大学院-修了制作

2016年春、京都造形芸術大学の通信教育部での学生生活も無事に終えることができました。

大学院でも学部の卒業制作と同じで祇園祭をテーマとして

「祇園祭洛中洛外図情景之図」という約4mある大きな作品を描きました。

学部から含めると、合計8年間の学びの集大成となります。

「祇園祭洛中洛外情景之図」 2015年 1620×3880 キャンバス、油彩、箔、典具帖紙、ラインテープ

大学院では作品と共に制作ノートも提出しなくてはいけません。

その提出したものを掲載しておきます。

(図版は載せていません、ご了承ください)

2015年度 修士制作研究ノート

「私にとっての洛中洛外図とは」(祇園祭に関わる考察)

1.はじめに

魅力ある風景と出会った瞬間から制作が始まると云ってよい。何故それを美しいと感じたのか、スケッチや取材写真をもとに、私の抱いた想いを少しずつキャンバスへ描出していく。その行程では「その正体が何か」を自問自答しながら制作を進める。魅せられたということ以外に、視覚が感じた未だ言葉にならない、曖昧なイメージや観念を形に表していくことが絵画ではないだろうか。私が表現したいことも、言葉では表すことができない感覚的要素が含まれている。

然し、繰返し描くうちに、段々と風景のシルエットが見えてくると、キャンバスの前に居続け、あきらめずに描き続けた喜びと、自分の絵画の出現に気持ちが高まってくる。

私が初めて油絵を制作する契機となったのは祇園祭である。約15年前、モチーフを探していた時、祭礼が行われていた時期に深夜に鉾町へ行ったことがはじまりだった。そこで山鉾の1基に魅了された。そこから祭礼に興味をもち始め、取材や制作を重ねるごとに、祭礼の歴史や継続させている町衆の真意を知ることになり、33基あるすべての山鉾を1基づつ100号のキャンバスに描くという大構想ができあがった。[図版2]

私の制作と祇園祭は切り離せないものになったのである。その集大成として、構想を練っていた祇園祭洛中洛外図を、大学院で表現研究をおこなうことにした。

2.祇園祭について

祇園祭は9世紀に始まり、1000年以上続けられた祭礼である。都が奈良から京都へ遷された後に災いが多発した。その原因は、をはじめとする、政治的に失脚し、この世に恨みをもって亡くなった人々が、現世に疫病や災いを起こす怨霊となると考えられ、その霊を鎮めるために始まったものである。863年に朝廷によって御霊会がおこなわれ、その後の869年に、内裏の禁苑であった神泉苑で、当時の国の数の鉾を立てて行われた御霊会が祇園祭の起源とされている。

現在では京都八坂神社の神道の祭礼として、主としてスサノヲ尊を祭神とするが、本来は精霊や祖霊信仰をベースに、仏教のをはじめ各山鉾でも様々な神が祀られており、神仏が習合した日本の信仰の特徴があらわれた祭礼である。

当初は朝廷による神輿渡御や奉幣で行われていたが、10世紀頃から申楽や町衆の山鉾巡行が加わりはじめ、14世紀頃に現在の形式が形づくられ、時代が進むにつれて山鉾が巨大化していった。16世紀頃から、祭礼を通じての町衆の結束力の強化、治安維持や経済効果も期待されはじめることになり、宵山の風物詩である駒形提灯も18世紀頃に始まった。

現在、八坂神社は独立した神社であるが、過去には延暦寺の末社であった。神輿は政治的にも利用され、渡御によって朝廷への強訴が行われたり、応仁の乱や一揆などによって祭礼が中止されることもあった。応仁の乱以前には58基もの山鉾があり、朝廷の神輿渡御が行われない場合でも、町衆が山鉾を巡行させる場合もあったと文献に残る。(出典※1)

祇園祭をただモチーフとして見るだけでなく、その連作を制作し継続することで祭礼の歴史を知ることになる。現在おこなわれている形式が、単に八坂神社の祭礼としてあるだけではなく、京都という、かつての都の歴史的関わりを経て、今日に至ることを学ぶことによって、京都人としての私の祭りへの関わり、絵画への試みにも一層拍車がかかるようになった。世界各国、様々な文明や文化が消滅し、遺構と史料から過去の人々の営みが研究されている。博物館などに資料のみが残っているというものが多い中、祇園祭は脈々と続けられている世界的にも稀な祭礼となっている。(出典※2)

