総合T----------地域学基礎-課題2

この課題で、卒業の単位が取得できたので私にとっては最後のレポート課題となります。

4単位の科目で単位修得試験もありません。

自分の住む地域で、事例を1つあげて、グローバルな世界での意味を考えるというものです。

私の場合、祇園祭がありますので、そのことについて書いてみました。

レポート以外にもビジュアル史料もあります。

ぼちぼちの点数ですが、けど、祇園祭を卒制のテーマとしているので

自分にとってはよいレポートとなりました。

地域学基礎

第2課題 レポート

地域文化のグローバルな世界の中でもつ意味

京都「祇園祭」についての研究

1.はじめに —————————————————————————————————

京都では、伝統や文化が育まれた古都として観光の名所が多くあり、京都に生まれた私も、様々な文化財に親しむことができる。その観光地となる場所には、神社の総本宮と仏教各宗派の総本山が多く、世界有数の宗教都市ともいえる。戦後、GHQによって政教分離の原則が打ち出され、近代の政治は宗教と関係をもつことができないが、京都の祭礼を調べ進めると、過去には宗教が政治に強く影響を与えていたことが必ずといっていいほど浮上する。

京都で行われる祭礼の中でも、祇園祭は全国に約3000社あまりの分社をもつ八坂神社の神事で、本社に影響を受けた祭礼儀式が日本各地でも行われている。その祇園祭の起源は、疫病の流行による政府の政策祭礼として、禁苑である神泉苑でおこなわれた御霊会がはじめとされ、その後、869年(貞観11年)に当時の国の数である66本の矛を奉納したことが現在の原型とされている。これまで何度かの中断はあるものの、1000年以上続けられた祭事は世界的にみても稀で、2009年(平成21年)にはユネスコ無形文化遺産にも登録され、世界的な遺産としても認められることとなる。

祇園祭は八坂神社の祭事として、氏子と市内の山鉾町が中心となって行われているが、過去には洛外からの山鉾の参加があり、私の住まう乙訓からも巡行があったことが伝わる。その祇園祭ついての報告と、グローバルな世界の中でもつ意味を考察してみることにする。

2.祇園祭の概要と形式の変化 —————————————————————————

祇園祭は、7月1日の吉符入に始まり、7月31日の疫神社夏越祭に終わる1ヶ月間の祭りである。怨霊や疫神が原因となって疫病が流行ると考えられたころ、穢れの退散を願って始められたものであるが、医療が発達し未知の疫病の流行がなくなりつつある現代でも続けられている。

祇園祭は、「三代実録(※1)」に記述された863年(貞観5年)の御霊会を初めとしている。度重なる疫病蔓延と、災いが日本中を襲った際、その原因を政権争いによってこの世に恨みをもって去った、早良親王をはじめとする六所(※2)の怨霊の仕業と考え、怨霊を治めるために始まったものである。その後、疫神としてインド起源の牛頭天王信仰を習合させ、現在は明治時代の廃仏毀釈後に、素戔嗚尊を祭神として祭礼がおこなわれている。

八坂神社の祭事として神輿の渡御もあるが、町衆による宵山と山鉾巡行が有名で、四条室町界隈を中心に様々な祭事が繰り広げられる。7月17日の山鉾巡行を最大の山場として、地域住民の信仰として行われている意味合い以外にも、国内外から多くの観光客が訪れ、京都の観光資源として経済効果も大きい。

八坂神社と洛中の四条室町界隈の祭りであるが、洛外となる久世の綾戸国中神社も重要な役割を果たす。八坂神社が祀るものを和御霊、綾戸国中神社を荒御霊として、両神社二位一体で祭礼が行われている。また、現在行われている神輿渡御と山鉾巡行が別々で行われる形式が、長らく守り続けられてきたものではなく、神輿渡御を中心に申楽も興行されていたこともあったが、中断・再興を繰り返しながら様々に変化してきている。

神輿渡御と山鉾巡行が別々で行われる契機は、1369年(応安2年)の南禅寺の楼門破却事件(※3)とされる。事件による神輿の穢れによって、新たな神輿が作られるまでの20年間に山鉾巡行が盛大化した。この頃には58基もの山鉾参加、その中には洛外からの巡行もあり、私の住まう乙訓地域からも大山崎の油商の人々が「定鉾」を巡行させていた。

1467年(応仁元年)の応仁の乱によって一時廃絶していたが、室町幕府によって1500(明応9年)に再興、しかし、参加地域と規模が縮小して37基の山鉾となる。再び1864年(元治元年)の蛤御門の変による大火によって中断、その後の再興で現在の32基となる。再興の際に統合されたものがあり、元治の大火で廃絶した休山の3基を含むと、今は35基が山鉾として残る。その中で、現在でも大船鉾と布袋山の再興が進められている。

現代では、祭事が行われる期間も固定化しているが、当初は疫病が蔓延するごとに行われたと伝わる。7月17日の山鉾巡行についても以前は2回に別れており、17日を前祭、24日を後祭としてそれぞれの山鉾が決められた日に巡行を行っていたが、明治以降、近代化の為に市内の様相が激変し、1911年(明治44年)には、市電開通のために知事から山鉾巡行の廃止命令が出されることもあった。山鉾町の猛反対によって続けられることとなるが、近代化と交通事情に伴い、1966年(昭和41年)に17日の前祭りに統合され、後祭は花傘巡行となった。だが、現在は後祭りの巡行を復活させる計画が進められている。

