洋画卒制T-4-2-2-プレ副論

ポートフォリオと同時提出のプレ副論です。

副論の前準備みたいなものかな。

必ず再提出となるそうなので、返却後、副論を作成します。

洋画演習Ⅳ—第2課題(2)プレ副論

「祇園祭シリーズ再考の序・卒業制作」

初めてF100号の油彩を描くきっかけとなったのが祇園祭である。当初は八坂神社の祭礼であることや32基の山鉾があることも知らず、今まで12年間描き続け、1100年以上も続けられてきた世界でも稀な祭礼であることを知る。制作を重ねるごとに祭の研究が進み、蓄積され知識によって興味が徐々に深まり、F100号にすべての山鉾を制作しようとすることも、気が付くとライフワークとなっていたというのが事実である。

制作は、夏の祇園祭が終わった後、1年間はモチーフを見ることができない状態となる。記憶と参考写真と対峙しながら構想を重ねる。私は山鉾の何を描出しようとしているのか。ただ描くだけならば、山鉾の固有色と緻密な描写で写実的に描き出すことも1つの方法である。しかし、それだけでは私の制作したいことは画面に表れてこない。山鉾の懸飾品の美しさを描くことが目的ではないというのが、これまで制作してきたことでわかってきた。キャンバスへの造形表現、色彩と色面で山鉾を描き出す方法は無限にある。記憶にある想いと重なる情景と、色彩を探し出さなくてはいけない祇園祭は、私の表現方法を鍛え上げているといえるのではないだろうか。大学では描く行為を理論化することも必要であることを知る。実物や写真ではなく、油彩画として山鉾を見てもらおうとする私の行為は一体どのような意味があるのか。卒業制作では、改めて油絵で山鉾を見せることについての意義を再考する機会となっている。

これまでは、京都独特の夏の暑さなど画面から感じることがないはずの熱や、宵山の駒形提灯を情緒的に表す方法を模索し、時代性を感じることがおもむろに目標となりつつあった。その中で、モチーフとなる山鉾は、独自の形を崩すことは山鉾の認識を鈍らすのではないかということから、現実的に形を描き出し、色彩を造色するのみに留まっていた。今回、卒業制作に着手し、様々な作家が描いた祇園祭を研究し、表現豊かな祇園祭の造形方法を知ることとなる。そして、スクーリングでのF100制作プレゼンテーションで話すこととなった、私の5〜10年先の作品制作の企てを発表することを契機に、自由に形を造る私の祇園祭があってもいいのではないかと考え始めることとなる。

今までの研究で、戦乱や大火で中断と復興を繰り返し、祭神までも変化させながら長年続けられてきた祭礼の変遷を知ることとなる。私自身も表現を変化させていくことで、この計画が継続の力をもつのではないだろうかと考える。

継続することの難しさは京都の歴史が語り、祇園祭を通じて京都の歴史と文化の継続の叡智を知ることとなる。祇園祭に油彩表現を学ばせてもらっていること以外に、制作と発表を続けるための秘訣も学んでいるように思う。私の想い以上のことはキャンバスには表れない。大学での学びを通じ、再度祇園祭に対する思いを整理し、今後の制作の方向性を再考する時期といえる。

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