総合T----------ランドスケープ基礎演習1

コツコツ調べ系のテキスト科目です。

庭園用語を50問を説明をするものでです。

1語につき150字程度とあったので、150字になるようにまとめました。

申し込んだら送ってもらえる教科書にたいだい載っていましたが、そのままの文章になってしまうので

多めの参考文献を準備してとりかかりました。

自分のためにも写真を載せようとおもいましたが、

シラバスの留意事項に認めませんと書いてあったので、残念ですがやめておきました。

無事に合格したので、提出したものを載せてみます。

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1、二条城二の丸庭園

徳川家康が京都の拠点として造営し、庭園は複雑な形の池を中心に豪華な庭石を使った桃山調をしたものである。造られた時期と初期の作庭家は不明であるが、城の建築と共に造営されたと推測されている。家光時代には後水尾天皇を迎えるために小堀遠州が改庭をおこなったと伝え、幕末にも大規模な改修工事がおこなわれている。

2、野面積

大小不揃いの自然石の平らな部分を正面に揃えて積み上げ、控えの部分を大きく入れて強度をもたせた石垣である。安定した石組みは下から上にいくに従って大きなものを積んでいき、角石に大きなものを使うのがよい積み方とされている。また、自然石を多少の玄能払いをして、不規則な形にして積み上げたものも野面積みと呼ばれている。

3、秦氏

日本最大の渡来形民族で、5世紀後半に京都盆地の桂川流域を開拓した土着氏族で優れた土木技術を持っていた。嵯峨野にある大沢池も秦氏が開発した人工の池で、中国の洞庭湖を写した中国文化の面影を残す園池と伝え、平安京の成立後には天皇や貴族の遊猟区とさた。また、養蚕と絹織の生産も得意で裕福な氏族であったと伝える。

4、花の御所

室町時代に京都に幕府を開いた足利氏の三代将軍義満が、1378年に造営した将軍邸である室町殿の別名である。室町幕府において将軍邸は公家的祭典をおこなう場所で、公家の伝統にのっとった構成をし、桜を多く植栽した華麗で豪華な邸宅であったと伝える。また、後代の将軍邸の範例とされるほどの影響力をもっていた。

5、ハレ

「ハレとケ」の2つの原理のうちの1つで、折り目や節目を示す概念である。中世では振る舞いや言葉遣いなどを区別して使われ、「ハレ」は礼儀と接客の場で、「ケ」は日常生活の場を示している。建築においても、儀式につかわれた表の空間の建物である寝殿や南庭と、奥の空間である会所のサロン的な空間とが区別して造られた。

6、東山殿

室町幕府八代将軍義政の山荘を没後の遺命により寺院とされた慈照寺のことで、通称「銀閣寺」として知られている。造営は1482年にはじまり、現在の庭園は江戸時代初頭に宮城豊盛によって改修されたものが原型となっている。築造当初の様相をとどめるものはごく1部分で少ないが、銀沙灘や向月台など見るべきものが多い庭園がある。

7、平等院庭園

平安時代中期に浄土教の信仰が広がり、藤原道長の子である頼通が引継いだ別荘を、1052年に寺として改め「平等院」とした。庭園もほぼ同時に完成したとみられおり、本格的な浄土式伽藍の浄土庭園で、極楽浄土の具現化を目指したものである。阿弥陀堂の前に広がる池の東岸から西方に向かって遥拝する構成で造られている。

8、細川管領邸

室町末期の上杉家蔵の「洛中洛外図屏風」にも描かれた典型的な中世武家屋敷形式をしたものと伝えるもので、書院造の原型と考えられている。主殿の前の南庭は、武家の接客と対面の風習に対応した空間と座敷からの観賞用として造られたもので、中島をもつ池が造られ、観賞用として好まれた植物や名石を配置してしたと伝える。

9、末法思想

釈迦入滅後二千年を過ぎると行と証が得られない末法の世に入り、仏教が衰えると考えられた思想である。1052年に末法の世を迎えるとして、平安時代末期から鎌倉時代にかけて浄土教が広まり、阿弥陀如来を信仰した寺院や経塚が盛んに造営された。また、仏堂前面には園池が造られ、浄土式庭園という形式が確立された。

10、みせば

作庭するにあたり、角のある山石や気勢のある石組を配置することや、遺水、滝などの要素で見せ所となる場所が造られた。建屋からの座視や回遊式など、敷地条件と時代によって手法は変化したが、名勝模しなどをして鑑賞者に印象が残るように造られた。茶室のある庭でも、もてなした客が通る路地に趣向をこらした演出がされている。

