赤穂海浜公園とちくさ高原のたたかい
赤穂海浜公園とちくさ高原のたたかい
―「救いの御子(おこ)」が現れた-
日本で初めてオリエンテーリングの競技が行われたのは1966年の高尾山の大会、
そして、初めて全日本大会が開かれたのが1975年である。神戸のオリエンテー
リングクラブ「OLP兵庫」は、1973年の設立でこの競技の日本での草分け的
存在のクラブである。そして、今年6月4日の宍粟市ちくさ高原の大会を「OLP
兵庫創立50周年記念大会」として準備を進めてきた。その前日の6月3日の赤穂
の海浜公園大会も、「OLP兵庫」が全面的に関与している関西ワールドマスター
ズゲームズ実行委員会と兵庫県オリエンテーリング協会の主催する大会であった。
私は今年4月9日の富士山麓大会の80歳台コースで、コンパス操作の失敗から
完走できなかったので、この6月3日・4日の大会では、すっきりと完走して、リ
ベンジを果たしたいと思って参加した。台風2号が6月2日まで近畿地方にも大
雨をもたらしていたが、3日は快晴となり、JR播州赤穂駅からバスで海浜公
園に降り立った。ここは赤穂城跡や大石神社などがあるところから南東に千種
川の海浜大橋を渡ったとこるで、かつて播磨灘に面した広大な塩田跡に作られた、
自然豊かな海浜の公園である。その広場の一角が会場になっていた。
この日の最高齢者のクラスは、「男子85歳台」で、91歳の私と同じ齢の東京
の高橋さん、85歳台の名古屋の石田さんの3名が申し込みをしていたが、台
風による大雨の影響で、高橋さんはこの日は参加できなかった。
13時13分、石田さんがスタートした。続いて13時15分、私がスタート
した。この日の地図は4000分の1、距離は2・3㌔。コントロール数は15
であった。地図の中央に大きな円形の池が2つあり、その周辺一帯を回るコース
であった。①(植え込みの終り)から西南西に池の方に向かったが、その前に②
と③の(岩)が複雑に入り組んだ丘の花壇の中にあり、トリッキーなコースと
なっていて少し手間取った。④を取って池を渡り⑤⑥⑦と進んで、⑧⑨と
広場を南南西へ向かった。
⑩を取り⑪(小道の曲がり)で、2分前にスタートしている石田さんに
追いついた。石田さんも意識してスピードを上げた。⑫(一本木の北)
は細長い堀状の池の北東にあった。石田さんは池の左側を走った。
私は右側を走ったが、途中足と腰が痛くなって少し歩いてしまった。
ラップを見ると1分35秒の負け、しかしスタートの2分差を追い
ついているので、この時点でトータルでは勝っていた。⑬(岩の
東南)37秒の負け。⑭(藪の南)57秒の勝。⑮(林中の北)
22秒の負け。しかしこの時点でもまだ、トータル時間では1秒だけ
私が勝っていたのだ。最後のゴールまではほんの40㍍の距離。この
距離を石田さんは18秒で走った。私は23秒。トータルで石田さん
は46分44秒。私は46分48秒。4秒の負け、残念となった。
ゴールで私を待ち構えていた石田さんは計算センターでトータル時
間をチェックするとき、スタッフの人に何度も時間を確かめていた。
私の追いつきの時間が気になっていたのだろう。
この日は2位の賞状と賞品の「塩饅頭」がでた。とにかく完走は
したので、「やれやれ」と思い、15時7分海浜公園発のバスに
乗って、JR播州赤穂駅から姫路を経て、IRさくら夙川駅へと
帰路についた。
翌日、6月4日、早朝再びJRさくら夙川駅から、新快速に乗り
換えてJR姫路駅へ向かった。ちくさ高原の会場には姫路から大会
専用のバスが9時と10時にでる。1時間半はかかるので、私は9時
発のバスに乗るとき案内のスタッフに「途中トイレ休憩はあるのか」
と聞いた。休憩するかどうか決まってなかったようだが、運転手が
「それでは」と休憩を決めてくれた。実際、山深い会場に着くまで
このバスは2時間を超えたから、休憩があってよかった、と思った。
男子85歳台クラスに参加する東京の91歳の高橋さんは、けさは新幹線も
動きこのバスに乗り込んでいた。ところが昨日私と秒差の競争をした石田
さんが、この日は出られなくなったという知らせが、名古屋の人から入った。
石田さんは。奥さんの体調についての知らせを受けて、昨日名古屋に帰った
ということであった。結局、ちくさ高原大会男子85歳台Aクラスは、
私と東京の高橋さんと争う91歳どうしの決戦となった。
この日私のスタートは12時15分、高橋さんはその2分後にスタート
して私を追いかけてくる形となった。この日の地図は7500分の1。
距離は1・8㌔。コントロール数は9。途中80㍍の登りがある。①(炭
焼小屋跡東の縁)へはスタートから200㍍先、道から尾根を南に下って
取った。直ぐに、細い途から元の道に出て、小沢を渡り尾根を横切って
登ると、真下の急な斜面の下の沢に②(湿地西の縁)があった。次の③
(真ん中の沢)へは東に180㍍だが、その間に深い沢と尾根が複雑に
入り組んでいる。私は北側の斜面をトラバースして進んだ。夢中で
進んでいるうちに、少し開けた場所に出た。後で分かったことだが、
この時③の近くを通りながら、行き過ぎていたのだった。トラバース
しているところから、もう少し南に進んだら簡単に見つけられたはず
であった。ところが少し開けたところに出たとき、その先の高みから、
下の沢に若い選手が飛び降りてゆくのが見えた。そこにあるのに違い
ないと私も続いて飛び降りた。確かにコントロールフラッグはあった。
