大阪オリエンテーリングクラブ


     ― 45周年大会で運営スタッフ ―

 


巨大斜行エレベーターの西宮「創造の丘」


     大阪オリエンテーリングクラブ

        

      ― 45周年大会で運営スタッフ ―

 

 

日本にオリエンテーリングというスポーツが、入ってきたのは、1966年のこと

である。東京都高尾山で「徒歩ラリー」として開催されたのが日本最初の大会と

いわれている。当時日本の総理府(今の内閣府)は、このスポーツが「国民の基礎

体力作り」に役立つものだとして大いに支援して、1975年には最初の全日本

大会が開かれた。

 

私がオリエンテーリングを始めたのも、その頃である。休日になると、私はハイ

キングにいくつもりで、「パーマネントコース」を回り始めた。パーマネント

コースというのは、常設のコースとして、金属製の標識(コントロール)のいくつ

かが、一般のハイキングコース内に設置してあるのを、見つけて回るコースの

ことである。

 

全国で作られ始めていたが、大阪府の例では茨木竜王山・室池飯盛山・私市府

民の森・服部緑地・暗峠・枚岡公園・大阪城公園などが今でもある。コースの出

発地点に常設のコース図が設置されており、それを見てコントロールの位置を、

付近の指定の売店で買った地図に書き込んで、磁石で方向を定めて歩いて出発

する、というようなことをやっていた。

 

いっぽう、その頃から、本来の「時間を競って、走る」競技を求める人も増えて、

各地にオリエンテーリングクラブがつくられていった。大阪オリエンテーリン

グクラブが設立されたのも、1975年であった。が、私はその年に仕事が

名古屋勤務となり名古屋に住み、愛知オリエンテーリングクラブに入っていたが、

3年後の1978年、大阪勤務に戻ったので、その年に大阪オリエンテーリ

ングクラブに入った。

 

クラブでは、クラブに所属して大会や練習会に出場したほか、クラブ主催の大

会を開くために、競技をする場所を探し、そして競技用の地図作りのための調査、

なども仲間で行ってきた。黒添池・嶽山(榛原)・山田池公園・浜寺公園・

白狐丘陵(和泉信太山)・鶴見緑地・錦織公園、などは、調査をして、競技用

地図をつくり、大会を開催してきたところである。

 

1985年。クラブでは設立10周年の大会を「箕面」で開いた。私はこの時は

地図調査に従事し、大会当日はフィニッシュ地点のチーフとして、駆け込んで

くる参加者の走行時間を計っていた。そして、2000年。クラブの25周年の

大会も、「箕面」で開かれた。この大会では、コントロール通過時間を電子記録

できる、Eカードを使うようになった。大会当日、私は案内受付をやっていた。

「箕面」というと、滝道の公園や滝が有名であるが、オリエンテーリングの競技

地帯として使われるのは、滝道よりもっと東側、新御堂筋が千里中央の先で箕面

トンネルに入る場所付近からの南面の山場である。ここから山上にある勝尾寺

へ通じる登山道がいくつかあるが、いずれも急な傾斜や複雑な地形のところが

多い。

 

2020年。クラブではこの「箕面」で45周年大会を計画した。時の経過と

ともにクラブで活動するメンバーは大きく変わり、私に近い年台の仲間の人たち

はこの時はすでにクラブでの活動を止めていた。そして、私より30年から40

年以上は若い、大学でオリエンテーリングの部活動をやっていた人たちが、すでに

クラブの中堅になって活躍していた。大会用「箕面」の競技地図も、会長の玉木

さんが、宮西山野製図に依頼し、一緒に調査作図をして作り変えた。ところが

コロナウイルスで、大会は延期しなくてはならなくなり、45周年大会ではあるが、

2021年の5月に開くことに変わった。そして、この時はワールドマスター

ズゲームズ出場を目指している高齢の競技者として、テレビ朝日放送から

私に取材の申し込みがあった。しかし、コロナウイルス緊急事態宣言が出て

再び延期となり、取材も中止となってしまった。

 

そして遂に、2022年3月21日、春分の日。2回も延期になった45周年

大会がやっと開けることになった。コロナ対策には、参加者の発熱検査、手指

消毒は勿論、全員に体調申告書を提出してもらい、会場の集合場所も室内を避け、

箕面市の施設「らいとぴあ21」の運動場を借りることにした。クラブには

61名の会員がいるが、この日の運営スタッフは22名、山の中でのスタート

担当、フィニッシュ担当、会場での計算センター、本部会場業務、救護担当、

と分かれて、私は会場で受付案内担当をすることになった。

 