11、無隣庵

明治30年に完成した元勲山県有朋の京都の別邸である。有朋は作庭にも熱心で、無隣庵にある庭園は有朋の指揮のもと庭師小川治兵衛に造らせたものである。東山を借景にして軽やかな配石と広々とした芝生を用いたものに、そこに琵琶湖疎水からの水を引き込み、形式化した日本庭園とは違った開放感のある新しい庭園形式を創出した。

12、吉野ヶ里遺跡

佐賀県で発見された弥生時代最大の集落遺跡で、稲栽培が本格的にはじまった時代である。庭園に関係した遺構はみつかっていないが、水路を保護する遺構など水田を管理するための土木技術が発達した時期で、作庭の基礎技術が発達した時代といえる。その他、貴重な資料が多く発見されおり、現在では国営公園として整備されている。

13、竜安寺庭園

竜安寺は1450年に細川勝元が大徳寺家から譲り受けた土地に創建した寺である。庭園は枯山水形式の五郡十五石を絶妙なバランスで配置したもので、江戸時代から名庭として知られており現在でも評価が高い。しかし、作庭年代と作者も不明で作庭当初から現在の姿をしていたかは確認されておらず、解釈も様々な説がり謎が多くある。

14、『作庭記』

かつては秘伝書とされていた日本最古の作庭書で、現在でも最高の指導書として名高いものである。自然風景を基本とした、作庭をするための根本的な思想が述べられたもので、全国の名勝をなぞらえ、過去の作例をもとに具体的な技術が記されている。編纂者は不明で、あるが、藤原頼通の息子、橘俊綱の説が有力とされている。

15、『都林泉名勝図会』

京都の庭園や名勝を中心に解説した刊本で、1799年に小川多左衛門が出版したものである。庭園趣味が普及しはじめ、庭園案内が広く世にもてはやされた時代の代表的なもので、写実的に描かれた約90ヶ所にもおよぶ庭園の挿絵が描かれており、現在まで残った庭園の変化や、消滅した庭園の資料として価値が高いものである。

16、南庭

10世紀初期の上級貴族の寝殿造住宅に造られた前面の平庭である。敷地に南向きの寝殿を建て、その前面に造った庭園の中心部分で、公的儀式や月見・雪見などの年中行事がおこなわれた。平安時代中期の藤原摂関家の事例が典型とされ、白砂が敷かれた南庭の前には中島のある池を造り、納涼や水を汲む実用の場所としても使われた。

17、禁忌

清浄を保つために宗教的に禁じられことや、時代によって慣習的に避けてきたことである。庭園においては方位や樹木の植え方など、中国から伝わった陰陽五行説の法則をもとにして、忌み嫌うことを避けられて作庭された。日本最古の作庭書の「作庭記」では、石を立てる体位が重要視されており、縁起のよい庭園造りが意識された。

18、借景

庭園敷地外の景観を庭園の重要な構成要素とする作庭手法である。元来、日本では借景という言葉はなかったが、中国明代末期の計成に著された造庭書『園治』に記されたものを取入れたと考えられている。現代でも、自然風景以外に都市空間を利用した借景手法が取り入れら、作庭するための必要不可欠な要素と考えられている。

19、須弥山

仏教の世界観からきた世界の中心となる山で、周りに8つの山と8つの海が取囲み、山頂に帝釈天が住むとされる想像上の山である。日本庭園では石によって象徴的に表現し、古くは「日本書紀」に須弥山像を造ったことが記され、石神遺跡庭園遺構からも須弥山石が出土している。中国や朝鮮でも工芸品のモチーフにされることが多い。

20、神仙思想

古代中国で、神山信仰と道教思想が複合して発達した不老不死を求めた思想である。庭園では永遠の生命をもった仙人が住むとされている神仙島を配したものが造られている。日本でも飛鳥時代に神仙思想が伝えられ、飛鳥京跡苑池遺構で思想を取り入れた庭園が発見されており、平安時代以降でも大きな影響を与えている思想である。

21、透かし

庭木の延びた枝葉の枝を割り、自然な風合いで仕立てをする伝統的な手法の1つである。大きな鋏で面的に仕上げる一般的な刈込みとは違い日本庭園独特の高度な剪定技法で、京都では手入れの主流となっている。また、垣根においても向こう側が見通せる『透かし垣』があり、庭の添景的な役割を果たすものとして用いられる。

