在中国・アメリカ飛行義勇軍
井上俊夫先生の晩年の戦争詩に「青い麦畑」というのがある。先生は支那事変
と呼ばれた日中戦争に1942年から1946年にかけて従軍され、また詩集
『野にかかる虹』でH氏賞受賞。作家としても知られ、私が朝日カルチャーセ
ンターのエッセー教室で1992年以来14年にわたり、指導を受けた先生
である。2008年10月16日亡くなられている。
青い麦畑
「まだ熟していない青い麦畑が果てしなく続く曠野の一本道、中国軍を追って
作戦行動中の歩兵一個中隊が行く、後ろで爆音が聞こえてきた」
「友軍の直協機(九八式直接協同偵察機)かと思いきや、翼には日の丸ならぬ
大きな星印がくっきりと描かれている」
「P51(ムスタング戦闘機)は急降下すると、機関砲をぶっ放し、飛び
去っていった」
「このときは一機で一度しか撃ってこなかった。この一機は在中国・アメリカ
飛行義勇軍の基地に引き返す途中、行きがけの駄賃のような攻撃を仕掛けて
きたものに相違ない」
「その時、隊列の中から悲痛な叫び声があがった。『分隊長殿、尾崎一等兵と
渡辺一等兵と須崎一等兵がやられています』
畑のまだまだ青い麦の穂波が三人の鮮血で真っ赤に染め上げられていた」
「早々と遺体の措置を済ますと、中隊は何事も無かったかのように再び行軍
を開始した」
「何処まで行っても青い麦畑、何処まで行っても青く連なる麦畑、敵味方いずれ
の兵士たちが流した血潮なりとも赤々と染まってみせる麦畑が、何処までも
何処までも……」(『八十六歳の戦争論』)
井上先生は大阪の歩兵部隊に入営の後、直ぐに華中江西省の前線部隊に送られ、
歩兵砲中隊の一員として、猛烈な初年兵教育を受け、生身の中国人捕虜を銃剣
で突き刺すという、すさまじい訓練の後、幾日も行軍して敵軍と遭遇しては抗
戦するという討伐作戦に従事されていた。「青い麦畑」はその時の実際の体験で
あろう。そのあと、新設された航空部隊の要員として漢口飛行場つきの気象小隊
を経て、武昌飛行場つきの気象小隊に転属になった。それだけに先生は当時の戦
闘機の名前や飛行基地の状況に詳しかった。私は「青い麦畑」の中の「アメリカ
飛行義勇軍の基地」というのは何だろうと思ってネットで検索してみた。
日本とアメリカの開戦は1941年12月8日、日本の真珠湾攻撃により始まる
のであるが、すでにアメリカは1937年には日本と戦闘状態にある中国国民党
軍に、支援の戦闘機部隊を送り込んでいたのだった。勿論アメリカは当時日本と開
戦していないので正規のアメリカ軍を送るわけにはいかない。そこで
義勇兵を募り、軍とは関係のない義勇軍の航空部隊を作り上げた。義勇軍では
あったが、ルーズベルト大統領の後ろ盾を受け、100機の戦闘機と100名の
パイロット。200名の地上要員がいて、ラングーンの北のキエダウ基地を本拠
とし、昆明・重慶の基地も利用して、ビルマから重慶を結ぶ蒋介石の中国国民党軍
を支援する物資の補給線の制空権を確保していた。部隊名は中国名「飛虎」と
名づけられ、また「フライングタイガース」とも呼ばれるようになる。そして、
1941年には日本の航空隊と激しい戦闘を交わしている。井上先生が華中の部
隊におられた時はすでに、アメリカと開戦しており、義勇軍を名乗る必要はなく
なっていたが、当時日本軍では在中国アメリカ軍の飛行基地を「義勇軍の基地」
と呼んでいたのだろう。
このアメリカ義勇軍部隊は重慶を本拠として日本軍の攻勢に対抗する中国国民党軍
にとって、実に有力な支援の存在となっていた。蒋介石の支援ルート「援蒋ルート」
を守り、アメリカやイギリスからの支援物資の重慶への送り込みを容易にしていただけ
でなく、国民党軍の航空兵力を強くするために力を注いだ。蒋介石夫人の宋美齢(ソン
・メイリン)は中国の名家宗家の生まれで、アメリカのウェルズリー大学を主席で卒
業しているが、1937年中国国民党航空員会秘書長に就任し、アメリカ飛行義勇兵
部隊の設立とその後の活動に強く関わっていたとされている。そして、親中派のアメ
リカのフランクリン・ルーズベルト大統領やその妻エレノアと親密な関係を持ち日本
軍の侵攻に対抗する国民党軍への支援を強く訴えて、アメリカの対日政策に大きな影
響を与えたとされている。さらに先の大戦中、アメリカ全土を巡回し自ら英語で演説
し抗日戦への援助を訴え続けた。特に1943年2月ワシントンのアメリカ連邦議会
では、宝石をちりばめた中華民国空軍のバッジを付けたチャイナドレス姿で抗日戦へ
のさらなる協力を求める演説を行い、連邦議員のみならず全米から称賛を浴びその支
持を増やした。