現代社会では、疫病や災いの原因が科学的に解明され、祭礼の役割も変化してきたように思われる。神という存在を信仰するか否かは別にして、祇園祭には毎年多くの人々が集まる。毎年、ほぼ同じことが繰り返される祭事であるが、年に1度しか執り行なわれないという特別感が心を高揚させる。人々は、各山鉾に祀られたご神体にご利益や願いを伝えること以外にも、山鉾町に伝わる絢爛豪華な懸装品やお囃子などを楽しむ。美術的価値が高い懸想品も、美術館で厳重に保管されることなく惜しみなく披露される。私も、日常ではない空間、美しいもので満たさそうとする鉾町を、毎年見に行くことが楽しみとなっている。

3.風俗画としての洛中洛外図

祇園会の祭礼の様子を描いたものは、初期のものは残念ながら文献に記録されたもののみで図像としては残るものが少ない。古いもので祭礼の様子を描いたものは、原本は消失したが、12世紀後期の後白河法皇の勅命で制作されたもので、江戸時代前期に制作された年中行事絵巻の模本や、16世紀頃から制作され始めた洛中洛外図の図中に描かれたものである。

研究された文献を読み取ると、過去に制作された洛中洛外図は発注者があり、概ね政治的な背景があることを知る。優れた絵師は、自ずと権威や権力のある者と密接に関係を持つことが多かった。洛中洛外図屏風は、このような形式が絵師のみで構想されたものではなく、贈答品として発注主と共に構想され、都の様子を地方へ伝達するためのメディア的要素も求められ、形式として連鎖的に育まれたようである。この流れは、越前朝倉氏が土佐光信に制作させた京中図(※3)がはじめとされるが、残念ながらこの屏風は現存していない。現存する初期の洛中洛外図の代表的なものは、歴博甲本・歴博乙本・東博模本・上杉本とあるが、その中で米沢市上杉博物館所蔵の「上杉本洛中洛外図屏風[図版1]」に描かれた祇園祭の様子が、最も有名なものといえるのではないだろうか。

「上杉本」の研究文献によると、総計2485名もの人物や、寺社・武家・公家の邸宅が232カ所も描かれ、当時の京都の様子を知るための貴重な資料ともなっている。(出典※4)制作者は、狩野永徳とされているが様々な推測がされている。その歴史的背景は、足利義輝が永徳に発注したが完成を待たずに政治抗争の末に自刃、その後、織田信長が交誼を結ぶために上杉謙信に贈ったとされるものが有力とされている。

永徳が都の様子を伝えるべく、圧倒的な描き込みよって都の華やかさが伝わるようになっている。京都の四季や年中行事、都で生き生きと生活する人々がパターン化することなく描かれ、動かざる画面に時間性を表現することも試されている。屏風を見たものが、都の様子を楽しく見れるようになりながらも、芸術的にも価値の高い作品になっている。世代が移り変わっても、優れた造形表現ができているからこそ、現在も名品として伝わることができたのである。

4.自作について、風景画としての洛中洛外図

私が制作する洛中洛外図は、33基の山鉾のシリーズ作品の制作を進めるうちに構想ができたもので、作品群の集大成として中心的な存在にしようとしていた。また、発注を受けて構想したものではなく、政治的な背景を必要としない私の個人的な動機で始まっている。祭礼の魅力にとりつかれ、取材と言いながらも鉾町をひたすら歩き回り、何度も同じ場所を訪れ、空腹になれば出店で食べる。知り合いに出会うことも多々あり「やっぱり来ていますね」と言われてしまう。2014年からは後祭りが復興し、巡行も2度楽しむことができるようになった。制作を通じて祇園祭大好き人間になったのである。

洛中洛外図は、通常なら不可能な構成で、源氏雲で空間と時間をつなぎ合わせ、名所や市中と共に人々の生活にも焦点をあて、緻密に描かれたものがほとんどである。発注者もなく自発的な動機で制作をはじめた私は、なんの制約もなく思うままに洛中洛外図を描くことができる。形式を受け継ぎ、現代の風俗を画中に描くこともひとつの方法であるが、私の場合は祇園祭を主題としたもので、京都の町並みが好きで風景画を描く私が、お気に入りの現代の京都の展望をベースにすることにした。