22、前栽

平安時代初期から使われたことばで、小庭に植えた草花や丈の低い木を自然風に移し植えたものや、小庭自体を示す言葉として使われていた。はじめは主に秋草のことを指したが、徐々に広く春・夏の花も含まれるようになった。現代でも庭園植栽一般を指す言葉として定着し、地方によっては庭園自体を示す用語として使われている。

23、夢窓疎石

庭園文化史上重要な人物で、室町時代の枯山水様式の成立にも影響を及ぼした僧侶である。南禅寺・天龍寺を開山し、鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて臨済宗夢窓派の教団拡張を推進した。自然の風景を好んだ夢窓は、作庭にも異才を発揮して多くの庭園に関与をし、儀式や行事に利用されていた庭園を芸術性あるものにした。

24、曲水宴

文人や武人が庭に造られた川の前に座り、上流から流された盃が手元にくるまでに詩を作り盃の酒を飲むという、3月に行われる遊宴である。中国を起源とし、3世紀に盛んにおこなわれたと記録が残る。日本にも5世紀末に伝わったと日本書紀に記述があり、現在でも復元的な行事として城南宮や毛越寺でおこなわれている。

25、三尊仏の石

中尊と左右両脇侍からなる三体の仏像を表現した石で、中央の大型の石と左右に小型の石を立てた石組みである。室町時代には禅宗の仏教世界を庭園で表し、庭の中心にこの石を配置した。また、平安時代からは縦方向の気勢を強調するために配置し、横方向の伏石とともに日本庭園には不可欠なものとして受継がれている。

26、支柱

植付けをした樹木が根系を張るまでの補助や、独立して立っていられない樹木が、自重や風などで枝が折れないようにするための目的で施されるものである。景観を損なわないように多種の方法があり、樹木の成長状態に合わせて使い分けられている。また、接地部が故障につながらないように保護をし、定期的に見直す必要がある。

27、真行草

江戸時代後期に、秋里籬島が庭園に書の思想を取り入れて模式化をした三形式である。真はすべての形態を完備し、行はやや簡略したもので、草は簡素にして破体させたものである。庭園は多くの要素から成り立つもので、原則さえ体得すればいかなる条件でも適応したものが作庭できるという、具体的に形式化したもので表した。

28、千利休

武野紹鴎に学んだ千家流茶道の開祖で、織田信長と豊臣秀吉に仕えた桃山時代の茶の湯の大成者である。日常の生活から隔離された侘び茶のための緊迫した路地と茶室空間を追求し、唯一利休が造った茶室として京都府大山崎の妙喜庵の待庵が残る。侘び寂びを根本的な精神とした思想は、現代でも日本文化全般に影響を与えている。

29、延段

表面を平らに加工した石や自然石を短冊型に長く切出し、庭園の通路となる場所に一定の幅で敷き詰めた石敷園路のことである。飛石とは異なり歩きやすさを求めたもので、切石や自然石を曲線や幾何学的に配置をして、感覚的な表情によって山道や河原道などを表現し、風情のある景色をイメージさせるものとして造られている。

30、役木

約束ごとに従いながら、庭園の構成や美観上に応じて決められて植えられた樹木のことである。正真木は、庭園の中心として大木で樹形の優れた松や槙を使用し、対照的に景養木を枝振りの美しいものにし、対比的なものを植える。その他、寂然木、夕陽木、流枝など、場所に合わせて植物の機能や特徴を活かした植栽がされている。

31、アトリウム

古代ローマ時代の庶民の住宅に設けられた前庭である。回廊に囲まれた吹き抜けの空間で、中央に水盤があり床はタイルでモザイク模様が施されていた。周囲には椅子と机を置き、玄関に近いところにあったことから、商談や接客に利用されていた。現代でも、都市の建築物に緑化したものを造り、オープンスペースとして設けられる。

32、アレクサンダー・ポープ

18世紀のイギリスで上流階級の教養人に評価を得た詩人で、造園家の批評活動をおこなった人物の1人である。庭園において、エッセイでフランス庭園に影響を受けていたイギリスの整形式庭園を非難し、自然風景の重要性を主張した。この庭園批評は産業革命の自然破壊とも重なり、自然風景式が造られはじめる契機となった。

33、アンドレ・ル・ノートル

幾何学的空間を用いたフランスの庭園様式を確立した17世紀の造園家である。ルイ14世に命じられて造営したヴェルサイユ宮苑の他にフランスで多くの庭園を設計した。諸外国の宮廷にも大きな影響を及ぼしフランス式庭園が多く造られたことから王者の庭師とも呼ばれている。ヴォー・ル・ヴィコント城の庭園が処女作である。

