春の千里丘陵と信楽高原を走る

春の千里丘陵と信楽高原を走る

―パークO㏌関西―

 

 

パークOというのは、公園や大学の広い敷地などを使って、行われるオリエンテーリ

ングの競技大会である。今年の春、関西では大阪府の千里丘陵にある大阪大学吹田キ

ヤンバス&万博公園での競技が大阪大学オリエンテーリング部主催で、また、滋賀県

の信楽高原での街中の競技が滋賀県オリエンテーリング協会主管で行われることに

なった。

 

3月21日(祝)私は阪急の千里山線の終点の北千里駅を降り立って、大阪大学キヤ

ンバス内の会場に向かった。私は今、腰痛があり、あまり速く走れない。それにこの日

は中之島カルチャーセンターのエッセー講座のある日でもあり、実は参加するかどうか

迷った。しかしコロナの規制も緩和され、さくらの季節のなか、どうしてもパークOの

春風の中を走りたい気持ちが強くなってしまった。会場へは千里山線の北千里駅か山田

駅かを利用して行くように決められていた。徒歩25分、私は昔の千里丘陵の面影が

残っている木立や池のある公園の横を通ったとき、この一帯が広大な竹藪でところどころ

に桃の果樹園や小さな畑があったころの風景を思い出していた。私は昔、阪急の

千里山線の千里山駅が終点でその先がなかった時代、西宮の空襲で家が焼かれ千里山の

親類の家に1年ほど寄寓していたことがある。そのとき中学生だった私はこの広大な竹

藪の丘陵を親類の従弟たちと遊びの場として走り回っていた。その後千里ニュータウン

が開発され、先の大阪万博のため、その北の広い竹藪の丘陵はさらに開発され万博公園

となり、その西側に関西圏の大学のキヤンバスの中で敷地面積が最大といわれる約100

万平方㍍(甲子園球場28個分)の大阪大学の吹田キヤンバスが出来て、千里丘陵の風

景は大きく変わってしまった。しかしこの一帯は私にとっては懐かしい、昔の遊び場な

のである。

 

公園を通り抜けると、山田上小野原線と呼ばれる道路に出て、その道路の途中に大学

のキヤンバスに通じる狭い石の階段があり、その階段を上がると、大学薬学部の建物の

裏口に出る。そこから学内の狭い道を東に進むと広い道に出て左側に大学の体育館がある。

その体育館が会場であり、集合場所であった。

 

この日のスタートの場所だが、65歳以下の若い人たちのクラスはこの会場から55分

歩いた先の万博公園で、そこから公園と大学キャンパスの両方を回る。それ以外の75

歳台以上の85歳台と10歳台のクラスは会場の前からスタートしてキヤンパスの中だけ

を回る。その人数は100数名の参加者の内9名ほどである。私の年齢に該当する90歳

台クラスはなく、同年配のライバル東京の高橋さんは参加していない。男子85歳台クラ

スには名古屋のベテランの石田さんと私の二人だけである。距離は1・9㌔、コント

ロール数は9。私のスタート時間は11時34分、石田さんは11時35分で1分後から

追いかけてくることになっている。

 

私はスタートして①(垣根の終り)へ行くのに、広い道の坂を上って北から攻めよう

とした。しかしこれは遠回りだった。坂の上から下を見ると、すでに1分後の石田さん

が①をチェックしている姿が見えた。「しまった」何のことはない、坂など上がらず

空き地を通って真っすぐ行けば、簡単に取れたのだ。気を取り直して、②(建物の東角)

を取り③(建物の北角)へ向かう。この付近は大学の工学部の建物がぎっしりと立ち

並んでいる。それも建て増しを重ねて造っていったと思われる複雑な形になっていて、

完全な迷路地帯となっている。地図をしっかり読んで進まないと行き止まりに入り

込んで、どこにいるのかわからなくなる。そして④(藪の北東)は建物に囲まれた

小さな茂み、そこから建物群の間を抜けて⑤(建物の東角)から⑥(建物の西角)へと

回り込む。⑦(建物の西角)を取ると、そこからは一気に南の会場の体育館の横にある

ゴール目指して進むコースとなる。調子に乗って走り、地図からしばらく目を離すと、

すぐに自分のいる場所が分からなくなるから、地図を慎重に見て、現在地を確認

しながら進まねばならない。⑧(柵の北)を取り、さらに南に進み⑨(独立樹の南)まで

来るとゴールのテープが見えその先のゴールから、スタッフの学生たちが「頑

張ってください」と声掛けしてきた。最後の姿だけはゴールにいる人たちに見られて

いるので、腰を伸ばし手を前後に振って懸命に走る姿勢でゴールした。私の時間は

39分00秒であった。私は春の風を感じて懸命に走ったつもりでいたが、

若い人たちから見ると、これは走って回る時間でなく、普通に歩いて回る時間だ。

しかし、参加者全員の中の最年長者の私としては、この時間で完走出来たことに一応の

満足をしていた。85歳台クラスの石田さんは32分16秒だった。

 

