大学院-美術工芸特論-第1課題

ガスケ「セザンヌ」か、柳宗悦「民藝とは何か」のどちらかを読んで、レポートをする課題でした。

私は「民藝とは何か」を選択しました。

無事に1回で合格しました。

「とりあえず合格できた」といレポートです。

ぼちぼちと参考にしてくださいね。

Ⅰ.文献の主題、著者が民藝をどういうものを念頭に置いてどのように定義しているか。

民藝品の美的価値の発見を通して、日本の国民性や地方文化、経済や道徳のあり方が論じられている。特に美意識について、芸術品として作られた希少性と技巧を求めた貴族的な美しさ以外にも、民衆が使う生活用品にも美が見出されるとし、民藝品の価値観の検討から、労働意識や社会協団意識を育む重要性も指摘している。

民藝品は、あまりにも見慣れたものであるがゆえ、評論家にも評価の対象となることがなかった。また、安価であることから下手物として扱われている。しかし、人間が造り出すものには少なからず美が求められている。雑器として頑丈に作らなくてはいけないという条件の中で単純なものとなり、大量に生産されるために多くの無名の職人が携わり、無意識と無想の中で作られながら素朴な美意識が育まれる。その対立的な貴族的な品は、用を意識されず美しさのみを求めた不完全なものといえ、用美相即である民藝品にこそ真の美しさが宿るとされている。

その雑器として扱われる民藝品に、美術的価値を見出した始祖が初代の茶人達である。貧しい人達が使う質素な実用品に、雅致と渋さ、清貧の美を発見していた。職人が同じ物を繰返し作ることによって造形要素がより洗練され、素朴な美しさが現れたものなのである。

民藝品の美の根源は、協団の中で作られていることも大切な要素で、優れた組織力がなければ美は成立しない。日常の生活で利用するため、反復にも耐えるよう誠実で堅実な品物を作らなければならないという、民藝美には商業的美徳や信用も必要とされ、表面的な美しさだけではない社会的美徳も宿っている。正しい社会を築くため、今一度組織を改め、利己的な商業主義や個人主義を脱し、用美一如の労働に意義を見出さなくてはいけないとされる。

茶道が美の宗教であったように、民藝も人々の団結と美徳の中でうまれた一宗教として位置づけ、協団を将来の人類の理念とすることが必要であると主張されている。(799文字)

2.著者が主題について主張していること、またその主張をするに至った経緯や拠りどころについて。

民藝品と貴族的な品の二項対立から、美しく判断されるものに新しい価値観が論述されている。雑器として扱われる民藝品にも美しさがあると論考さている中で、美的価値は技巧や希少性だけではなく、作られる過程での人々の労働意識と社会性が重要になると指摘している。そして、民藝品の美的価値観が普及しなければ、美しい国も実現されないのではないかという考えに至る。

一般の人々が使う民藝品に対して、官や富者のために作られた貴族的なものが上げられている。それらは、日常の生活で使うことが目的ではなく、美しさに特化したものが求められ、技巧を凝らし、小量生産で高価なものが作られる。日常の生活で使えるような耐久性は意識されず、弱さや不安定さが目に付くものとなる。それは、物本来の目的である「用」を離れることによって、美的境地に至ると考えられたのではないかと、その点に関しては、物は使われるために作られるものであり、美しさということに対して不完全なものではないかということに至っている。

民藝品は、用いられることも頻繁であるから丈夫に作られる。低価格とするために量産され、形はシンプルなものが望まれる。製造行程では、反復して同じ物が作られることになるが、その行程は形が洗練されることになり、より美しくなると考えられている。また、作為的な美意識を必要としない繰り返しの行程を無心の境地であるとし、民藝品の美意識の重要な要素であるとする。

対立的な貴族的なものの中にも名品があり、初期の茶人が愛用したものを例に挙げる。古い時代の技巧が発達していないころのものや、支那の貧しい人々が使う茶碗など、やはり、質素と用美一如であることが美しさに必要不可欠であると考えられている。また、民藝品と貴族的なものは、1つの論理で説くことができないものであるともしている。

