総合T----------京都地域学-試験

京都造形大に入学してから、2回目の単位修得試験です。

やっぱり試験は緊張します。

試験の日はオープンキャンパスしてました。

論述するテストなのですが、

持ち込み可で、事前準備ができるはものすごく助かります。

一応絵を描く試験ならまだしも...論述となると、

前もって、そこそこ考えさせてもらっていないと私には難しいことなのです。

試験では、課題で利用した写真を持ってくるようにとなっていて

その写真を元に、5つをテーマでこんなものを準備していきました。

1、「願い」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

賽銭のはじまりは、山や海の幸、白米をおひねりとして神仏にお供えするものであったそうであるが、紙幣という価値を作り出した人は、賽銭によって神仏に対するお礼をするようになった。人々の願いは尽きることなく、それぞれの願いに対応した社寺へ人々は詣でる。

京都では多くの社寺があり、賽銭箱がいたるところにある。お賽銭と共に人は願い、感謝をする。写真の場所のある頂法寺の六角堂にも賽銭箱がある。しかし、なぜ人は賽銭を供えたくなるのか。賽銭箱のない京都の「おへそ」とする場所にもお賽銭が供えられる。お賽銭に共通したことは、人のなんらしかの念が込められているということであり、多くの人々の信仰を集めるほどに、その場所が立派に仕立てあげられていく行程がある。取り上げた写真の賽銭には、現時点では深い信仰はないかもしれない。しかし、ご神体という神懸かり的な場所や物に人々が集まり、徐々に神として崇められていく行程が、この些細な賽銭から発展していくことが推察される。

京都では社寺建築を文化遺産として観光する意外にも、願いと共にお賽銭が供えられる。無病息災、家内安全、縁結び、それぞれの願いに対応した社寺があり、ご利益巡りという観光方法もある。これまで過去に生きた人々の願いを含めると、多くの人の願いが込められた場所が無数にあり、至る所に念が込められた場所がある。仏像や社寺建築は宗教的価値と美術的価値以外にも、願いというものに価値が高められてきたともいえるだろう。

価値というものは人々の共通意識である。その意識とは見るものではなく感じるものである。神仏も本来は見えないものであり、願いも見えないものである。人は見えないものに期待と不安を感じ、自身の見えない未来に対して幸や平穏を願う。京都では過去の歴史的遺産という古いものという価値意外にも、未来に向けての人々の願いが込められた場所が多くある。未来の姿として「最先端」は科学・技術的な意味合いで使われがちであるが、京都での最先端は、精神的な面においても発展的な未来を目指す地であるともいえる。

六角堂は過去にも聖徳太子が訪れた場所として現在まで言い伝えられてきた場所である。受継がれてきた伝承は、過去の人々が見てきたものを意志として伝え続けるものである。人々が受継いできた意志に伝統という価値を与え、歴史地区として価値をみいだした京都である。過去に生きた人々の心を感じ、そして未来の人生の幸を願う。ここにお供えされた賽銭にはどんな未来が込められているのか。多くの願いが集まる京都には、不思議な土地の力があるようである。

2、「和」についてーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

一つの場所に、過去の出来事やこれからの未来の姿、季節の移り変わりなど、無限の楽しみ方が京都にはある。文化財としての美術的価値、自然感、人間感、表面上の美しさだけではなく、その場所や物に伝わる人の心を知ることで深みを感じることができる楽しみ。食でいうとコクや旨味と言う部分である。味わえば味わうほどに良さが湧き出てくる町である。過去にさかのぼり、これまで生きてきた人々とのつながりをもつことが出来る場所が残されている。それぞれの人の心の中でどのような場面が想像されるのか。過去の出来事を知れば、町の楽しみ方が無限に広がる都市である。

新たなものを創出するにしても論争がされる町でもある。許されるもの、許されないもの。現在のことだけを考えているだけではなく。過去と比較し、未来の姿を考えなくてはいけない。繊細な町づくりが行われているようにも思われたりするが、場合によっては反発を受けながらも強引に町づくりが進められるが、論争による負の力であっても思い出として町の記憶に刻まれる。町の姿は刻一刻と変化し、他の都市とは変らないようにも思える現代建築群。しかし、小路を歩けば京町屋や社寺建築、そして条坊制の面影を残す路や不意にあらわれる案内板や石碑を発見すると、至る所で重大な出来事があったように思えてしまう地域なのである。