しかし番号が違って私のクラスのものではなかった。それではここは
どこだろう。私は現在地が分からなくなり、山中を広くさまよい始めた。
森の中で岩石を積み上げて、それが苔むして残っているところに出
会った。この地で古代から続いていた「たたら製鉄」の鉱石集積の
名残ではないかと思われたが、今はそんなことにかかわっている場合
ではない。現在地を喪失した時間がどんどん進んでゆく。「今日は
ぜったい完走しなければならない、どうする」私は焦りから、自分
がいらいらしているのが分かった。「落ち着かないといけない」
ここは昔、「たたらの神」が天から降臨して人々を助けたという、
伝説の残るところ、このようなところでは、山の行者の唱える言
葉「慚愧・懺悔(ざんき・ざんげ)六根【目・耳・鼻・舌・身・
意】清浄」と声に出してみた。言葉を繰り返して森から出て道を
進み、分岐のところで「どちらへ行くか」と、立ち止まってしまった。
その時、声がかかった。「何番を探しているのですか」中学
生ぐらいの少年である。賢そうな顔をして、堂々と落ち着いている。
「③番だが¦¦」少年は私の地図をとって、地図上の③をみて
すぐにいった。「今ここにいます」と地図の一点を指さし、③は
この付近にありますとその場所から北側の斜面を示した。その
とたん、私の身体と心にスイッチが入った。即座に少年の説明
を理解した。「有難う」とすぐに駆け出し、斜面の沢を登って
③をとった。あとでラップを見ると、この③を見つけるだけに
42分50秒もかかっていた。高橋さんもここでは22分5
3秒かかっていた。が、少年の声かけがなければ、私の場
合はここで自滅していたところだった。
競技制限時間は2時間である。すでに③まで、トータル時間、
1時間3分59秒を使っている。あと、ゴールまで、5か所も
ある、急いで走れ、私は自分に発破をかけた。④(真ん中の
沢)へ南南西100㍍、10分かかった。⑤(こぶの南)ヘは、
南南東300㍍、15分54秒かかった。⑥(西の浅い沢)
へ南南西150㍍、8分59秒かかった。⑦(真ん中の湿地)
は北西へ150㍍、広い道に出て取る。9分41秒かかって
いる。あと2か所、ラップで見ると、この時点ではトータ
ル時間で1時間48分33秒かかっていて、あと12分37
秒以内にゴールしないと失格になる。
ところがこの日は不思議なことが起こる日であった。道を
進んで⑧(東の沢)への入り込む場所を探しているとき、
今度は少女が私に声をかけたのである。「79番ならこの
尾根の先ですよ」高校生ぐらいか、軽快な足さばきで、小
尾根を登り先に立って案内してくれる。そのあとについて
ゆくと、東側に狭い沢があり、⑧が見つかった。79番は
⑧についている番号だが、少女のコースのコントロールでは
ないのだろう。しかし見つけた番号を覚えていて、私の探して
いる⑧の番号だと知ってわざわざ案内してくれたのである。
私も案内までしてもらうのは初めての経験であった。おかげで
6分16秒で見つけられた。そして⑨(北側の道の分岐)
西へ100㍍、2分25秒。そこから37秒でゴールへ。
ゴールタイム1時間57分51秒。僅か2分9秒を残して
完走できた。
驚いたのは、先にゴールした高橋さんが私をゴールで、待ち
構えていたことである。高橋さんは1時間50分42秒でゴー
ルしている。私より7分9秒早い。私の2分後からスタート
しているので、ゴールから帰らずに私を5分9秒間、待ち構え
ていたことになる。
おそらく、高橋さんがゴールした時、私がまだゴールして
いないことを聞いて、競技時間内に私がゴールしてくるか
どうか確かめるために待っていたのであろう。
「何番で苦戦しました」と聞いてきた。「いやー、3番、3番
ですよ。まいりました」と笑って話した。③では高橋さんより
20分も余分な時間をかけてしまった。他のところでは私が優
位な時間で進んではいるが、この日は高橋さんとの勝負より、
肝心のところで忽然と現れた少年と少女に助けられ、ぎりぎり
の時間で完走できたことに、感謝と喜びで、私の心は一杯に
なっていた。
スタッフが、この日の最高齢の参加完走者ということで私と高
橋さんをゴールから会場まで車で送ってくれた。そして、午後
3時に会場から姫路行きの専用バスが出て、私はそれで家に
帰ることができた。
家に帰ってから改めて、きわどいタイミングで、少年・少女が現れ、
私を救ってくれた不思議な出来事を思った。「彼らはこの山の
たたらの神の化身、救いの御子(みこ)たちだったのか。いや、
そんなことはありえない。きっと、親がベテランのオリエンティア
である、その有能な御子(おこ)たちだったに違いない」私はすぐに
参加者の一覧で、少年・少女の名前を探してみたが、どうしても
確信のもてる名前が見つからなかった。
それにしても、ちくさ高原の大会は不思議な有難い、たたかいだった
と思う。
「人間は年をとればとるほど、他から助けられ救われることが多くなる。
しかし、それを強く求めても、常に助けられ救われるとも限らない。
まず、助けや救いを当てにせず、自分の力で進むことを第一に考える
べきだ。そして、懸命になって努力を重ね、失敗を反省し自らを律し、
さらに強く進みたいと『慚愧・懺悔。六根清浄』を唱え続けると、
救いの御子(おこ)が現れる不思議が、ときにはある」
と、強く私に思わせた、ちくさ高原のたたかいでもあった。
(2023年6月24日)