このスタッフの多くは、日頃仕事の多忙な人たちである。現役の医師が3人、

看護師、高校の教師、ビジネスマン、公務員、みんな大切な今までの休日を、

この大会の運営のためにあてて、準備をしてくれていた。そして、みんなオリ

エンテーリングが何よりも好きで、この大会が、無事行われ、参加者が「参加

して良かった」「面白かった」と満足してくれる姿を見るのを、唯一の喜びと

して大会運営の作業をしている人たちでもあった。

 

そして、大会参加希望者は209名の申し込みがあった。クラスと人員の内訳

は「男子」で、Aクラス、10歳台1名、20歳台80名、30歳台2名、40

歳台6名、50歳台17名、60歳台14名、70歳台14名、80歳台2名、

90歳台1名、Bクラス、ロング3名、ショート4名。「女子」で、Aクラス、

10歳台3名、20歳台21名、30歳台2名、40歳台2名、50歳台2名、

60歳台4名、70歳台3名、80歳台1名、Bクラス、ロング4名。「年齢性

別無関係コース」でロング14名、ショート4名、初心者コース5名、だった。

 

最高齢クラスの90歳台Aには、東京から多摩オリエンテーリングクラブの高

橋さんがやってくる。私がスタッフをしていなかったら、私も90歳台クラスに

出て、高橋さんと一緒に走っているところだった。が、1月30日、この大会の

ためのスタッフだけの試走会の時に、私もこの90歳台Aのコースを試走して

いるのである。私は50分位でこのコースを試走したが「大会で高橋さんは、

このコースを何分で走るのか」大変気になった。試走の場合はコントロールもなく、

コースとなる付近の状況も調べて回り、コースの調整変更もあるので、私の

試走時間をそのまま高橋さんの走行時間と比べることはできないが、90歳

台コースの高橋さんの時間を知ることは、この日の楽しみの一つとなった。

 

当日の朝、7時45分集合。「らいとぴあ21」の運動場にテントを張って、計算

センターと本部受付を建ちあげた。山の中にあるスタート地区とフィニッシュ地

区へはこの運動場から歩いて50分かかるので、それぞれの担当スタッフはすで

に出発していた。

 

9時を過ぎると、続々と参加者がやってきてナンバーカード(ゼッケン)やレンタル

のEーカード(コントロール通過を記録する電子カード)の入った袋を受け取り、

運動場の片隅に荷物を置いて、競技服に着かえ始め、決められたスタート時間に

間に合うように、山の中のスタート地区へと出ていった。私のいる受付案内には

ナンバーカードを付けるための、安全ピンを買いに来る人(予め用意するように

プログラムではお願いしていた)、コンパス(競技用磁石)を借りに来る人、

がそれぞれ数人いたが、予想していたより多かったのは、参加者の自己所有する

E―カードの電池切れ等の不具合であった。これには、クラブ所有のE―カード

をレンタルして、番号を計算センターに登録してもらった。

 

あっという間に時間が過ぎた。「今のうちに食事をしておきましょう」との会場

担当チーフ瀬谷さん、の声にアンパンをかじってジュースを飲んだ。山では11時

半からスタートが始まっている筈である。競技を終えてこの運動場に帰ってくる

参加者は、1時半頃から多くなってくる。受付案内の仕事としては、予約された

「全ポスト地図」(大会の全部のコントロールが印刷された地図で、競技終了後

に販売される)や「コース別地図、各500円」の受け渡しなどが忙しくなってくる。

 

13時過ぎ頃から、山のフィニッシュ担当から、走り終えた人の情報がスマホで

会場に入り始めた。そして90歳台Aの高橋さんが、無事フィニッシュしたとの、

知らせもあった。会長で実行委員長の玉木さんが、本部テントにきて、「高橋さんは、

今日が満91歳の、誕生日であることが分かりました。高橋さんが会場に帰って

きたら、みんなでお祝いしましょう」といった。私は「そうでしたか、それは素

晴らしい」と声をあげた。私が驚いたのは、すぐに、持参していたお菓子をまとめて

包装紙に包み、リボンをかけ即席の誕生日プレゼントを作り上げる女性スタッフが

いたことである。またどこから集めたのか、即席の花束も出来上がった。運営責任

者の楠見さんは会場にいる参加者に「90歳Aクラスのレジェンド高橋さんが、

間もなく帰ってきます。誕生日のお祝いをしますので皆さんよろしくお願いします」

と声をかけていた。

 