私の俯瞰図の視点は、東山の華頂山からの眺めである。華頂山には将軍塚があり、桓武天皇が都を遷す際に、平和を願って将軍像を埋めた場所と伝わり、そのことに私は思いを馳せる。そこから幾度となく歩いた市中を想像しながらキャンバスに向かう。京都の町並みを歩くと、何気ない場所にでも観光のための案内板や石碑がある。それを発見した瞬間から、私はそこが特別な場所と思えてくる。そしてリアルな視覚は打ち消され、過去に制作された洛中洛外図の町並みや図中の人々が心の中で見えてくる。祇園祭の連作と洛中洛外図を制作することを機会に、京都の歴史を追って様々な文献を読みはじめ、知り得た知識から、私の心の目が時空旅行をはじめるようになったのである。

祇園祭の連作を制作することを機会に、信仰についても考えるようになった。祭礼は、見ることができない神という存在に望みや感謝を伝え、正の力を働かせるための人間の営為である。芸術も、直接視できない人の感性や、調和などの美的追求を具現化するための行為である。2つの事柄はなにか共通点のようなものがあるのではないだろうか。私の制作する作品も、あらゆる神が違和感なく祀られた祇園祭のように、和洋やジャンルを意識しない調和を目指した芸術表現を試みようとしている。

5.油彩と銀箔について

洛中洛外図屏風では大旨背景に箔が用いられ、魅惑的な光彩を放っている。私もこの制作では箔を利用することにした。まず、箔を扱うことが未経験だったので、大学院1年次では箔の張り込みの習得と油彩での箔の定着実験を兼ねて、表現方法の模索検討をおこなった。

以前からおこなっていた油彩の制作では、計画的に画面の構想をするのではなく、偶然性を頼りに制作を進めていた。始めにモノクロで大まかな構想図を描き、そのエスキースはイメージの具現化の第1段階[図版4]として参考程度に扱う。本画では、描き出すうちにできた偶然の線描や色彩の中で、私自身が良いと思えた部分をピックアップし、取捨選択しながら徐々に構想しているイメージに歩み寄るような感じで描いていた。

今回の作品では箔をどのように使うのかがテーマとなる。技法書では箔の貼る部分を決定した上で制作がおこなわれている。私の場合、描きたいイメージを制作行程で練っていくので、最初に箔の部分を決定することができない。そこで、この洛中洛外図でも私のスタイルで描き進められるように、まずはキャンバス全面に箔を貼付けることにした。そして、箔にしたい部分を探り残し、補いたい場合がでてくると上から箔を貼り足すという方法をとることにした。[図版5]

絵具は、初期の実験では油彩画用のスタンダードなチューブ絵具のみだけで制作を行ったが、描画部分が箔の光沢に負けている印象があったので、メディウムに雲母系のピグメントを混ぜてイメージの不足感を補うことにした。現状は箔地に問題なく定着をしているが、変色と剥離を含め経過観察が必要となる。

構図は、これまでの作品では私が見ている視線を元にして制作をしてきたが、洛中洛外図の場合は想像をしなくてはいけない俯瞰図の風景である。1年次の実験を重ねるうちに箔の光沢が私の構想力を刺激するようにもなってきた。箔は環境の光に影響を受け、見る位置によって変化に富んだ表情を造り出す。限られたキャンバス空間に果てしない広がりを見せようとしていたのだが、遠方とする部分に少しずつ加筆して検討を重ねた結果、箔の光沢が空間の広がりのように見えはじめてきた。そこで、手頃なサイズにカットした箔をランダムに貼付け、建築物として表すようにした。主題となる山鉾と中心部の町並みは、描き重ねることによって箔の光沢は失われてしまうのだが、着色部分と遠方の光沢部の差が遠近表現のように見えはじめ、より広がりを感じるようになり、私のイメージする雄大な眺望が表れるようになっていった。

箔の半鏡面の効果は、環境によって予想不可能な表情を見せ、制作中は扱うことが難しい、しかし具体的に見ようとする通常の視覚にプラスして、心の中の目となる感性に刺激を与え、神秘的で妖艶な絵画空間を演出することができるのではないかと思っている。