34、イギリス風景式庭園

フランス式の幾何学的な庭園とは対照的に、自然の大地の起伏や林を利用して人の手を少なくした自然風景式庭園である。ヨーロッパの庭園は、18世紀後半まで整形されたものを指したが、産業革命の自然破壊の影響もあり、自然美を賞賛した新たな庭園が造られた。自然を利用した作庭方法は近代以降も公園設計に影響を与えている。

35、イスラム庭園

建築に囲まれた噴水を中心に、イスラム圏で生まれたパティオ式の独特の形式をした庭園である。平面幾何学形式で、コーランにある楽園をイメージされて造られたもので、彩色豊かなタイルを裏うちした水路があり、華やかな植物も植栽されて理想の地上の楽園が造られた。現在ではアンダルシア地方に優れたものが残されている。

36、イタリアテラス式庭園

後期ルネサンスからバロック期にかけて発展したもので、この時期には造園家という専門職はなく建築家や彫刻家が設計をしたものである。フィレンツェやローマの周辺の丘陵地に建てられた別荘に、斜面を活かしたテラスを幾重にも重ねて展望が活かされた庭園である。また、丘を利用して噴水が造られ、躍動感のある庭園といえる。

37、ウイリアム・ケント

18世紀前半に、イギリスで風景式庭園を確立した最も有名な人物である。イタリアで絵画を学び、ローマ神話を題材とした風景を研究して軽快で独創的な庭園を造った。それまでの幾何学的な構成に変わって、曲線や蛇行する小川を取入れ、自然の風景を意識した庭園を造り出して評判を得た。王室建築家となり帝王と呼ばれている。

38、クラウストルウム

聖堂や修道院に造られた、回廊に囲まれた十字で構成されている中庭のことである。中世のクラウストルウムは、建築と庭園の境界に人の胸の高さまである壁を設け、芝を活かして造園された。長い間変わるこのとないマンネリ化した庭園で、高い水準の庭園とはいえないが、修道院内において数少ない楽しめる場所として造られた。

39、修道院の庭園

廻廊の中庭に造られた十字路と、果樹や媚薬用の植物を計画的に栽培した実用的な庭園の2種が造られた。初期は謹厳な修道院の生活を守るために、すべての物資を修道院内で生産する庭園として造られており芸術性の高い庭園は造られなかった。しかし、次第に祭壇を飾るための花が栽培されはじめ、僧侶の休養の場としての役割があった。

40、チャールズ・ブリッジマン

イギリスにおいて、整形式庭園から風景式庭園に以降する時期の造園家である。庭園周囲に低木や空堀によってハハァといわれる隠垣を造り、自然風景と一体感のある作庭をした。直線の境界で囲った整形式の庭園ではあるが、左右非対称の幾何学的な庭園構成から脱した革新的なもので、庭園造りに新しいデザイン感覚をもたらした。

41、ニッチ

イタリアやスペイン庭園に多く見られる、庭園の中の壁の1部分に設けられている装飾的な彫刻が施された半円形のくぼみである。庭園の主要な場所として、ニッチ内部には彫刻が設置されたものや、飾り鉢やベンチが置かれたりする。その他、内部から水が噴出するものがあり、安らぎや神秘感を与える空間として造られている。

42、パゴタ

東洋では宗教的な多層塔の総称であるが、イギリス風景式庭園で中国風の庭園装飾物を示すことばとしても使われている。イギリスのキューガーデンにある塔が有名で、フランスでも18世紀中頃のイギリス風景式庭園が造園されはじめた頃に中国趣味が流行しており、庭園に中国風の塔が建てられて英中折衷式庭園が造られていた。

43、パティオ

イスラムの庭園の影響を受けた、スペインの伝統的な中庭式庭園でスペイン・サラン式庭園ともいわれる。建物と一体となり、噴水や水盤を中心に周囲に彩りのよい花を植え、床にはアラブ独特の模様が施されて装飾性豊かな空間に仕上げられている。現在でも人々の交流空間として、個人住宅や集合住宅に憩いの空間として造られる。

44、ハンフリー・レプトン

イギリスで建築・造園家の指導者として活躍した人物である。事業の失敗後、知識を活かして造園家を目指し、装飾性のない簡素なブラウンの庭園を踏襲した作庭をして1790年頃に地位を確立した。依頼主に渡した完成予想図を描いて赤の皮の表紙をつけたレッドブックが有名である。200冊ほど制作したものが、現在でも数冊残っている。

