まんが「美味しんぼ」への訂正要望

第592話「続・食と環境問題」

<概要>

「美味しんぼ」第592話で、遺伝子組み換え作物および農薬の安全性に関して 事実とは異なる意見を大きく取り上げました。

これを読んだ読者が食品の安全について大きな誤解をすることが懸念されたので、「美味しんぼ」を掲載する株式会社小学館週刊ビッグコミックスピリッツ編集長宛に情報提供と訂正要望の文書を提出しました。

その後、編集長と話し合いの機会を持つことができました。その結果、編集長は「抗議には根拠がないと考えている」と主張され、合意に達することはありませんでした。

しかし、話し合いは必ずしもすれ違いではなく、お互いの立場を相互に理解できたと思います。

そして編集長から、今後、食品の安全性について取り上げる機会があれば、今日の話し合いの結果も参考にしたいというコメントがありました。

なお、このホームページを見たJ-castニュースが、早速この問題を取り上げました。

http://www.j-cast.com/2010/07/07070593.html?p=all

<編集長への要望書>

拝啓 貴社ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。

食品安全情報ネットワーク(FSIN)は、食品の安全に関する必要な情報を収集し、科学的な立場からこれを検証し、自らも科学的根拠がある情報発信をすべく、日々活動している、学識経験者、消費者、食品事業者、メディア関係者等の有志による横断的なネットワーク組織です。

「ビッグコミックスピリッツ」(No.23: 5月24日号)に掲載されている「美味しんぼ」第592話「続・食と環境問題」において、実在の人物へのインタビューというかたちで、遺伝子組み換え作物および農薬(除草剤)の安全性に関する情報が掲載されています。しかし以下に具体例をお示しするように、その内容は科学的根拠がなかったり、事実に基づかないものが多く、多くの「美味しんぼ」愛読者に遺伝子組み換え作物や農薬の安全性について科学的に誤った認識を与えるという結果になりかねないことは非常に残念です。日本中の愛読者のためにも、以下の点についてご確認いただき、訂正をしていただく必要があると考えますので、ご対応よろしくお願い申し上げます。

まずP307で、ヒトに対する安全性の例として、イギリスのロウェット研究所のラットでの実験結果を紹介し、GM(遺伝子組み換え)ジャガイモで「臓器への影響や免疫力が低下し病気にかかりやすくなったという結果が発表された」「ラットに害が出るという事は、人間にも出るということですね」と紹介しています。しかし、このジャガイモは免疫細胞に毒性を有するレクチンという成分を遺伝子組み換えにより意図的に組み込んだ実験用作物であり、そもそも消化不良を起こすことが想定されたものです。したがって、この研究結果から「遺伝子組み換えすることによってジャガイモがラットの免疫力低下を引き起こすようになる」という一般的な結論にはなりません。遺伝子組み換え技術と実験ラットへの影響の間の因果関係は、英国食品基準局(FSA)をはじめ、各方面でその後明確に否定されています。また念のため、現在、商品化されている遺伝子組み換え作物にレクチンを含むジャガイモは存在しません。

また同じくヒトに対する安全性に関連し、P308でスターリンクトウモロコシが「呼吸困難、血圧低下、最悪の場合命にかかわるアナフィラキシー・ショックと言われるアレルギー症状を引き起こした」とあります。たしかにスターリンクトウモロコシが食品に間違って混入したことがが発表された直後に、そのような症状を訴えた人が50人ほどいました。しかし、それらの人に対し、その後、FDA(米食品医薬品局)およびCDC(米疾病対策予防センター)が追跡調査を実施し、これらの症状の原因が「スターリンクトウモロコシが発現するタンパク質(Cry9C)ではなかった」と結論付けています。まだ現在までスターリンクトウモロコシによるアレルギーは見つかっていません。ちなみに、このような混乱は日本でもありました。高濃度の農薬を混入した冷凍餃子で食中毒患者が発生したことが大きく報道された直後に、全国で数千人の人が冷凍食品による中毒症状を訴えましたが、厚生労働省の調査により、それらはすべて冷凍食品が原因ではないことが確認されています。前述のアレルギーは、これと同様のことが起こったものと考えられます。

上記はいずれも、科学的根拠が不明確なままセンセーショナルに取り扱われ、その後は否定されたケースを、意図的にその後の経過を隠して引用したものです。そして、「遺伝子組み換え作物は国際基準および国の法律に基づく審査によって安全性が認められたものだけが流通しており、10年以上にわたり日本でも広く利用されているが一度も健康被害は起きていない」という事実を無視し、遺伝子組み換え作物を摂取すると人体に害があるかのように読者の誤解させることを意図したものであり、大変問題であると考えます。

