大学院-美術工芸特論2-1-Sレポート

5月に受けたスクーリングのレポートです。

人間と美術、美術と素材という内容の講義でした。

大学までは、他コースの先生のお話を聞く機会はなかなか無く、

先生は雲の上の方という感じだったのですが、

大学院では様々なコースの先生の話しが聞けますし、

一人の画家としての苦労話しなど、そのようなお話もしていただけるの??

というぐらいに、いいお話がきけます。

いつものように朝1番に到着です。

(清々しい)

レポートは「講義を通じて考えたこと」です。

遥か昔、紙もキャンバスもなく、絵具自体も描く者自身が作り、特別な能力のある人のみしか絵を描くことが許されなかった時もあるのだろうか。人間の発想やモチーフも、多様な形式がなかった古代から現代にかけて徐々に発展し、絵画史の中で、呪術的な意味をもたせたもの、崇高な宗教画、政治的イデオロギーを要求された時代も過ぎ去り、現代ほど開かれた時代は未だかつてなかったのではないだろうか。

古代の人々が描いたものや、過去の著名な作家が描いた名画は美術館や博物館で鑑賞することができる。その絵画史の裏で、庶民や名もなき人々が、どれだけ絵描くことを行っていたのかは知る由もないが、現代は画材屋に行けば誰もが絵を描く道具を購入することができ、学校やカルチャーセンターなど学ぶ場が豊富にある時代となった。また、発表する場も様々にあり、個人的な想いを自由に公開もできる。イデオロギー的な制約や束縛もなく、「描きたい」という思いさえあれば、気軽に絵を描く行為を楽しめ、多くの人々が絵画表現にチャレンジできる社会環境であると思う。

表現についても、過去の作家が様々なものを絵画として平面に置き換え、多くのジャンルが存在する。「素材」を描く道具だけとはかぎらず、モチーフや人間の想いも含められるのなら、表現する媒体も自由であり、紙やキャンバスに描かなくとも、芸術として成立させることができるようになった。技法やスタイルも、学びの一環として粉本を元に制作することも要求されず、写実や抽象的な表現に囚われることなく、自己表現を自由に制作できる時代となったのではないだろうか。その反面、現代はあまりにも自由でありすぎるために、制作の迷いや、未知なる表現を模索する格闘が待ち構えてもいる。しかし、その悩みも人間の連鎖の中で獲得した自由であり、作家にとっては幸福な環境であるともいえる。

芸術を学ぶことが一般化した現代では、本学の通信教育部で学ぶことも時代に対応した1つのスタイルである。私もその1人となるが、通信教育で学ぶ人々が制作した作品群も、時代が下り、大きな流れとなることができれば、例えば「庶民芸術」「素朴派」などジャンル化される可能性もある。その流れの中で、芸術学のグルーピングは、画材や素材によるジャンル区分が薄れ、再構築される時代が訪れるのかもしれない。

今回の講義では、ジャンルの違う教授、報道者の視点、そして作家を研究する芸術学の視点など、多方の見解が聞ける良い機会であった。さて、私はだれも見たことのないような絵画を描くことができるのだろうか。自分自身に合った「素材」と出会えるまで、まだまだ試す余地がありそうだ。そして、現代のようなだれもが描くことを楽しめる社会環境がいつまでも続くことを願う。(1134文字)