45、フランス幾何学式庭園

アンドレ・ル・ノートルがイタリアテラス式庭園に影響を受けて、フランスで幾何学式庭園として平地に応用したもので、広い敷地の中にある館を中心に左右対称の豪壮華麗な庭園である。ルイ14世の時代にヴォー・ル・ヴィコント庭園で確立してヴェルサイユ庭園で集大成させたもので、国内外に大きな影響を与えた形式であった。

46、ペリステュリウム

住宅庭園の中庭のアトリウムの奥に位置する後庭として造られたもので、敷地が広くとられた本庭である。アトリウムの役割は応接間で、ペリステュリウムは家族団らんする場として楽しみのための庭とて造られ、親しい客に限にかぎって案内された。床もアトリウムのタイル張りとは違い、土のままにされて多くの植物が植えられた。

47、ヘルマン・ムジテウス

19世紀後半のドイツで、イギリス風景式庭園の流行が下火になったころに新しい形態の庭園を提案した人物である。建築家であるヘルマン・ムジテウスは、庭園を住宅の1部分として考え、庭を造園家による設計でなく建築家によって考えられなくてはいけないと主張した。整形的な区画とパーゴラを用いて家屋とつなげた庭園を造った。

48、ポン・ド・ガール

水道橋のことで、代表的なものは古代ローマ時代に建設されたものが例にあげられる。ローマ帝国下の各都市では、人工の増加に伴って水不足を解消するために近辺の丘陵地帯から水を供給する水道が整備された。人工の増加に合わせ数百年以上の歳月をかけて建設されており、建築技術が飛躍的に発達した。ローマ周辺にはその遺構が残る。

49、ユーゲント・シューテール

19世紀末のヨーロッパで始まった様式で、フランスの「アール・ヌーボー」のドイツ語の呼び名である。新たな芸術と意味するもので、日本の造形美術原理を取入れて流麗な植物模様や有機的な形態を扱い、建築や工芸品まで大きな影響を与えた。庭園では造園家のエルヴィン・バルトが個人庭園に様式を取入れたものを造った。

50、ルネサンス

フランス語で「再生」を意味する言葉である。中世を暗黒の時代と位置づけて、14世紀から16世紀にかけての古典文化復興運動をさす言葉として、時代を区分するために19世紀頃から使われはじめた。庭園においても当時のものは残ってはいないが、古代ローマの別荘庭園を参考にて造られていたことが文献によって知られている。

●参考文献

  • 小野健吉著『岩波日本庭園辞典』岩波書店 2004年3月

  • 岡崎文彬編『造園事典』養賢堂 昭和51年2月

  • 上原敬二編『造園大辞典』加島書店 昭和59年10月10日

  • 高取忠彦発行『造園施工必携 改訂新版』日本造園組合連合会 平成20年4月

  • 折橋俊英発行『日本美術館全一巻』小学館 1997年11月

  • 森蘊著『作庭記の世界』日本放送出版協会 昭和61年3月20日

  • 西田富三郎著『図説 庭の主要設備』技報堂 昭和50年2月25日

  • 八田凖一著『造園大百科辞典』農業図書 1984年3月24日

  • 山本泰四郎発行『造園用語辞典』1991年6月10日 彰国社

  • 赤坂信編『造園がわかる本』2006年12月10日 彰国社

  • 中村修也著『秦氏とカモ氏-平安京以前の京都-』三星社 平成15年1月20日

  • 稲次敏郎著『庭園と住居の<ありやう>と<見せかた・見えかた>』山海堂 1990年6月10日

    • 村田孝著『イスラムの庭園』オーム社 昭和51年3月

  • クラウディア・デランク著(水藤龍彦・池田祐子訳)『ドイツにおける<日本=像>ユーゲントシュティールからバウハウスまで』思文閣出版 2004年7月22日

  • 折橋俊英発行『西洋美術館』小学館 1999年12月10日

  • 針ヶ谷鐘吉著『西洋造園変遷史 エデンの園から自然公園まで』誠文堂新光社 昭和52年12月15日

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なかには、調べにくい用語もありました。

日本庭園用語では『ハレ』や『みせば』は用語索引では調べにくかったですし、

西洋庭園用語は自信のないもの、とくに『ポン・ド・ガール』が

ホンマにあってるかな??と思いましたが正しかったみたいです。

これで2単位取得!

次はランドスケープ基礎演習2の50枚のスケッチを取りかかります。