さらに、P310からP311にかけての除草剤に関する記述について申し述べます。まず「除草剤」の残留とありますが、グリホサートとグルホシネートとは全く異なる除草剤であり、それぞれ別個に使用、残留に関する安全性の審査が行われています。また、藤井先生の成績から、グルホシネートが脳に影響がある可能性を指摘していますが、この実験は非常に多量を用いたものであり、実際に残留している濃度でそのような影響は起こり得ません。国の食品のリスク評価機関である内閣府食品安全委員会では、藤井先生の実験と同様の試験だけでなく、さらに詳しい試験の成績をもとにしてグルホシネートによる悪影響が出ない量(閾値)を残留許容範囲として設定し、それに百分の一という安全係数をかけたうえで安全基準が作られています。安全基準以下の量であれば、一生の間、毎日食べ続けても影響はないと考えられています。一方、動物が大量に化学物質を摂取した時に何らかの障害が起こるということはグルホシネートに特有の性質ではなく、多くの化学物質に共通する性質です。例えば食塩でさえ200グラムを一度に摂取すれば人間も死亡するといわれています。除草剤の残留濃度が摂取しても影響がない低濃度であるという事実を故意に無視した内容は、食品の安全性に関して読者の誤解を招くものであり問題です。

最後に、漫画の構成は一見「両論併記」の形をとっていますが、それは社会通念上認められるものではありません。両論併記とは、例えば目的にたどり着く合理的な道筋が2つあるようなときに両者を紹介する方法であり、今回のように明確に科学的な決着がついている問題について、正しい科学と偽科学を並べて両論併記と主張することはあり得ません。このような取り扱いは、両者がともに科学的根拠を持つものという大きな誤解を読者に与えるだけです。そのような誤解を広げることが貴編集部の真意であるならば、それは別の大きな問題を提起します。

それは「あるある大事典」の放送中止と同様の問題です。中止の理由は、「バラエティーだから許される」という安易な考え方で科学を無視し、非科学的な番組作りを行ったことです。漫画だからといって、非科学的な主張があたかも正論のごとく大きく取り上げることに、私たちは「あるある大事典」と同様の危惧を感じていることを強くお伝えします。

この件について編集長と面談の上見解を伺いたく、よろしくご検討をお願いします。

敬具

<編集長からの返信>

2010年6月25日

食品安全情報ネットワーク事務局 唐木英明 様

小学館ビッグコミックスピリッツ編集部 立川義剛

拝啓 時下益々ご清栄の段、お慶び申し上げます。

この度は、小誌「週刊ビッグコミックスピリッツ」5月24日号(5月10日発売)に掲載された「美味しんぼ」第592話につきまして、ご丁寧なご指摘ご意見を賜り誠にありがとうございました。

ご指摘の作品は、「食に絶対の安全はない」という原作者の雁屋哲氏の考えにのっとって描かれたもので、たとえ少数派の意見であっても、さまざまな意見を取り上げることを主眼に物語を構成させております。

雁屋氏は「食と環境」にまつわる現代の主要な問題点に真剣に取り組んでおり、綿密な取材に基づきまして執筆活動を展開しております。けっして、安易な考え方で科学を無視して誤解を広げることを企図しているわけではございません。それはご理解いただきたいのですが、私どもとしましては、そちら様のご意見も直接お目にかかって真摯に承る所存です。

ご面談にあたっては作品の担当者も同席させますが、なにぶん私たちは「遺伝子組換え作物」の専門家ではございませんので、科学的な各論につきまして、その場でお答えできることは限られてしまうものと思われます。その点ご容赦いただければ、お会いさせていただきたく存じます。

ご面談の日時につきましては、来週はすでに予定が立て込んでおりまして、できましたら再来週7月5日(月)以降で、ご都合のよろしい日時をいくつかご提示いただけると幸甚です。場所は、ご足労をかけまして恐縮ですが、弊社応接室ということでよろしいでしょうか。

取り急ぎ、メールにて失礼いたいました。何卒よろしくお願い申し上げます。

敬具

<編集長との話し合い>

2010年7月7日 午後4時から午後5時

出席者:「ビッグコミックスピリッツ」立川義剛編集長 他2名

食品安全情報ネットワーク 唐木英明 他2名

最初に、唐木からすでに送付した要望書の内容と、これに対する編集長の返事の中から以下の2点についてコメントした。

1)「食に絶対の安全はない」とは何を意味するのか?

○天然、自然の食品は安全という誤解がありますが、実は危険の塊です。たとえば、きのこ類やふぐが持つ致死性の毒、青梅の青酸化合物などは有名ですが、豆類にはレクチン、ジャガイモにはソラニン、ホーレンソウなどの青菜には亜硝酸など、多くの化学物質が含まれ、多量を食べると健康を害したり、死亡することもあります。

また、食品には食中毒菌が付着していることがあり、食中毒を起こすことはよく知られています。

さらに、食品の食べすぎは肥満、そして生活習慣病という深刻な結果をもたらすこともよく知られています。

そして、このような食の危険から身を守る役割のほとんどの部分が個人の責任に任されています。だからこそ専門家は「食品に絶対の安全はない」から十分に注意するようにと、繰り返して呼びかけています。