14時半近くになって帰って来た高橋さんが会場の計算センターのユニットにE―

カードを合わせて、完走した走行時間を確定させた。49分18秒だった。同じ

コースを試走した私がほぼ予想した時間であった。

 

会場にいたスタッフと参加者が並んで「誕生日おめでとうございます」と声をかけ

花束とプレゼントを女性スタッフが渡した。このサプライズに、始めは少し驚いた

様子だった高橋さんは、うれしそうな顔をして私に近づいてきた。私は声をかけた。

 

「91歳になられましたね。おめでとう」「貴方はまだ90歳ですか」「11月で

91歳です。高橋さんの方が兄貴ですね」「今日のスタートまでの登りはきつかった。

それでも90歳台のコースは距離なども適切で、状況も良く楽しめるコース設定でした。

有難う」「私も試走しました。割合にフラットな地形でしたね」「今日は素晴らしい

日になった。これからも、お互いに頑張りましょう」

 

私がテントの席に戻ると、女子70歳台Aクラスの植松さんが「残念無念」といって

帰って来た。このクラスは、経験豊富な素晴らしい関東地方の3人のベテランが

参加している。3人とも40分台の速い時間で完走している。ところが、その内の

一人植松さんのE―カードが不調(多分電池切れ)で、通過証明はカードについている

ラベルに残るユニットの針の模様で試みたが、押しが弱く模様のつかないのが1か所

あった。私も関東の3人のこのクラスを注目していただけに、本当に残念無念に思った。

この大会では6名の参加者が「失格」になった。この植松さんを除き、あとの5名は棄権、

またはコントロールを90分以内に全部回れなかったケースだった。

 

15時が過ぎて、京都大学、続いて大阪大学の学生たちが、本部テントの前に並んで、

代表が「大会開催に対する感謝の言葉」を大きな声で述べた。私は学生たちが大会開催

を喜んでくれているのを実感してうれしくなった。やがて参加者全員の帰着が確認された。

 

若いスタッフが、山中のすべてのコントロールを回収して回り、支柱を洗い、会場

のテントをたたんで、無事大会は終了した。

 

大会の翌日、クラブのメーリングリストに高橋さんからお礼のメールが入った。全く

思いもよらぬ誕生日祝いの催しに、感謝の礼とともに、次の言葉が述べられていた。

 

「同年齢の貴クラブの小嶋さんとご一緒に、これからも身体の続く限り大会に参加し、

『オリエンテーリングはいつまでも楽しめる競技なんだよ』ということをオリエン

ティアの皆さんに感じ取っていただければ、こんなうれしいことはありません」

 

(2022年4月3日)


  巨大斜行エレベーターの西宮「創造の丘」

  

   ―公園オリエンテーリング大会―

 

 

今年の2月26日に、オリエンテーリングの阪神奈大会が、西宮市の塩瀬町名塩の塩瀬

中央公園で開かれることになった。

 

阪神奈大会というのは、大阪大学・神戸大学・奈良女子大学のオリエンテーリング部の

学生たちが、合同で開く競技大会で、競技に参加するのも学生が中心だが、一般人の参

加も受け付けている。しかし、私に適した90歳台向けの競技コースなどは、絶対に設

けてくれることはないので、10歳台、20歳台の若者たちと一緒のコースを走ること

になる。そんなことで私は最初にこの大会が開かれることを聞いたときには、学生の大

会の競技に超高齢者が参加するのは無理があるから、やめておこうと思った。しかし開

催される場所が西宮市というのが、気になりだした。

 

西宮生まれで西宮育ち、永年西宮に住んでいる私でも北部にある「塩瀬中央公園」は

どんなところかすぐには分からなかった。西宮の南部香櫨園地区に住む私が北部の塩瀬

町名塩まで真っすぐ歩くとなると、甲山の西側を登って峠を下り、さらに六甲山脈の東

部を乗り越えて、行かなければならないほど遠い。私が知っているのは、昔の「名塩村」

と「生瀬村」とが町村合併して「塩瀬」と呼ばれるようになっていたということと、生

瀬の浄教寺や名塩の紙すき場には、訪れた記憶があることぐらいである。その後、JR

福知山線で「西宮名塩駅」を通過するときには、この駅の北側に、西宮名塩ニユータ

ウンが開発されているということは分かっていたが、今まであまり気にも留めず、

通り過ぎていた。

 