茶道の世界で名品とされたものも、元をたどれば貧しい人々が使うために作られたもので、質素で単純なものであった。自然にできあがった歪みは、健やかで渋みがあると感じとられている。そこに始祖の茶人たちが美を見出し、名品として使われることになったのである。しかし、美しいとされているものの中には、長年の美的創造の過程で、技巧や絢爛、肩書きに価値を置き、形式化されることによって直感の基礎を失い、真の名品は数少ないとしている。

筆者は、民藝品に新しい美意識の根源を発見する。それは社会の問題が深く関係する。制作される背後にある人々の営みや、社会協団意識も美に影響を与えていると考え、民藝品は、商業的美徳や誠実な社会があるからこそ具現化できるもので、制作する人々の組織の重要性も指摘している。民藝品は、毎日の生活に耐え得るよう、堅実で誠実な品を作ろうとする精神と、協団意識の中で作られたからこそ美しいのである。民藝の美には、もの作りの根底にある人々の経済の保障など、人間の社会活動の美徳が必要とされ、ものだけの価値ではなく総合の美が宿っている。衆生の誠実な労働と、人間同士の敬愛がなければ成立せず、民藝品に美を宿らせるためには、組織力の理解なくしては作ることができないと論考されている。

人々の日常の生活を豊かにする民藝品は、正しい社会が無ければ美は成立しない。美は特別な意識から生まれるものではなく、普通とか平凡と言われる日常からからも造り出される。普段に慣れ親しみすぎているがゆえに気付かれてはいないが、このようなことを論じる必要がなくなり、誰もが民藝品に美を発見できるようになるよう、正しい社会が育まれることが願われている。(1464文字)

Ⅲ.それぞれの文献の主張の当否を自分なりに考えと理由について。

美的感覚は曖昧なものである。いつの時代も、美の普遍的な観念を探し求める思いを持ちながらも、社会環境や民族、文化圏によっても違い、多種多彩な美意識が存在する。美意識は、教育を受けることによって育まれ、個々の経験によっても変化する。

そのひとつの例となるこの論述は、日常の質素な生活の中でも美意識があり、下手物として扱われる民藝品にも芸術性の高い品があるとしている。一般の人々が営む生活でも、美が発見できるという点に関しては良い論考である。しかし、民藝品の美の提案をするために、富裕層や貴族的な品が求めている、美的探究心を損ないかねないほどの二項対立的な論考は好感がもてない。茶道に利用される茶碗で、井戸と楽を例にあげて、2つを1つの世界で説くことができないとしながらも、貴族的な品を否定しすぎているのではないだろうか。美的な要素は、ジャンルの違うものに影響を受けながら高められている。民藝品も、貴族的なものから影響を受けて制作され、美的要素を引き上げるのではないだろうか。多彩な美意識があるからこそ、それぞれのジャンルが誘発され至上の品が作られる。絢爛な品があるから渋さに深みが増し、技巧の優れたものがあるからこそ、単純なものにも魅力を感じることができるからである。

この論述で、生産に対する道徳や社会的協団意識に関しては、現代でも通用する好感のもてる論考であると感じた。1941年に刊行されたときとは違い、社会状況や生活スタイルも変化してしまったが、論考されたように、現在の社会環境に結果が出てきているのではないだろうか。民藝品がもつ地方文化の重要性も現在でも必要とされているものである。現代社会は、都市に様々なものが集中し、輸送手段やメディアの発達によって日本全体の文化の平均化が進んだ。結果、地方文化の価値を見直し、地方創生も訴われている。そして工業化が発達し、生活は豊かになったかのように思われるが、作業の極端なオートメーション化によって労働に対する価値が下がり、不況という酬いを受けてしまった社会状況といえるのではないだろうか。民藝品の美的要素から導きだされた正しい社会のあり方について、その背後にある人間の労働意義や協団制度は、現在の停滞した日本の物作りに対しての、改善するための多くのヒントがこの論述には含まれているのではないだろうか。

この論述から導きだされた美しい品の裏側にある組織の美は、民藝品だけに限らず、人間の営みすべてにあてはまるのではないだろうか。表現されたもの、手作りで生産されたものはもちろんのこと、工業製品に対しても言えることである。現在は工業化が発達して物が豊かになった反面、その品々を受け入れなければ生活に滞りがでてくるような状況である。今一度、日常の生活で利用される品の価値観を見直し、工業製品を受け入れながらも、現代に合った民藝論を再構築する必要があるのではないだろうか。(1200文字)

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