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               「玉砕」せずに生き抜いて戦い続けた男達

 




私が「玉砕」という言葉を初めて聞いたのは、国民学校5年生のときである。アッツ島

守備隊2650名が「昭和18年5月29日夜、敵主力部隊に対し、全力を挙げて壮烈な

る攻撃を敢行し、全員玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参加し得ざる者は、これ

に先立ち悉く自決せり」という大本営の「玉砕」発表で知った。アッツ島は北太平洋アリ

ューシャン列島のアメリカ領の島を日本軍が占領して「熱田島」と名づけていた。私は、

西城八十作詞「アリューシャンの勇士」の「氷の下に埋もれて気温は零下四十度、吹雪の

中に屯する雄々しの勇士を忘るるな、感謝に燃えて伏し拝め、ああアリューシャン アリ

ューシャン」を歌い玉砕後、山田耕作作詞の「刃も凍る北海の、御盾と立ちて二千余士、

精鋭挙がる熱田(アッツ)島、山崎大佐指揮を執る、山崎大佐指揮を執る」と、顕彰国

民歌を懸命に歌っていた。

 

「玉砕」という言葉は明治時代の軍歌にも「敗れて逃ぐるは国の恥、進みて死ぬるは身

のほまれ、瓦となりて残るより玉となりつつ砕けよや」とありこれは中国の古書『北魏書』

の「大丈夫寧可玉砕、不能瓦全」からきているとされている。が「全滅した」「殲滅させ

られた」ことを、名誉に殉じて潔く死んだとして美しく「玉砕」と表現したものと思われる。

 

1943年(昭和18年)末から1944年にかけて、アメリカ軍の反転攻勢は一層強く

激しくなり、太平洋南部の島々での玉砕が相次いだ。タラワ・マキン島、マーシャル群島

クエゼリン・ブラウン環礁、ビアク島、サイパン島、テニアン島、グアム島、アンガウル島、

ペリリュー島と続き、1945年(昭和20年)になるとニューブリテン島、硫黄島、そし

て、6月23日には沖縄守備隊の玉砕が報じられた。戦局が絶望的となると軍部は「本土

決戦」を主張し、「一億玉砕」や「一億総特攻」などをスローガンとした。当時日本本土の

人口は7000万人ほどであったが、満洲・朝鮮半島・台湾・内南洋などの居住者を含んでの

一億であった。1945年4月の3332名を乗せた戦艦大和の沖縄出撃では「一億玉砕ニ

先駆ケテ立派ニ死ンデモライタシ」との軍内での最後通告があったとされているから、

このときにはすでに「一億玉砕」方針は決定していたのであろう。

 

私は当時中学生ながら、その時代の空気からか「国のために死ぬなら、本土決戦で玉砕して

もよい」と本気で思っていた。が、ただ一つ疑問があった。それは1945年3月ごろ、

軍から甲陽中学に訓練用に使っている歩兵銃を全部提出せよ、との命令があり、私も銃を

担いで大阪の大手前の陸軍の倉庫まで運んだことである。「中学校から訓練銃を取り上げる

のはすでに、日本には戦う銃器が不足しているからだろう。本土決戦で玉砕攻撃するとき、

中学生に戦える武器が渡されるのか。戦った上での玉砕はいいが、武器なしとか竹槍突撃

とかはしたくないぞ」この疑問は常に私の頭を占めていた。

 

今年(2023年)7月14日、私は母校の今津小学校の「平和学習」で戦時体験の話を

することになり、サイパン島玉砕の日をネットで調べているとき、ふと『玉と砕けず』と

いう本の名前が目に入った。それは、戦える兵は全員玉砕したと聞いていたサイパン島で、

若き大尉と名もなき兵士たちが、民間人を守りながらも戦い抜いて、奇跡の生還を果たす

までの史実が書かれた、ドキュメント作家秋元健治の著作だった。先の大戦でアメリカの

反転攻勢により、1944年(昭和19年)以降、制海権・制空権を奪われて奪取攻撃を

される太平洋上の島々の日本軍守備隊は、戦陣訓等でしばられ捕虜になることは絶対でき

ないので、最後は玉砕するしかないと永年にわたり思い込んでいた私は『玉と砕けず』と

いう言葉に「オヤ?」と思った。私は早速ネットでこの本を購入した。そしてほかに、若き

大尉の戦いぶりに感動して、敵であった元アメリカ兵、ドン・ジョーンズが書き上げた小説

『タッポーチョ太平洋の奇跡』があることが分かった。又この小説が人気となりこの小説

を元につくられた映画『Oba The Last Samurai Saipan1944―45』もあることも分かった。

私は早速、映画をYouTubeで見て、この小説もネットで購入した。

 