大会の案内を見て「塩瀬中央公園」はこの西宮の北部の「西宮名塩駅」から、私の乗った

ことのない巨大斜行エレベーターで崖を上がった「創造の丘ナシオン」と呼ばれる私には

初めての西宮名塩ニユータウンのなかにあることが分かった。「古くからの西宮市民とし

て初めての場所だ。今、行けるときに行っておきたい」と私は競技を兼ねて行くことに

決めた。

 

正式のオリエンテーリングの大会では、年台別に競技クラスのコースが5歳刻みで設

けられる。10歳台。15歳台、20歳台、25歳台と続き、高齢者も70歳台、75

歳台、80歳台、85歳台、90歳台とそれぞれ分かれて競技する。それぞれのクラス

の走る距離も、チェックして回る標識(コントロール)の数もコースに応じて決められる。

 

しかし、今回のように、学生が主催し主に学生が参加して、全参加人数も百数十人と

少ない場合はL・M・S(長い・中間・短い)それぞれのコースと初心者コースだけで

ある。90歳の私はSコースに申し込んだ。短いコースといっても距離は1・3㌔あり、

人数は9人、同じコースを走るのは殆どが若い学生である。この頃ではいつもそうだが、

全参加者のなかでも私が一人、年齢が飛び離れて高い、超最高齢者であることは間違

いない。

 

と、私は思っていたのだが、実はネットに発表された参加者一覧表を見たら、もう一

人超最高齢者の常連が参加することが分かつた。東京の高橋さんである。今、日本での

オリエンテーリング大会に90歳台の年齢で出場するのは、関東では高橋さん、関西では

私のほかにはいない。高橋さんは4年毎に世界の各地で行われるワールドマスターズ

ゲームズのオリエンテーリング競技では何回かメダルを取っていて有名な人である。

ところが2027年のニユージーランドの大会の85歳台の競技では、私が銅メダル

を取り、高橋さんは取れなかった。次の4年後の大会は2021年に日本の関西で開

かれることになっていた。私と高橋さんは「2021年には90歳台クラスで世界の最

高齢者達を相手に、一緒にメダルを取りましょう」と話し合っていた。ところが、コロナ

ウイルスのため、日本の関西開催は1年延期後さらに5年の延期となってしまった。こう

なると、どこまで元気で競技を続けられるか。いやそれより2026年まで生き残れ

るのか、サバイバル競争になってきている。

 

その高橋さんは、今回Mコースに申し込んでいた。距離は2㌔で私の申し込んだS

コースより700㍍長い。しかも新幹線に乗って東京からコロナ下に、関西の公園の

小さな大会でも90歳を越えてやってくる。「ようやるなぁ」、私には高橋さんの、

競技出場にかける強い熱意がひしひしと伝わって来た。

 

大会の当日は晴だった。JRさくら夙川駅から乗車して、尼崎駅で丹波路快速に乗り

換え、西宮市の南から西宮市の北へ行くのに、尼崎市、伊丹市、川西市、宝塚市を経

過してやっと、9時50分西宮名塩駅に着いた。駅は陸橋の上にありそのまま進むと、

巨大斜行エレベーターの長大な階段の下に行き着く。下から階段を見上げる場所の左

と右にエレベーターの乗り場があった。1991年に完成した斜行の長さ145㍍、

斜度23度、高低差60㍍で、開設当時斜行のエレベーターとしては日本一長く速い

とされた。私は本当のケーブルカーに乗っている感じがした。3階で降りるとそこは山

の斜面に広がる「創造の丘ナシオン」のニュータウンが開けていた。1994年、建設

省都市景観100選で大賞に選ばれたこともある面積240㌶の山の街である。ここ

から「塩瀬中央公園」の北にある競技の会場まで20分、ニユータウンのなかを

歩かねばならない。私は庭つきの一戸建ての家の並ぶ坂道を、「ここの空気は海に近い

南の西宮と全く違う、風に乗って山の匂いがする」と思いながら登った。

 