6.私の心の中にある風景をどのように現すのか

作品は決断の繰り返しで造られていくものである。モチーフや色、表現方法が無限にある中、潜在的に蓄積されたもっとも最善と思われる色と描き方を、目標とするイメージを目指して数十秒から数分の小さな決定を蓄積し、制作行程でのトータルバランスを客観的に判断しながら、どの時点で終えるのも決断しなくてはいけない。芸術作品は美意識の決断力の集大成となる。

芸術表現は思うままに描けばいいものでもある。しかし、大学院という研究の場で学ぶ機会を得て、イメージを具現化するための絵画技法を学ぶこと以外にも、感性論など鑑賞者に与える視覚的効果や表現の適正を判断するための能力と、自身が描いた作品を客観的に問う力を身につけることもできる。

私は、大学院で箔という新しい画材の出会があったのが、現状は利用した経験が浅く、描いたどの作品もエスキースという感じが払拭できていない。今後も作品を描き増やし、経験を積み重ね、自分が描きたいと思っているイメージの到達点を探りながら、決断に必要な選択肢を増やしているという状況であった。

祇園祭のすべての山鉾が完成した後に制作を計画していた洛中洛外図を、学部の卒業制作で描くことになった。その指導を受けた中で、ゼミの教授が「大学なんて羽目を外すところよ」という助言によって、コミカルな洛中洛外図[図版3]が導きだされた。その経験から学んだことは、画面を自由に造ることの他に、最終的に描かれたものの上に源氏雲を加筆したのだが、描き消された部分に創造力を掻き立てる効果が表れ、見えない部分を探ろうとする力が働き、鑑賞者の興味を惹く画面になることを学んだ。

今回の箔を使った洛中洛外図でも、具体的なモチーフがなく、これまで蓄えた知識と資料を駆使して、迷いと想像の制作であった。線を幾度も描き重ね、油絵具の透明性を利用して面を何層も塗り込み、イメージが現れるまで描いて塗り消すという作業を続けた。繰り返し描くことに耐える油彩は、描きながら問答を繰返す私にとって適した画材である。私の心の中にしかない図像を具現化しようとしている取り組み、探りながら塗り重ねた複雑な色、その痕跡が私のリアリティーとなる。その求め描くゴールは、動かざるキャンバスだからこそできること、言葉に発する前の心が感受した一瞬、その瞬間をキャンバスに具現化させることである。

7.むすび、自分が見えてきたもの

私の朦朧としたイメージを具現化するためには、キャンバスに描き続けることしかないと考えていた。だが、このように制作するために文字を綴ることも、その過程で導き出された心情は、自分自身でも「こんなことを考えていたのか」という答えが導き出されてきた。過去に描かれた洛中洛外図の研究から知り得た知識も制作に影響を与え、目指そうとするイメージの方向性に指針を与えてくれた。

人間の「描く」という行為は、過去の社会の中では特殊な技術として信仰や政治的なプロパガンダに利用され、イデオロギー的な役割を担ってきたものも多かった。しかし、近代より自己表現の1つの方法として見られるようになり、現代では多くの人々が絵を楽しみ、考えさせられ、コミュニケーション術としても欠くことができないものになってきた。

様々にあるコミュニケーション手段の中で、私はなぜ油彩表現に取り組んでいるのか。そして、日本画の洛中洛外図という型を西洋に起源をもつ油彩で制作を試みもしている。この制作ノートで見えてきたものは、私が風景から感じ得た高揚感はモチーフの固有色では表現できないということである。魅力があると思った風景は、キャンバスに写実的に転写するのではなく、線や色面を再構成して感情が表れる画面を造らなくてはいけないということである。何度も間違いを訂正しながら加筆していく私にとって、乾燥の速度と透明性、失敗を恐れずに重ね描きが可能な油絵具は、私にとって理想的な画材であること、そしてその描き重ねの到達目標は、刻々と変化し、1秒たりも停止しないこの世の中で、心が感受した言葉に発する前の一瞬、その瞬間をキャンバスに表現してみたいということが導きだされた。

風景画では、遠近法の発明によって三次元空間をキャンバスに置きかえるための造形表現の可能性は高められた。しかし、写実的な規律を求めるあまりに、絵画の自由性を損なうことにもなった。その後、時代を経て抽象画のジャンルが確立してからは、造形や色面の重なりからくる心情にあたえる影響力や、未開な形を識別する力など、未だ気付かれなかった造形要素そのものを問う発見がなされるようになった。それは、絵画の形式の固定観念の枠を超えることを可能にし、新しい美的価値を生み出す力となる。画家にとって、現代は自由性の高い表現が認められる恵まれた環境といえる。現在も尚、芸術的な思考と表現法は幅を広げ領域を広げて発展を続けているといえる。