京都では都として衰退再生を繰り替えし、現在でも歴史都市として語られ続けている。様々な場所に過去の人々が生命をかけて守ろうとした出来事が無数にあり、現在でも受継がれている物語もある。その物語と場所にまつわるものを、現在・過去・未来の人々の意識をつなぎ合わせることによって価値を与えて、地域の特性としている。京都での「コミュニケーション」という意味は、同じ時間を生きる人々との関わり以外にも、時代を超えて関わりを持とうとすることではないだろうか。

和の空間が意識された京都の町では、和みの空間を意識し、調和のとれた町並みを守るために論議されている。程よく過去を残しながら近代化が進められ、和やかに、しなやかで穏やかに人間の活動が行われている。日本各地の都市で、発展する過程にそれぞれの形態があるが、京都では今後も過去の人々が生きた痕跡が感じられる町として、和を意識した町づくりを進めていくことが大切ではないだろうか。聖徳太子の言葉を借りて、「和を以て貴しとなす」を根本とする町づくりを進めることが、京都に合った近代化であると思う。

京都という風土を意識した町づくりをしていこうとする意志は、地域の町づくりと人々のコミュニケーションの神髄があるように思う。

3、「京都の価値観」五重塔と京都タワーについてーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

人間活動において、巨大な建造物を建設できることは技術力の高さを示し、権力と経済力を象徴する役割もあるのではないだろうか。現代社会では、様々な都市で、発展に伴って建築物の高層化が進み、ランドマークとしてタワーが建設されることが多い。しかし、近代の京都では高層建築物の建設では、かならず論争が繰り返される町である。

京都において、最も古い高層建築物は951年(天暦5年)に建立された醍醐寺の五重塔であり、二極的な存在の1964年(昭和39年)に開業した京都タワーが存在する。京都タワーは観光を目的として、京都の町を海に見立て、燈台をイメージして建てられたものである。五重塔は、宗教的な観点から仏舎利を祀るために建てられたものである。高いことが優れたものと考えれば京都タワーが優位である。しかし、京都では優れたものという観点は他の都市とは違いがあり、宗教観と歴史的背景を重要視する都市なのである。他の地域では近代建築の技術力を示すものとして高さに価値を得ることができるが、京都においてはそこに価値を求めていない。仮に、京都タワーのデザインを鉄骨製の五重塔としたからといって認められる存在にはなっていなかったであろうし、奇抜な怪しい建造物になっていたということが想像できる。一般的に東本願寺の和ロウソクと例えられる表現は、強制的に「京都らしいもの」に仕立てられた表現ではないだろうか。

長い時間を必要とする京都の価値の生成過程は、世代を超えて価値が造られて行く。これまで、京都では様々ものが戦乱と大火により文化的遺産は損失してきた。その中で再建されるものと、衰退をしていくものがあり、破壊によってそのものの価値がはっきりとし示されてきた。日本一の高さを誇る東寺の五重塔も、過去に5度の焼失があり、現在のものは1644年(寛永21年)に建立の徳川家光により寄進されたものである。京都タワーも長い年月の間、存続していれば存在価値がでてくるかもしれない。老朽化し、修復が必要になった時に京都タワーの真価が示されるであろう。

古都であったことが近代都市として発展の妨げになっているかもしれない。しかし、これまでの人々が作り上げた京都の歴史は尊い営みであり、過去の歴史は簡単には作り上げることができない貴重なものである。京都に住む者として、これまでの京都の町を作り上げた人々に敬意を表し、町づくりを進めないといけない。

4、「祇園祭」提灯の魅力についてーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

京都の夏の始まりを感じさせる祇園祭である。宵の口、四条室町交差点の鉾の辻を中心に歩行者天国がはじまり、祇園祭の宵山のイメージを強調する駒形提灯に明かりがつけられはじめる。提灯に張られた和紙が柔らかく山鉾を照らし、夜の暗闇が近代化した京都の町を覆い隠し、過去の世界へと人々を導く。

提灯は、折りたたみのできないものが中国から伝わり、その後日本で折りたたみ式のものが作られ始めたそうである。現在のような形は16世紀後半の安土桃山時代に作られ始めたと考えられている。