案内によると「塩瀬中央公園」で競技をしたら面白いのではないか、と、この公園での

大会を考えたのは、西宮に住みオリエンテーリングをする大阪大学の学生、谷口瞬生

さんで、競技地図専門のNishiプロに調査、作図を依頼し、それに谷口さんも参加し、

大会の直前に競技地図を完成させたそうだ。そして、この公園は北から南に下る傾斜

の急な片斜面にあり、複雑な小道の発達したエリアや、階段、歩道橋などが立体構造に

なっていて迷路のようなところがあることが分かった。その北の端にある体育館の裏山

が、この日の青天井の集合場所であった。

 

私はシートを敷いて着かえ、荷物もそこに置いて、体育館でトイレを済まし、その下

の運動場の端にあるスタート地区に向かった。11時31分。地図を受け取ると同時に

スタートした。地図は縮尺3000分の1、チェックして回るコントロールの数は11

であった。最初の目標の①は「崖の北東の内側」にある。急な階段を駆け降りなければ

ならない。が、滑ると下まで転がって大変なことになるので、一歩一歩踏みしめて降る。

若い人たちは、まるで飛ぶように私を追い抜いてゆく。②は西へ「藪の南西」にあった。

次いで坂を下り③の「藪の北西」を取った。④は広場を東に横切り池の向こうの「崖の

東角」。池には水がないので渡れるが、ルールで渡ると失格になるので回り込んだ。南

下して⑤の「木の東側」を取り、迷路のようなテラスを抜けて⑥「北東の藪の西側」へ。

ここから⑦の「西の藪の南東」には、円形広場の同じ高さの道をそのまま走り込む。

そして、階段を上がって「道と道の分岐」の⑧へ……。

 

ところが、簡単な場所のはずの⑧が見当たらない。「さあ、どうするか」少しうろたえた。

この場所こそ立体構造のトリックのかかった場所だったのである。ここの階段を上がった

場所の真上に、さらに歩道橋が交わってかかっていて、⑧はその歩道橋の上にあったので

ある。後でラップを見ると、⑦から⑧を見つけるのに3分51秒もかかっていた。再び歩

道橋を下りて、⑨「北の崖の南」を取って、さらにまた、歩道橋に上がり、円形広場上部

を西に走り、歩道橋上の「道の終り」⑩を取って、広場に出て最後の「碑の北側」⑪を

チェックしてゴールした。

 

私のSコースのタイムは26分55秒、8名中7位で、私までが完走者だった。1位は神戸

大学生で13分19秒だった。東京の高橋さんのタイムも気になったが、会場では見かけ

なかったし、成績速報版にもまだ結果が出てなかったので、私は会場を後にした。巨大斜行

エレベーターで下り、JRは尼崎駅で乗りかえて、家に帰り着くと、すぐにネットのラップ

センターで、本日の競技成績を開いた。高橋さんはBコースで45分59秒、21位でそこ

までが完走者だった。このコースでは26名中5名が失格になっている。1位は関西大学生で

13分39秒だった。今回はコースが違うので、私と高橋さんどちらが、勝ったのかは分から

ないが、若い大学生たちと一緒に走って、完走している。「良く、がんばった。完走おめでとう」

と、ひとりごとして呟いた。日本の超最高齢競技者の高橋さんがこうして、東京からでも、

オリエンテーリングの大会に出場し続ける限り、私もこの競技をやめるわけにはいかない。

「これからも、膝や腰が痛くても、目がかすんでも、少々ふらついても、出られるオリエン

テーリングの大会には、食らいついても出場するぞ」と改めて心に誓った。

 

「『生きがい』とは『小さな喜び』から始まる。

『小さな喜び』をつなげることで『生きがい』が『誇り』と『喜び』を与えてくれる」

と、脳科学者茂木健一郎さんが語っているのを、その後私は、テレビで視聴した。

 

私はこの日の体験を思い返して見た。

「西宮―尼崎―伊丹―川西―宝塚―西宮」と小旅行した。

「巨大斜行エレベーター」に乗った。

「創造の丘ナシオン」を歩いた。

「塩瀬中央公園でオリエンテーリングSコースを完走した」

「高橋さんのMコース完走を祝福した」

 

これら一日の体験はどれもこれも、みんな「小さな、小さな喜び」だった。しかし、

この「小さな喜び」をつないでいくことによって、「食らいついても出場するぞ」と、

強く自分自身に、動機づけをすることができた。

 

さぁ、これからも私は、オリエンテーリングを続けてゆくために、「小さな喜び」を、

常に求め続けて生きてゆく。

 

(2022年3月13日)