実際に年間何万人もの人が食中毒にかかり、何人もの人が亡くなっています。生活習慣病による死亡者は何十万人になります。


○しかし同時に食の専門家は「食の安全は守られている」とも言っています。それは次のような意味です。

歴史的にみるとごく最近になって食品生産に新しい技術が導入されました。例えば、農薬、食品添加物、遺伝子組み換え作物、缶詰、冷凍食品、レトルト食品などです。これらの新技術のうち農薬、食品添加物、遺伝子組み換え作物については「食経験が短い新しい技術」という理由で不安があります。そこで各国政府は厳しい安全基準を定めました。

さらに、国際貿易の活性化で現在は食品が世界中を動き回っています。そのために食品の安全基準を世界的に統一する必要があり、FAOとWHOがその役割を果たしています。

その結果、先進国で生産され、流通している食品については、残留農薬、食品添加物、遺伝子組み換え技術によるリスクは極めて厳しく管理され、健康に障害は出ていません。このような事実を食の専門家は「食の安全は守られている」と言っているのです。


○このように、「食に絶対の安全はない」という言葉は、天然、自然の食品が元々持つ危険性を指すものです。しかし、残念ながら、この言葉を「残留農薬、食品添加物、遺伝子組み換え技術などの危険性を指すもの」と誤解している人も多いのが現状です。

ぜひこのような誤解を解いて、正しい理解を広げていただきたいと思います。

2)「たとえ少数派の意見であっても、さまざまな意見を取り上げる」ことについて

○「意見」には2つの分け方があります。1つは「感情に基づく」意見と「科学に基づく」意見という分け方です。そして、この両者は両立することもありますが、対立することもあります。

たとえば、「科学的にも、実態を見ても、食品添加物の安全性は守られている」という意見があります。そして「安全だから、私は食品添加物が入っていても気にしない」という人がいる一方、「安全でも、私は嫌いだ」という人がいます。

安全であるにもかかわらず、嫌いだという意見を取り上げて、それではどうしたらいいのかを議論することはとても大事です。表示を行い、嫌いな人は食べなくてもすむようにする、というのは一つの解決法です。


○もう一つの分け方は、科学や社会規範から見て正しい意見と、間違った意見です。たとえば犯罪や殺人を正当化する意見を言ったら、社会的に糾弾されるでしょう。もっと分かりにくい例もあります。「地球は球ではなく、平面だ」、「人間も生物も進化により生まれたのではなく、神が創ったのだ」、そんな少数意見があります。これらは科学的には間違いですが、個人的に主張するのであれば社会的糾弾は受けないでしょう。

しかし間違った意見を「科学的に正しい」と言い張る人たちがいます。そのような人たちの「科学的根拠」は、偽科学や、昔言われていたけれど現在は否定されているものなどです。このような主張は社会に混乱をもたらすことがあり、許されるものではありません。

ところが、科学者ではない人たちには間違い科学と正しい科学の見分けをつけることは簡単ではありません。間違い科学を主張する人たちはそれを利用して、「自分のほうが正しい」と主張し、これを「面白い」と感じて取り上げるメディアも後を絶ちません。決着をつけるのが「学会」であり、専門の学会に問い合わせることにより、偽科学の化けの皮ははがれます。


○「少数意見を無視しない」のは民主主義の原則です。しかし、それは「真っ当な少数意見」という限定条件があります。社会規範に外れた少数意見や、偽科学に基づく少数意見を「真っ当な意見」と対比すること自体が無意味であるばかりでなく、両者を対等に見せてしまう点で大変に有害でもあります。

そして残念ながら今回の例は「偽科学や否定された科学を基にした少数意見」なのです。ぜひ専門の学会や内閣府食品安全委員会にお問い合わせ下さい。

<話し合いの内容>

唐木からの説明に対して、編集長から、遺伝子組み換え食品は完全に安全と言えるのか、安全性に疑義があるとされる実験結果もあり、これを支持する専門家もいるとの意見があった。

唐木はこれに反論し、次回遺伝子組み換え食品を取り上げる際には、科学的な正当性には気をつけていただきたい旨、また、何かの機会に訂正をされることを求めた。

これに対して、編集長から、「食の安全と環境」のテーマは終了したので、近日中に遺伝子組み換え食品を取り上げる予定はなく、要望に答える機会はないだろうとの返答があった。

唐木より、まんがに記載の例はすでに科学的に否定されていることを再度説明したが、編集長より、完全に安全と言い切れるのか、言い切れないのであれば、安全でないとしている件についても取り上げるべきであると再度反論があった。

結論として、編集長より、この抗議については、編集部としては根拠がないと捉えているとの見解が出された。

唐木が、本日は合意に達することはなかったが、互いの立場を理解することができたとの感想を述べ、今後、食品の安全性を取り上げる際には、この話し合いの結果を考慮することを求めたところ、編集長はこれに同意した。

以上