴史』東京大学出版会、2007年8月31日

・ 岸田順一監修『すぐわかる東洋の美術 絵画・仏像・やきもの&アジアの暮らしと美術』

東京美術、平成15年11月20日

(19)伝・李唐《山水図》(京都・大徳寺高桐院)

・嶋田英誠、弓中澤富士雄編『世界美術全集 東洋編 第6巻 南宋・金』小学館

2000年4月20日

・ 小川裕充、弓場紀知編『世界美術全集 東洋編 第5巻 五代・北宋・遼・西夏』小学館

1998年12月20日

・古田進一、山名伸生、木島史雄編『中国の美術見かた・考え方』昭和堂、2005年9月30日

・ 岸田順一監修『すぐわかる東洋の美術 絵画・仏像・やきもの&アジアの暮らしと美術』

東京美術、平成15年11月20日

・大本山大徳寺発行、『京都・紫野 大本山大徳寺』KINSHA,、平成20年10月

(20)馬遠《清涼法眼図》(京都・天龍寺)

・嶋田英誠、弓中澤富士雄編『世界美術全集 東洋編 第6巻 南宋・金』小学館

2000年4月20日

・辻惟雄著『日本美術の歴史』東京大学出版会、2007年8月31日

・ 岸田順一監修『すぐわかる東洋の美術 絵画・仏像・やきもの&アジアの暮らしと美術』

東京美術、平成15年11月20日

(21)夏珪《風雨舟行図》(ボストン美術館)

・嶋田英誠、弓中澤富士雄編『世界美術全集 東洋編 第6巻 南宋・金』小学館

2000年4月20日

・青柳正規、東野治之他著『日本美術館全一巻』小学館 1997年11月20日

・古田進一、山名伸生、木島史雄編『中国の美術見かた・考え方』昭和堂、2005年9月30日

・辻惟雄著『日本美術の歴史』東京大学出版会、2007年8月31日

・ 岸田順一監修『すぐわかる東洋の美術 絵画・仏像・やきもの&アジアの暮らしと美術』

東京美術、平成15年11月20日

(22)牧谿《観音猿鶴図》(京都・大徳寺)

・小川裕充、弓場紀知編『世界美術全集 東洋編 第5巻 五代・北宋・遼・西夏』小学館

1998年12月20日

・青柳正規、東野治之他著『日本美術館全一巻』小学館 1997年11月20日

・ 嶋田英誠、弓中澤富士雄編『世界美術全集 東洋編 第6巻 南宋・金』小学館

2000年4月20日

・大本山大徳寺発行『京都・紫野 大本山大徳寺』平成20年10月

・展覧会図録『没後400年長谷川等伯』毎日新聞社、2010年2月23日

・辻惟雄著『日本美術の歴史』東京大学出版会、2007年8月31日

・ 岸田順一監修『すぐわかる東洋の美術 絵画・仏像・やきもの&アジアの暮らしと美術』

東京美術、平成15年11月20日

(23)耀州窯の青磁※《青磁刻花牡丹唐草文瓶》(大阪市立東洋陶磁美術館)

・小川裕充、弓場紀知編『世界美術全集 東洋編 第5巻 五代・北宋・遼・西夏』小学館

1998年12月20日

・古田進一、山名伸生、木島史雄編『中国の美術見かた・考え方』昭和堂、2005年9月30日

・ 岸田順一監修『すぐわかる東洋の美術 絵画・仏像・やきもの&アジアの暮らしと美術』

東京美術、平成15年11月20日

・前田耕作監修『カラー版東洋美術史』美術出版社、2008年7月5日

(24)龍泉窯《青磁鳳凰耳花生》(和泉市久保惣記念美術館)

・嶋田英誠、弓中澤富士雄編『世界美術全集 東洋編 第6巻 南宋・金』小学館

2000年4月20日

・古田進一、山名伸生、木島史雄編『中国の美術見かた・考え方』昭和堂、2005年9月30日

・ 岸田順一監修『すぐわかる東洋の美術 絵画・仏像・やきもの&アジアの暮らしと美術』

東京美術、平成15年11月20日

(25)倪瓚《漁荘秋霽図》(上海博物館)