若き大尉とは、そのとき31歳で、歩兵18連隊に所属していた大場栄大尉のことである。

愛知県出身で1913年(大正2年)生まれ、愛知県実業教員養成所を卒業して1933年に

御津町立実業学校教諭となる。翌年徴兵され18連隊に配属、2年後に甲種幹部候補生となり,

部隊と共に中国大陸に派遣された。その後、少尉、中尉と昇格し連隊の中隊長に就任し、19

43年(昭和18年)に大尉となった。1944年3月、歩兵18連隊はマリアナ諸島への移動

を命じられたが、途中輸送船がアメリカ軍潜水艦の魚雷攻撃を受け連隊約3900人中2200

名が死んだ。大場大尉は駆逐艦に救助されたが、輸送船沈没時の火災で火傷を負っていたので、

サイパン島の診療所に運ばれ治療を受けた。その間に連隊の本隊はグアム島へ移動してしまった。

サイパン島に残された大場大尉は衛生隊の指揮官として島北部の警備を命じられた。

 

1944年6月15日、アメリカ軍はサイパン島西北のチャランカノア海岸に上陸を開始

した。上陸前には戦艦からの艦砲射撃により日本の守備陣地に猛烈な砲火を浴びせ続けた。

16日上陸に成功したアメリカ軍に対し日本軍は戦車による夜襲攻撃を仕掛けるが、装甲

の薄い日本の戦車は、新兵器バズーカ砲の的となり、戦車部隊は全滅する。アメリカ軍は

サイパン島の奥に進み18日、島の飛行場を占領する。19日、日本は海軍力を結集して

アメリカの侵攻を止めようとマリアナ沖海戦を仕掛けるが大敗して空母3隻、航空機45

0機以上を失う。島では中央部のタッポーチョ山を中心に激戦は続き、25日には市街地

でも必死の戦いが繰り広げられたが日本軍は敗退して次第に島の北方へ追いつめられる。

そして、7月7日、日本軍の最後の総攻撃が行われる。この玉砕総攻撃に対して、物量を

いとわないアメリカ軍の陸、海、空からの猛攻に日本軍は全滅し、組織的な戦闘は終わって

しまう。総攻撃で死ななかった日本兵は、島の北の端に追い込まれ、サイパン島北端の

マッピ岬の崖から「生きて虜囚の恥を受けず」の戦陣訓を守り「天皇陛下万歳」と叫んで

身を投げた。また、サイパン島在住の民間人も女性子供老人を含む多くの人が飛び降り

命を絶った。マッピ岬の崖は、一万人を超える飛び降りた人々の血で真っ赤に染まり、

大量の死体が海に浮かんでいたといわれている。マッピ岬の崖は、いまでも「バンザイ

クリフ」と呼ばれ慰霊碑が建てられている。

 

大場大尉はこの総攻撃に参加するため救護所の洞窟を出るとき、動けない患者の兵隊には、

自決用手榴弾を渡した。そして7月7日未明「地獄谷」南側の山地からアメリカ軍陣地に

「玉砕攻撃」をかけた。衛生隊所属の部下36名に途中から参加した80名を加え、100

名以上になった隊を2つに分けて突撃した。激しい機銃掃射の弾丸が無数に飛んできてバタ

バタと斃れてゆく味方兵士の屍を飛び越えて、生きて敵陣地にたどり着いた者は、銃剣や

拳銃・軍刀を振りかざしてアメリカ兵に襲いかかった。血みどろの白兵戦が続いた。硝煙と

血の匂い、きらめく曳光弾の青白い光の中に手榴弾で四肢を吹き飛ばされたアメリカ兵の姿

が映っていた。大場大尉は軍刀を振りかざしたまま、さらに奥に進んだ。「まだ生きている」

と思った。が、いつの間にか敵陣を通り越して背後のジャングルに来てしまっていた。「生き

残った部下はいるのか」しばらくすると、生き残った兵士が集まってきた。12名だった。「さあ、

どうするか」さらにそのまま敵の集中砲火に立ち向かい、全員玉砕するか。生きて戦い続けるか。

大場大尉は「ここは残った部下と一旦生きて、体勢を立て直し、また新たな死に場所を見つける

べきだと考えた。この判断で生死の運命が完全に分かれたのである。事実、彼はこの突撃で

玉砕戦死したと認定され、少佐に特進しているが、後に生存が確認され

取り消しとなっている。

 