宵々々山から宵山にかけての、宵の口から始まる鉾町の歩行者天国と、山鉾を照らす駒形提灯は祇園祭を代表する風物詩でもあるが、古くから行われてきたものではなく、18世紀半頃ころから文献に記録が残り始まる。駒形提灯については、1766年(明和3年)の文献に初めて使われたと記録があり、863年に始まる御霊会の歴史から考えると比較的新しい祭事である。

動く美術館と称される山鉾の装飾は、京都の伝統工芸や日本固有のもので特に純化されたものではない。中国の故事を主題にした山の御神体人形や、函谷鉾の胴掛けには旧約聖書の創世紀を表したペルシャ絨毯などが用いられている。放下鉾の場合、胴掛けの新調の際にはインドに制作を依頼している。2010年に孟宗山の胴掛けが200年ぶりに新調されたものは、近代日本画家・平山郁夫の作品を用いたものに変更されることもある。

祇園祭の形態は、伝統として長年守られてきたものではなく、

廃絶と再興を繰り返す中で様式が変化し、祭神を変えながらも今日まで続けられてきた。祇園祭は日本人の信仰に対する柔軟さが現われたものとなっている。そして、信仰からくる祭礼儀式という意味合いとは別に、観光として様々な人々が祭りを楽しむ。様々な文化を吸収し、混和させながら発展させ、継続することによって価値を増す、京都の価値観が最も現われた祭事ではないだろうか。

3.グローバルな世界の中でもつ意味 ——————————————————————

現在は、文化遺産としても価値ある祇園祭であるが、かつては、怨霊を治め、国土の安寧秩序を保つことを願った祭礼で、八坂神社を中心とした氏子・町衆がおこなう祭礼であった。しかし、現代では信仰・宗教観念の変化や科学技術の発達など、今日では趣旨が変化してきている。その他、室町界隈では山鉾を維持してきた旧来の町衆の減少もあり、維持しようとする意志の継承も困難になってきているそうである。

その中で、これまで信仰をもとに続けられた祭礼は、近代的な方法で維持しようとしている。山鉾連合会を立ち上げ、互いの運営資金を支援する清々講社の発足、それぞれの山鉾を財団法人化にするなど、祭事を維持するために行政的な保護活動を積極的に取り入れ、人間の生活習慣や社会的価値観の変化にも対応しながら維持されている。減少する担ぎ手はボランティアを募集し、その中には異国の人も参加がある。女人禁制であった鉾の入場も解禁されるものもあり、神聖な神事として忌嫌われがちなことも積極的に変更されている。祇園祭は、神事としての役割以外にも、社会的秩序のあり方や、異文化和合についての新しい観念の形成、地域の文化の維持や活性化など、新たな価値観を創り出している。

人間の営みの中には様々な宗教観があり、世界中に多くの神が存在する。神の名の下、異教徒との争いや、異文化への弾圧がおこなわれ、制裁や紛争よって破壊が繰り返されてきた。世界各国、異文化、異人種に対しては嫌悪感を持つことが多いが、京都という地域信仰が生み出した祇園祭が、世界遺産として登録されたことは意義が大きいのではないだろうか。

世界各国、様々な文明や文化が消滅し、遺構と文献から過去の人々の営みを研究する機関や、異文化を保存するための博物館が存在する。文化・人種が違っていても継続することの難しさは共感できるものではないだろうか。その中で、祇園祭は消滅することなく、様々な困難を乗り越えながらも1000年以上続けられていることに、京都の町衆の継続の叡智をみることができるのではないだろうか。

はじまりは御霊信仰から始まったことである。時代の波と共に形態が変化し、異文化との和合も試みられながら続けられた祇園祭である。現在でも、新しい観念を取り込みながら、観光資源として世界の人々とのコミュニティーとしての役割が大きく、新たな価値観を創出している。祇園祭を契機として、京都の人々が過去に生きた人々の叡智を受継ぎ、様々な文化的意識を吸収しながら継続して行くことは、グローバルな世界の中でも意義ある人間の文化的営みの1つといえるのではないだろうか。

(文字数 3561字)

注釈—————————————————————————————————————

(※1)三代実録

律令国家の成立し、史書を制作した中での六国史の6番目となるもの。901年(延喜元年)に成立し、収録年代は858年(天安2年)から887年(仁和3年)が収録されている。

(※2)六所

政治的陰謀によって死を遂げ、怨霊となったと考えられた人物。

早良親王・伊与親王とその母藤原吉子・観察使の藤原仲成・橘逸勢・文室宮田麻呂。

(注3)南禅寺楼門破却事件

南禅寺が楼門を再建するために通行税を徴収していたが、支払わなかった園城寺の僧侶を暴行により殺害。そのことによって抗争がはじまり、神輿を渡御させ南禅寺楼門を破却した。

参考文献———————————————————————————————————

脇田晴子『中世京都と祇園祭 疫神と都市の生活』中央公論新社 1999年6月

米山俊直『祇園祭 都市人類学ことはじめ』中央公論社 昭和49年6月25日

島田崇志『写真で見る 祇園祭のすべて』光村推古書院 平成18年6月20日

ビジュアル史料1

ビジュアル史料2

ビジュアル史料3