・海老根聰郎、西岡康宏編『世界美術全集 東洋編 第7巻 元』小学館、1999年10月20日

・古田進一、山名伸生、木島史雄編『中国の美術見かた・考え方』昭和堂、2005年9月30日

・宮川寅雄、他、編集『中国の美術3絵画』淡交社、昭和57年6月21日

・ 岸田順一監修『すぐわかる東洋の美術 絵画・仏像・やきもの&アジアの暮らしと美術』

東京美術、平成15年11月20日

・前田耕作監修『カラー版東洋美術史』美術出版社、2008年7月5日

(26)顔輝《蝦蟇鉄拐図》(京都・知恩院)

・海老根聰郎、西岡康宏編『世界美術全集 東洋編 第7巻 元』小学館、1999年10月20日

・青柳正規、東野治之他著『日本美術館全一巻』小学館 1997年11月20日

・宮川寅雄、他、編集『中国の美術3絵画』淡交社、昭和57年6月21日

・辻惟雄著『日本美術の歴史』東京大学出版会、2007年8月31日

(27)因陀羅《禅機図断簡(布袋図)》(東京・根津美術館)

・海老根聰郎、西岡康宏編『世界美術全集 東洋編 第7巻 元』小学館、1999年10月20日

・宮川寅雄、他、編集『中国の美術3絵画』淡交社、昭和57年6月21日

・ 川上涇、戸田禎佑・海老根聰郎著『水墨画大系/第4巻 梁楷・因陀羅』講談社

昭和51年5月20日

・サイト『根津美術館』2010年1月1日検索

http://www.nezu-muse.or.jp/jp/collection/detail.php?id=10392

・サイト『静嘉堂文庫美術館』2010年2月18日検索

http://www.seikado.or.jp/sub0300.htm

・『東京国立博物館』2010年2月18日検索

http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=B07&processId=02&colid=TA343

(28)呂紀《四季花鳥図》(東京国立博物館)

・小川裕充監修『故宮博物院第4巻明の絵画』日本放送出版協会、1998年9月30日

・西岡康宏、宮崎法子編『世界美術全集 東洋編 第8巻 明』小学館、1999年6月20日

・宮川寅雄、他、編集『中国の美術3絵画』淡交社、昭和57年6月21日

・サイト『東京国立博物館』2010年1月2日検索

http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=B07&processId=02&colid=TA163

・サイト『京都国立博物館』2010年3月30日

http://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/index.html

(29)唐寅《山路秋声図》(台北・国立故宮博物院)

・小川裕充監修『故宮博物院第4巻明の絵画』日本放送出版協会、1998年9月30日

・西岡康宏、宮崎法子編『世界美術全集 東洋編 第8巻 明』小学館、1999年6月20日

・ 岸田順一監修『すぐわかる東洋の美術 絵画・仏像・やきもの&アジアの暮らしと美術』

東京美術、平成15年11月20日

(30)石濤《細雨虬松図》(上海博物館)

・中野徹、西上実編『世界美術全集 東洋編 第9巻 清』小学館、1998年4月20日

・ 岸田順一監修『すぐわかる東洋の美術 絵画・仏像・やきもの&アジアの暮らしと美術』

東京美術、平成15年11月20日

・前田耕作監修『カラー版東洋美術史』美術出版社、2008年7月5日

・サイト『東京国立博物館』2010年2月19日検索

http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=B07&processId=02&colid=TA327

(31)八大山人《安晩帖》(京都・泉屋博古館)

・前田耕作監修『カラー版東洋美術史』美術出版社、2008年7月5日

・古田進一、山名伸生、木島史雄編『中国の美術見かた・考え方』昭和堂、2005年9月30日

・サイト『東京国立博物館』2010年3月31日検索

http://www.tnm.go.jp/jp/gallery/index.html

(32)景徳鎮の作例※《五彩魚藻文壷》(福岡市立美術館蔵)

・青柳正規、東野治之他著『日本美術館全一巻』小学館 1997年11月20日

・古田進一、山名伸生、木島史雄編『中国の美術見かた・考え方』昭和堂、2005年9月30日

・三上次郎、佐藤雅彦、他、著『中国の美術4陶磁』淡交社、昭和57年8月7日

・ 岸田順一監修『すぐわかる東洋の美術 絵画・仏像・やきもの&アジアの暮らしと美術』

東京美術、平成15年11月20日

・前田耕作監修『カラー版東洋美術史』美術出版社、2008年7月5日