祇園祭で行われる宵山は18世紀半頃に始まり、提灯は1766年(明和3年)に初めて使われ始めたと記録に残るそうである。1806(文化3年)に刊行した「諸国年中行事大成」には駒形提灯で飾られた鉾の様子が描かれており、夜に行われる宵山は863年に始まる御霊会の歴史から考えると比較的新しい神事である。現在では電球を利用し提灯を灯すことが主流となっているが、電球を最初に取り入れたのは放火鉾であったという。近年、光源もLEDを利用した省電力化や、ロウソクのような揺らぎのある電球を使うなど、様々に工夫された光が利用されている。

歴史的景観を意識した町づくりが進められている京都ではあるが、建物の高層化が進み、町並みは過去に戻ることは出来ず、保全することにも限界がある。その中で祇園祭の宵山は、夜の闇が近代化した町を被い隠すと同時に、人々を無時間的感覚の幻想空間へと誘い込む。近代化した町並みを暗闇で包み込み、必要なものだけを照らしだす提灯の明かりは時代感覚を消失させ、古くからある京都の情景をイメージさせる効果があるのではないだろうか。自動車の為の道は人々のために解放され、それぞれの鉾町から聞こえる祇園囃子、浴衣で歩く人々、五感すべての感覚が時代感覚を麻痺させる。

私は毎年、祇園祭へと出かける。神事・儀式として続けられてきた祭祀であるが、祭りを楽しむ人々の活気も祇園祭の魅力でもある。提灯の明かりとともに祇園囃子が鳴り響く町並みが好きであり、想像力をかきたてる祇園祭に魅力を感じる。

5、洛中洛外図屏風からーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

現代の京都では伝統的な町並みを維持するため、条例で規制を設け、歴史観光都市として和風を意識した町造りが盛んに行われている。しかし、平安遷都以来、現在の首都である東京のように、町は最新の建築様式を取り入れながら形成されるものであり、人々の営みの中で自由に変化するものであった。そして、多くの戦乱と大火を繰り返した京都では、復興を繰り返すなかで町並みは刻々と変化してきた。では、伝統的町並みとはいったいどういうものであるのか、ヴィジュアル資料を元に検討してみることにする。

選択したヴィジュアル資料は、狩野永徳が制作した洛中洛外図屏風で、16世紀後半の永禄8年(1565)頃の京都の姿である。15世紀後半の応仁の乱の後の復興した京都の町並みでもあり、明応9年(1500)に室町幕府下で行われた松田頼亮の再興策後の復興した祇園祭も描かれている。この町並みもかつての京都の姿であるが、現代の人々がイメージする京都の町並みとは、元治元年(1864)に起こった禁門の変後の景観で、比較的新しい形式のものである。

現在、京都では景観法などの整備により伝統的な町並みを保存しようという働きがあるが、多くの規制がある中でも中心部はマンション化と高層化が進み、他の都市と変らない都市空間となりつつある。なかには四条町京屋などNPO法人化して町家の保存と維持に努める場合もあるが、社寺建築などに比べると、一般住宅は長期的に維持することは難しく、定期的に建て替えられ、時代の建築様式に合わせて住宅も変化している。

室町時代にさかのぼり、永徳の絵に描かれた町もかつての京都であるが、過去の京都の町並みを風景画からよみとると、様々な変遷の中で京都の景観が変化してきている。主に切妻中入りで、正面に格子のあるデザインが京町家のスタイルであるが、現代住宅の1つの様式であるマンションでも、規制に則って意識的にファサードを和風にデザインしたものも増えてきている。

平安遷都以来、京都の町並みは絶えず変化したなかで「京風」という建築様式がつくり出された。日本全国の各都市では平均化した町並みが多く、特色が見出せず、活性化に試行錯誤するところが多いなか、京都では独自のスタイルが育まれた町で貴重な利点がある都市である。歴史的地区という負荷の中での景観作りは、これまでこの地を守り続けてきた人々に対して、築きあげてきた町並みや文化に敬意を表すものであると思う。京都という風土を意識した町づくりをしていこうとする意志は、地域の町づくりと人々のコミュニケーションの神髄があるように思う。

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私の場合、試験の準備も課題と同じぐらいガッツリ下調べをしてから受けるようにしています。

今回は、2「和」についてをペースにして解答をしました。

合格になったのでホッと一息です。