大場大尉らは南の山中で、日本軍の砲兵部隊の生き残りに出会い、合流した。この部隊は

100人位がいたが、大砲の陣地を失い、連絡が途絶え、山にこもっていたのだった。

ところが3日後の昼食後、木の下で大尉が眠ろうとしていたとき、突然、自動小銃が鳴り

響き、

アメリカの海兵隊に急襲されるのである。日本の残存兵の大規模な掃討作戦がはじまった

のだ。不意を突かれて日本兵たちは、ばたばた倒れていった。そして自動小銃を構えた海

兵隊の小隊がそこまで迫ってきた。とっさに大場大尉は横に寝たまま転がり、拳銃をガス

マスクの袋に入れて軍刀と共に、茂みに投げ入れて隠し、転がっている日本兵の死体に

交じって息を凝らした。死体と思ったアメリカ兵に踏みつけられたが、大尉はこうして

再び生き残った。

 

この攻撃で大尉の部下は5名に減った。が、その後、ジャングルに逃げ込んだ砲兵隊の

生き残りが出てきて、日本兵は70名ぐらいになった。大場大尉は階級が一番上位である

ことから、日本の残存兵をまとめ指揮を執ることになった。「玉砕せず、降伏せず、山に

残存する日本人全員を守って生き抜いていく」と決意した大場大尉は、体制作りに着手した。

大量に砲兵隊が持っていた食糧を確保して、一部を洞窟に保存させ、そして日本兵・

アメリカ兵の死体から、武器を集めさせて敵襲に備える準備をさせ、周りの要所に歩哨

を立てた。早速、約150人のアメリカ兵がこちらに向かってくるとの知らせが入った。

大場隊は谷を見下ろせる場所に待ち伏せて、アメリカ兵を一斉射撃した。アメリカ兵は1

7人の死体を残して、撤退した。大場大尉は直ちにその場所から移動をすることを命じた。

やがてその場所には猛烈な反撃の迫撃砲が撃ち込まれてきた。大場隊はガラバンという

町の東1・5㌔通称「タコ山」と呼ばれる丘を野営地に選んだ。そこには大きな根が幾本

も出るタコノキが群生していて姿を隠すには都合がよかった。ところが野営を初めて幾日

かが過ぎると、周辺のジャングルに潜んでいた日本兵の生き残りが集まってきた。タコ山

から少し離れた山麓「2番線」に潜んでいる海軍と混成の隊、ハグマン半島洞窟にいる田中

中尉の隊も現れて、大場大尉の指揮下での連携を約束した。さらにジャングルから避難民

が姿を現した。女性38名、子供14人を含む184名という大きな集団だった。兵士は

150人となり、全員334名という大変な人数になった。「いかに民間人を守りながら、

兵力を維持することが可能か」大場大尉には大きな課題が突き付けられた。まず食料は、

日本の守備隊はアメリカ軍の上陸前に多くの糧秣を数か所の洞窟に隠していた。その運搬

を手伝った民間人がいて、その場所を確認することができた。武器は戦場で拾い集めた

アメリカ軍の自動小銃や弾丸を含め、ある程度確保することができた。タコ山に日本軍の

集団が残存しているという情報にアメリカ軍は掃討作戦を繰り返した。しかし大場隊は

巧みに居場所を移して、作戦は失敗に終わった。そのとき捕らえられた民間人の老夫婦から

日本軍は、大場という大尉に統率されて活動を続けていることが分かる。やがてアメリカ軍

の隊内では機知や知恵のある機敏な動物、FOX(狐)と大場大尉のことを呼ぶようになった。

1944年(昭和19年)11月、アメリカ軍は徹底した包囲作戦を行った。タコ山周

辺5㌔四方に向けて5000人が横一列に並びそのまま前進した。高台から監視していた

大場大尉は直ちにタコ山南東の崖山に、隊員と民間人の集団を向かわせた。そしてそこの険

しい崖の中間にある岩棚(テラス)に隠れるように命じてやり過ごした。アメリカ軍はこの

ような。掃討作戦の他、拡声器から日本の懐かしい音楽を流し(ヤシの実・桃太郎など)

日本語で投降の呼びかけを行ったり、軽飛行機からビラをまいたりした。

 

