総合T----------東洋の叡智への案内1

2012年の夏頃から本を読み始めてたかな。

大学に入る前にはあまり考えもしなかったこと、

『生まれ育った自分の国が、どのような思想をもってきたのか』ということを知るために始めました。

近代の人間至上主義的な人間の営みに、東洋の叡智が活かせる場がないのかを考えてみる課題です。

何冊か本が紹介されていて、そのうちの2冊を選んでレポートを制作するというものです。

まず1冊目、菅野覚明『神道の逆襲』、

そして2冊目は、岡倉天心『茶の本』を選びました。

この課題では他にも、参考文献として2冊を読みました。

相変わらずレポート課題は苦手。

考えていることを、掘り下げて説明するのが足りないとか、

最後に自分の言いたいことが明確でないとか。

文章の書き方にも指導がはいるぐらい、丁寧に添削をしてもらえてます。

一応、合格はしました。

修正していませんので、参考程度に...。

『東洋の叡智への案内』第1課題 レポート——————————————————————————————

菅野覚明『神道の逆襲』から導きだされたもの

日本の自然思想と教育

1、自然の中に生きる——————————————————————————————

なぜ人は生きていることの意味を必要とするのか。人間は人生を謳歌するために様々な創造的活動をし、生きている喜びを実感しようとする。物質的な欲求を満たすこと以外にも、思惟することによって生命感を感じ、そうして考えられたことは、思想や道徳として社会秩序を維持するためにも大切なものとされる。

人間の存在も自然の中に芽生え、移ろい、共に生きている。しかし、人は自然と共に移ろいゆくだけでは欲を満たすことはできず、優劣という思想から、人間の創り出した規律によって自然環境を治めようと試みる。現在、地球的な規模で悪化している自然環境の問題が問われる中、これまで人間が考察した善について反省を促し、自然の中に生かされた生命として、人間の生き方を再考する契機となっている。

人間の活動も自然から発生した一現象であると考えるなら、そうした存在が自然の営みを制御することができるのであろうか。人間の生命活動を見つめなおすことが必要な現在の状況で、改善策の1つとして、作者のいう下記の部分が現状の地球環境に生きる私たちに必要な姿勢ではないだろうか。

あるがままの生から目をそらすということは、より良き生を思うことの放棄につながる。

喜びや恐れへの鈍感さは、また倫理への鈍感さなのでもある。(p28)

あるがままの状況を受け止めるために、これまでに様々なことが思惟され続け、多様な思想が考え出されたのであるが、歴史の教科書は自我の都合によって善を偽造し続けた人間の失敗を物語る。現在の自然環境に対しても、世界が一丸となって人間が生き続けられるように環境の修正を試み、社会システムの有り様を正そうする。

その中で、日本は自然の中に八百万の神がいると考える信仰ベースに、大陸から伝わる東洋思想を習合させ、その後、明治時代になって西洋思想を導入し、様々な思想を受入れてみたが、結果的に人間至上主義に至ったことに反省をし、人知を超えた自然の中に生かされた人であることに再度気付き始めている。そのことを踏まえ、今後人間が地球上でより良き社会を築くためにどうすればよいのか、試論をまとめることにする。

2、思想を必要とする人間————————————————————————————

知性をもった人間が誕生する以前から、宇宙の摂理の中で地球は存在し、自然界は人間

の思想がなくとも成り立ている。しかし、自然が人間の存在を意図的に創出したのかは知る由もないが、地球上で生命体として活動していることは事実である。

創造されたことに人々は神なる力を感じ、存在することに「価値と意義」が欲しいと考えるのが人である。人間の自然に対する探究心や、現代科学が生命の成り立ちを解明しようとする試みは、創造主への憧れからくるのだろうか。その担い手は、過去には宗教的な思惟が役割を受け持ち、創造主や神懸かり的な存在が語られ続けてきた。

思想を持ってしまったことは人間にとって不幸であるのかもしれない。哲学や思想によって人々は争い、命をかけてまで信念の実現を試み、特別な教義をもたなければ摂理を守ることができない存在となってしまっている。世界に様々な神が存在し「神とはなにか?」と問ことも1つの思想なのである。「善と悪」の対立するせめぎあいの中で、自然界に神的存在を思惟してしまうようになったのが人ではないだろうか。

3、現代日本——————————————————————————————————

自然環境の中に人間の存在は増え続け、日本だけでも1億人を越える人々が生活をし、膨張した人口を統率するためにシステマティックに社会構造が築かれる。倫理を保持するために出来事を一律に処理し、状況の考慮のないまま責任の所在が決められてしまう。善を維持するための潔癖なまでの罪の隔離は、人々の経験を軽薄にし、精神的成長を抑制してしまっているのではないだろうか。現代社会の抱えた多くの問題は「システム」という素性の知れない思考が生み出した結果でもある。システム社会が、人々の感情や生命の本当の生きる喜びをも覆い隠してしまい、素直な感情が享受できず、表現が軽薄になってしまった結果ではないだろうか。今一度、システム社会と人間至上主義によって築かれた感情抑制を再考しなおす時期にきている。