私の油彩表現研究は、祇園祭と出会い、山鉾全基制作の33年計画がはじまったときからである。現在の私の絵は、朦朧とした表現であるとよく云われてしまう。そのことは、今の私の心情がはからずも現れているからに違いない。今後、指針が明確になっていくと、徐々に作品が明瞭になっていくのかもしれない。根気よく制作を続け、祇園祭シリーズが完了した時、私の油彩表現の学びの行程がわかるユニークな作品郡となる。ただ、私の弱点といえば、作品1点で完結しないというのが私の制作スタイルとなってしまったようだ。

私自身の今後の課題は、心が捉えた一瞬、その心象写実風景を描出させていくための思考と技法を養い続けることである。そして、鑑賞者が私の絵画空間に立つことができ、世界に引き込まれるような画面を考えることである。他者の心と共鳴すること、そこが表現活動の最終的な課題となる。

共鳴を求めることは、人間の営みすべてにも当てはまることではないだろうか。そして、共鳴のきっかけをつくるためのプレゼンテーションや演出方法も重要となる。コミュニケーションでは的確な言葉以外に、より多くの人に共感を得るためには表情や仕草などの表現方法も重要となる。生活必需品などの物作りでも、便宜性や機能に重点を置きながらも、魅力的に見えるデザインや宣伝方法も検討される。そのような中で、芸術大学は新しい美意識やこれまでにない表現方法を創出するなど、個人の表現活動から生じる人間の奥深い感性の基礎研究の場として社会的意義は大きい。

大学院で学んだことは、作品の制作はもちろんのことだが、ゼミ展をおこなった経験は私にとって貴重な体験であった。社会に如何に発表をしてゆくのか、展示までのプロセスや作品を魅せるための演出方法を検討するなど、体得したことは多岐にわたる。

祇園祭の連作もやっと中盤に差し掛かったあたり、今後の制作では共鳴という言葉のもつ意味以上に、未だ言葉にはなっていない心に沁みる絵画を描くことを目標に、生涯描き続けていくことにする。

(7708文字)

出典

※1 脇田晴子著『中世京都と祇園祭』中央公論新社 1999年6月25日 p172

※2 脇田晴子著『中世京都と祇園祭』中央公論新社 1999年6月25日 pi

※3 小島道裕著『描かれた戦国の京都』吉川弘文館2009年10月10日 p3

※4 文化庁「国指定文化財等データベース」

http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp 2009年6月2日検索

参考文献

・脇田晴子著『中世京都と祇園祭』中央公論新社 1999年6月25日

・小島道裕著『描かれた戦国の京都』吉川弘文館2009年10月10日

・黒田日出男著『謎解き洛中洛外図』岩波書店 2013年12月20日

・米山俊直著『祇園祭 都市人類学ことはじめ』中央公論社 昭和49年6月25日

・京都国立博物館編集『特別展覧会 狩野永徳』毎日新聞社 平成19年10月16日

・川嶋將生著『祇園祭 祝祭の京都』吉川弘文館2010年12月1日

・河内将芳著『祇園祭の中世 室町戦国期を中心に』思文閣出版2012年5月25日

・久慈力著『祇園祭の大いなる秘密』批評社2011年6月20日

・瀬田勝哉著『増補 洛中洛外図の群像』平凡社2009年1月9日

・青柳正規、他、監修『日本美術館全一巻』小学館 1997年11月20日

・辻惟雄著『日本美術の歴史』東京大学出版会2007年8月31日

・文化庁監修『国宝・重要文化財大全1絵画(上巻)』毎日新聞社1997年6月30日

・山根有三監修『日本絵画史図典』福武書店1987年10月20日

・近藤啓太郎著『名画中の名画』一枚の繪 昭和62年2月20日

・小林行雄他監修『国宝大事典全五巻 一絵画』講談社 昭和60年5月28日

・『文化庁HPー国指定文化財等検索システム』2009年6月3日検索

http://www.bunka.go.jp/bsys/index.asp

・『米沢市上杉博物館HP』2009年6月6日検索

http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/