1944年12月深夜、大場大尉は実際の現状を確認のため、たった一人で山間部の野営

地から、ススベ湖の西側にあるアメリカ軍のキャンプに潜入した。有刺鉄線をかいくぐり、

施設の敷地内に入った。そこには日本人・台湾人・朝鮮人の一万人以上が収容されている建

物が並んでいた。大尉は戦闘服をはだけて一般人のように着くずし、収容所内を見て歩き、

話のできそうな数人から、話を聞いた。サイパン・テニアン島からの日本本土爆撃がはじ

まった。日本の連合艦隊は多くの軍艦を失っている。日本は窮地に追い込まれている。

ことなどの認識が収容所内では共有されていることを知った。収容所の日本人に対する

対応も酷いものではないらしいことも分かった。大場大尉はそこを抜けだし野営地に帰ると、

民間人の代表の小学校の教師を呼んで、自分の見てきたことを話し、民間人は生き抜くため

に山を下り投降することを勧めた。多くの民間人は大場大尉に感謝の言葉を述べ、白旗を

掲げ、山を下った。アメリカ軍の「日本兵刈り」は場所の情報を得たのか激しくなった。

1945年(昭和20年)2月にはタコ山の野営地が集中砲火を浴び、多くの日本兵が

亡くなった。大場大尉は野営地を「崖山」に移したが、その直属の部下の人数は30人に

減らしていた。

 

1945年8月中旬、「崖山」周辺にアメリカ軍機からビラがまかれた。ビラには新型爆

弾が広島と長崎に投下され、天皇は8月15日に国民に無条件降伏を告げた。というので

ある。大場大尉たちは、信じる材料は全く不足していると感じた。9月の初めにはまたビラ

がまかれ、日本の敗戦として戦艦ミズリー号上の降伏調印の写真があり、「もはや戦う理由

がありません。天皇陛下は降伏するように命じています」とあった。

 

大場大尉は、ハグマン半島の洞窟にいる田中中尉、「二番線」の豊福曹長を「タコ山」に

呼び意見を聞いた。「日本の敗戦は認めざるを得ないが、我々がおめおめと生き残ることは、

玉砕した戦友たちに申し開きできない」という意見もあった。大場大尉はタコ山に日本兵全

員を集め、「我々は軍人だ。軍人は命令で動かなければならない。しかるべき立場の日本軍

将官の命令があればそれに従う。戦闘中止命令、または投降命令である」といった。それには

全員が同意した。田中中尉が交渉役として山を下りアメリカ軍駐屯地へ入ると、終戦処理の

ため日本海軍から派遣されていた英語の達者な伊藤少佐に会い、駐屯地司令官のカージス中佐

にその意向を伝えることができた。そして、バカン島守備隊司令官の天馬馬八少将直筆の

「無条件デ降伏スベク命令ス」という文書が大場大尉の下に届けられた。

 

1945年12月1日の朝、タコ山野営地に集合した日本兵47人は、洗濯した軍服を着て

ひげを剃り、武器を身に着けた。そして島で散った英霊に三発の弔銃を捧げた。先頭が日章旗

を掲げ整然とガラバンに通じる道路を行進した。田中中尉が「軍歌、歩兵の本領」と叫んだ。

「万朶の桜か、襟の色、花は吉野に嵐吹く、大和男子と生まれなば、散兵線の花と散れ」一斉に

歌いだしたこの歌は10番まである。カージス中佐らの待つ広場まで繰り返し、高らかに響き

渡った。広場で整列した日本兵は号令により一斉に銃を地面に置いて、3歩下がった。大場大尉

が進み出て、軍刀を抜き、「刀礼」の後、鞘に納めると水平に捧げ、カージス中佐に差し出した。

午前9時。実に512日にわたる戦いは終わった。

 

投降の後、帰国した大場栄大尉は、故郷愛知県に戻り、妻や子供との再会を果たした。

彼は1952年から40年間、丸栄産業の代表取締役を務め、1967年から12年間蒲郡

市議に在任した。1992年(平成4年)6月8日に亡くなっている。

 

少年時代に「一億総特攻」「一億玉砕」「咲いた花なら散るのは覚悟」「散兵線の花と散れ」

「海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍」という言葉を聞いて育ってきた私は、崇高な尊い

死に方は「国のために、命を惜しまず桜の花が散るように潔く死ぬこと」と思い続けていた。

しかし大場大尉らのサイパンでの戦いを知って、玉砕命令が出ている島で、生き続けることは、

死ぬより段違いに難しいことだが、「生き抜くこと」を、やり遂げることに本当の崇高な尊さ

があるように思うようになった。今はもう、私が死ぬことが国のためになるなどということは、

ないのだ。力を尽くして生き抜いてゆくことこそ大切で尊いことだと思っている。

 

(2023年9月1日)