さらにこの飛行義勇軍部隊は日米開戦前に日本本土直接爆撃計画を企てていたこと
も分かっている。それは、爆撃機150機、戦闘機350機を用意し、中国から飛
び立ち日本本土に焼夷弾爆撃をするというもので、目標の都市は長崎・神戸・大阪
・東京とされ、日本の都市の木造家屋を焼き尽くす計画であった。しかも日米双方
が宣戦を布告するまえに実行するものとしていた。これはアメリカのアラン・アー
ムストロングの著書『幻の日本爆撃計画真珠湾に隠された真実』に書かれているが、
それを裏付けるものとして、国立公文書館で「JB355」という日本先制爆撃計
画に大統領直筆サイン「FDR」のある文書が見つかっている。この爆撃は194
1年11月1日実行する予定だったがルーズベルト大統領の「少し待て」という言
葉と、爆撃機をイギリスの支援のため欧州戦線に先に回す必要が生じ中止となった。
日本の真珠湾攻撃の正に1か月余り前であった。「アメリカ義勇軍の先制攻撃をしな
かったから、真珠湾攻撃が起きて、日米開戦が始まったのだ」と著者のアームスト
ロングは、いっていたとされている。
私は井上先生の戦争詩から「アメリカ飛行義勇軍」のことを知り、当時、中国大陸
に侵攻する日本軍に対抗するための支援を、アメリカ全土を回り、連邦議会にも出て
強力に訴え続けた宋美齢の姿が、今、ロシア軍のウクライナへの侵攻に立ち向かう
ために幾度もアメリカを訪れ議会でも支援を訴え続けるウクライナのゼレンスキー
大統領の姿と重なるのである。また、ウクライナ支援を進めながら、ロシア本土の
直接攻撃をおさえこんでいるアメリカバイデン大統領と中国からの直接の日本本土
爆撃を抑えたルーズベルト大統領とも重なる。そして侵攻を始めたとき、すぐに
終わらせることができるとみて「戦争」といわず「支那事変」といっていた当時の
日本と、ウクライナ侵攻のはじめにはすぐに終わるとみて「特別軍事作戦」と
いっていたロシアはそっくりそのまま、戦争長期化の道を進んでいるように思える
のである。
「支那事変」はアメリカ・イギリスの中国国民政府側に対する強力な支援が続き、
日本の敗戦まで終わることがなかった。中国大陸の侵攻からの撤退要求をアメリ
カからも受けていた日本は絶対に撤退せず、アメリカ・イギリスに宣戦布告を
して世界大戦に突き進んでしまった。ロシアの侵攻した領土からの撤退をウク
ライナは強く要求しているが、ロシアも撤退する気配は見せない。私はあの
「支那事変」といわれた日中戦争の経過から見て、このままでは、ウクライナ
戦争は終わることなく、いつまでも続いてゆく。と思われる。その果てはどう
なるか。多くの人命が失われ続け、膨大な武器弾薬が消耗されて、戦争当事
国だけでなく支援国の国力も衰えてゆく。世果中に分断と憎しみが広がる。
私がさらに恐れるのは、日本が「支那事変」から世界大戦に入っていったように、
ウクライナ戦争が第三次世界大戦の引き金になってしまうことである。その可
能性も十分にあると思われる。もし第三次世界大戦が起こるとすれば、それが
終わるのは双方の「核」の暴発の後になり、地球上の人類・生物の危機となる。
日本もアメリカもウクライナ支援を打ち出しているが、アメリカの世論と欧州の
一部には、ウクライナ援助反対の動きもある。しかし私はそんなことよりも、
まずなすべきことは全世界で戦争を、停止させる「声」をウクライナ・ロシア双
方にかけ、「停戦」を働きかけるべきである。勿論双方の抱える問題はそれでは解
決できない。しかし何はともあれ、双方の兵士・国民同士が殺し合いをしている
状況だけはストップさせなければならないのである。
そして、「停戦」が実現できたら、じっくりと「協議」「交渉」に入る。それも全
世界各国が「注目」し「協議」に入り込む形で進めるべきである。おそらく双方
の領土問題、クリミヤ半島の主権問題などとなり、簡単には解決しないで、「交
渉」が長期化する可能性はある。しかし、殺し合いの戦争のまま長期化すること
よりも、はるかに「交渉」の長期化のほうが絶対良いと私は思う。まず平和。
双方の国を平和にしてから「交渉」を始めるべきだと私は真摯に思っている。
「アメリカ飛行義勇軍基地」と書かれていた井上先生の「青い麦畑」の、
他の戦争詩の中に次の言葉を見つけた。
ああ、戦後六十有余年
―老兵は唄うー
「どんなに『悪い平和』でも、どんなに問題の多い平和でも、どんなに嫌な
世の中でも、平和でありさえすれば、またぞろ政府が唱えるに違いない『善い
戦争』や『国際貢献のための戦争』よりはるかに良いのだ。(『八十六歳の戦争論』)
(2023年9月26日)