世界各国で様々な信仰があり、宗教は道徳や秩序の維持に多大な影響を与えている。日本の宗教観念の1つである神道は、政治的イデオロギーによって国家の存続が危ぶまれる状態になるほどに軍事的に利用されたこともあったが、神懸かり的存在も人間の解釈で様々に変化し、思想的役割を担ってしまった結果でもある。しかし、本来は日本の風土に生きる人々が、自然との対話によって感じたものであり、人間が自然と共に生きるため生まれてきた観念である。自然環境が問題になる現代社会に、自然を神とする神道思想は、解釈の仕方を間違わなければ自然と共に生きる為の貴重な教えが数多くあるのではないだろうか。

4、自然環境と教育———————————————————————————————

古代の人々は、自然環境と共に、移ろいゆく自然の中に生かされた存在であった。しかし、現在は自然科学がめまぐるしく発達した状況で、人間の価値基準を自然にも適応しようとし、地球環境の秩序を保つことを試みる。

人間至上主義は自然現象をも優越によって識別する。正しさの究極をもとめ、正邪の人間的純化によって自然社会を理解しようとしている。しかし、自然を構成するものすべては必要不可欠なものであり、理非曲直で分けることができない世界である。絶対なる存在を求めてしまう近代の人間の思想は、負荷的要素を完全否定してしまう危険性に満ちた感じがある。

自然環境と接することによって構築された神道思想である。古代の人々は、良き神あらば悪しき神あり、自然の成り立ちは混沌の中にあり、正も負ない営みと考えたのではないだろうか。日本の自然環境から育まれた自然崇拝に対する思いは、現代の自然環境を意識した社会に適応した教育ができる可能性を秘めている。

教育というものは人生において様々な影響を与え、人間にとって重要なことである。しかし、現代の学校教育の状況を伝えるものは、学級崩壊など、様々な問題が起こり始めていると言われる。様々な原因が絡み合ったものであろうが、明治時代以降、日本の人口が莫大に増加し続けた結果、システマティックに組み立てられた教育制度が、急激な少子化に対してそのまま運用され、対応できてないことも理由の1つであると考えられないだろうか。

人間がどのように生きようと、自然から生まれでたものである。しかし、人間自身が人間の営みを不自然なことと感じてしまう要因は、負に対する完全否定が原因であると思われる。思考を二項対立によって精製しつづけ、潔癖なまでに負への回避がおこなわれることは、自然の営みからすれば逸脱した行為なのである。これは教育現場でも当てはまることではないだろうか。不自然にシステム化した規律は子供達には理解できず、揺らぎを許さないことにストレスを感じているのではないだろうか。

5、自然と人——————————————————————————————————

現代社会の些細な危険を忌避する規律は、経験によって学ぶ人間の理性と感性を沈滞させ、危機的状況を察知する感覚をも鈍化させる要因となるのではないだろうか。それは、解決策すらも見いだすことが出来ず、迷走してしまう原因ともなる。

自然は人間の想像を超えた時間の流れで活動し続け、混沌と移ろいの中で生命が育んできた。日本の神道が教義を持たないことは、自然が正邪関係なく我々人間を包み込み、言葉では表せない偉大な存在感であることを示すための最も相応しい結果からきたものではないだろうか。最後に、私がもっとも筆者の言葉で印象に残ったものを引用する。

天地を建立し万物を養育する無形の神は、人にあっては心の空所に宿っている。という

よりは、心の空なるところそのものが神である。人が人であること、すなわち、身体を

備え、生きて動き働いているということを成り立たせている根源が、身体の内なる空所、

心である。(p.130)

神や霊というものを証明することは難しい。しかし、人間の心も地球から発生した断片である以上、自然を構成する八百万の神の一部である。自然との関わりを改めて見つめなおすため「神とは何か」と、日本人は問いなおす必要があるのではないだろうか。

自然は様々な活動の中で我々人に生きることを教授している。自然は生成と喪失の繰り返しの中にある。そのことを、目をそらさずに受け止めることができる感受性を育むことが必要なことではないだろうか。喜びと悲しみの繰り返しで生きていること、すべての現状を素直に受け止めることができれば、人間の存在も一生命として自然の恵みを享受し、幸ある存在となるだろう。

(3457文字)

参考文献———————————————————————————————————

小坂 国継『西洋の哲学・東洋の思想』2011年8月11日 講談社

岡田 精司『京の社 神と仏の千三百年』2000年1月12日 塙書房