大学院-洋画-1年次1----プレゼン資料

2014年から大学院に進むことにしました。

大学院では、絵描き&表現者として、大学よりももう一歩進んだ感じの内容となっていました。

まずはじめに、テーマを決めることになっています。

今年1年間の制作の計画書も提出しないといけません。

けど私の場合、テーマは「祇園祭」と決まっているので話しは早い。

5月のスクーリングまでにエスキースも制作しなくてはいけませんが、

まずは、プレゼンテーションをするための資料を作成しました。

はてさて、このテーマでいけるのか?

大学院生のスタートです。

プレゼンテーションをするためのプリントです。

表面

裏面

表面のテキストを掲載してみます。

祇園祭・油彩F100号32年計画〜祭礼をテーマとしたF100作品の連作〜

2002年、祇園祭が初めてF100号の油彩を制作するきっかけとなる。その後、すべての山鉾をF100号のキャンバスに1年に1枚を描き上げるという構想を考える。当初は現存する32基の山鉾を制作する予定で、32年計画としてスタートしたが、八坂神社の神輿を加え、大船鉾・布袋山が復興予定、また、休み山となっている鷹山の存在を知り、2013年度卒業制作では「祇園祭洛中洛外図」を制作することになる。2014年現在、2036年頃に完成予定の連作となる。

祇園祭について

平安時代、863年に疫病が流行し、災いを治めるために御霊会が行われた。過去の日本では、不慮の死を遂げた者は怨霊へと転化すると考えられ、当初は桓武天皇の弟である、早良親王をはじめとする朝廷の政権争いに敗北した者や、この世に恨みをもって死した者、疫神が病気や天災を起こす原因と考えられた。祇園祭は、御霊会を元に怨霊や疫神を慰撫するために執り行われたものである。

869年に内裏の禁苑である神泉苑で御霊会が行われ、当時の国の数である66本の矛を奉納したことが、現在の山鉾の形態の始まりとされる。現在は八坂神社が祭礼の中心となり、祭神のスサノヲ尊と牛頭天王に無病息災を願う。はじめは神輿の渡御のみであったが、申楽と山鉾巡行が加わりはじめ、14世紀頃に現在の山鉾の原型がかたちづくられる。宵山の風物詩である駒形提灯も18世紀頃に始まった。

祭礼は、応仁の乱や蛤御門の変などによる何度かの中断はあるものの、様々な困難を乗り越えながらも1000年以上続けられてきた。世界各国、様々な文化や文明が消滅し、遺構と文献のみから過去の人々の営みを研究し、博物館などに資料のみが残るものも少なくない。人種・文化圏が違っていても、継続することの難しさは共感できるものではないだろうか。2009年にはユネスコ無形文化遺産にも登録され、世界的な文化遺産としても認められることとなる。

制作することで

祭神や祭りの形式が変化してきた祇園祭であるが、京都の伝統文化はかたくなに形態を守るのではなく、信念を保ちながらも柔軟に形式を変化させることで、長く続けることができたのではないだろうか。そこに、京都の町衆の叡智をみることができる。日本の文化を「和風」ともいう。「和」に含まれる意味や、言葉に使われる並びはとてもよく「なごみ・やわらぐ・調和」そして「平和」。京都の町を歩けば自然に和があり、その中で祇園祭が行われている。

この連作も、自分自身が感じる京都と祇園祭の魅力を、長い年月をかけて制作しながら考察し、計画を継続するための秘訣も祇園祭に学ぶ。最後、全作品を展示したときに、絵描きとしての絵画表現の学びと、私の感じてきた祇園祭の魅力が絵画世界に表現できていれば、この計画は成功だと思っている。

制作山鉾地図

現在、山鉾は14作品が完成し、残り22基となる。

完成作品

2002年 鶏鉾

未制作山鉾

油天神山

2003年 菊水鉾

2004年 芦刈山

2005年 船鉾

2006年 岩戸山

2007年 北観音山

2008年 八坂神社御神輿

2009年 月鉾

2010年 橋弁慶山

2011年 長刀鉾

2012年 蟷螂山

2013年 綾傘鉾

2014年 放下鉾

南観音山

霰天神山

祇園祭洛中洛外図

現在、16作品

(山鉾は14基制作)

占出山

郭巨山

函谷鉾

孟宗山

四条傘鉾

太子山

鈴鹿山

伯牙山

木賊山

白楽天山

鯉山

山伏山

霰天神山

役行者山

八幡山

黒主山

保昌山

浄妙山

大船鉾(復興予定)

布袋山(復興予定)

鷹山(休山)

残り、山鉾22基

地図を作ると、だいぶ進んだなぁと、自分でもしみじみ思います。