この日、家に帰ってから、これからの大会を改めて見てみると、90歳台のクラスが設

けられて東京の高橋さんと決戦をする大会は、今年の11月の千葉で行われる全日本大

会までは、なさそうである。しかしながら85歳台のクラスまでを設ける大会は3月16

日(日)滋賀信楽のパークOがある。そして、4月9日(日)静岡オリエンテーリング協会

の主催する富士山麓大会は80歳台までしかない。一応の申込みはしていたが、急に心配に

なってきた。よく考えてみたら91歳で腰痛や眼精疲労に悩む私としては無理かもしれない。

616人がすでに参加を申し込んでいて、80歳台の男子は11人が申し込んでいる。みんな

山地走り自慢のベテランばかり、なかなか勝つことは出来ないだろう。今なら簡単にキヤン

セル出来る「さあ、どうする」私は参加するかどうか迷った。

 

この日テレビは、WBC(世界野球クラシック)の準決勝の対メキシコ戦で日本の勝利を

報じていた。そして翌日のアメリカとの決勝戦にも勝利し、世界野球のクラシック(伝統

ある最高の)大会で世界一を成しとげた栗山監督が会見で、次のように言っている言葉が

私の耳に入った。

 

「僕の感覚ですけど……、これが出来るかな、出来ないかな、っていう、出来るか出来ない

かって思った瞬間にアウトなので、やるかやらないか、なのです。決めるのは出来るから

やるんじゃなくて、やるって決めたらやる」

 

私はこれを聞いて「富士山麓大会に行くと決めたら行く」と腹を決めた。直ぐに大阪オリエ

ンテーリングクラブで65歳台に参加すする中原さんに、車の同乗と宿の手配を電話で依頼

した。前から高速道路に近い能勢電鉄の畦野駅で私が乗り降り出来るなら、同乗して富士山麓

に行くことが出来ると話をしていたからである。これですっきりした気持ちで信楽の大会にも

行ける。

 

3月26日(日)私はJRさくら夙川駅から草津駅を経過して草津線に乗り、貴生川駅で

信楽高原鉄道に乗り換えて信楽駅の近くにある信楽中央公民館へ行った。ここがパークO

ツアー滋賀大会の会場である。この日は朝から雨が降っていたが、雨など関係なしに競技は

行われる。今日の競技参加申込者は135名、男子85歳台は私と名古屋の石田さんとの

2名である。距離は1・6㌔、コントロール数は8。信楽高原ではあるがほとんど街の中を

走る。スタート地点も街中の狭い空き地である。私の1分前発走の石田さんに続いて11時

56分スタートした。①(道の分岐)は細くて狭い路地の奥にあった。西へ150㍍②(道

の曲がり)を取り、西南へ240㍍③(道の分岐)を取った。石田さんは順調に走り進んで

いるのか姿は見えない。狭い路地には行き止まりはないが、庭の広い家では玄関口まで私道

を引いているので、うっかりその私道に入り込むとたちまち現在地が分からなくなるから、

やみくもに進むわけにはいかない。さらに④(道の分岐)を西南に進んで取る。自動車が

今ほど普及してなかった昭和の前半の時代の狭い道幅の街を思い出した。それがそのまま

残っている古い町並みを進み⑤(道の分岐)を取る。北西に反転して⑥(道の曲がり)を取り、

⑦(道の分岐)へ向かう路地で家の前に座っていた老人から「何をやっているのですか」

と声をかけられる。オリエンテーリングというと、それを説明するのに時間がかかり

そうなので、「競技をしています」「ああ競技ですか」とだけの会話を交わし、その先の

突き当りで⑦を取った。そこからやっと広い通りへ出て⑧(道の分岐)を取り、北に進んで

神社の前でゴールした。ゴールの横に石田さんがいて「早く走ったね」と声をかけてきた。

私は24分5秒、石田さんは22分15秒、で1分50秒の差で私は負けているのだが、

彼にしては私に追いつかれはしないかと気にして、ゴールで私を待ち構えていたのだろう。

いずれにしても私も石田さんも大きなミスがなく完走したことに間違いない。少しだけだが、

久しぶりにスピード感が感じられたこの日の競技だった。

 

ゴールから会場へ帰る間、まだ雨が降り続いていることに気が付いた。そして陶芸の街と

いうだけあって、街の中心部には陶器の店が軒を並べ、軒先には狸の置物が並んで

いるのにも改めて気が付いた。ここは陶芸で有名な観光地で、今日は久しぶりに日帰りの

小旅行をしたのだと、やっとそんな思いになって、信楽駅の特大の狸像に見送られ、

帰りの貴生川行き信楽高原鉄道に乗った。

 

家に帰って改めて、4月9日の富士山麓大会80歳台参加者名をネットで見ると、東京の

大ベテラン、私と同じ91歳のライバル高橋さんの名前を見つけた。それにオークランドで

一緒だった北海道の原田さんの名前もある。腰痛や眼精疲労を心配している私だが、会うのが

楽しみなってきた。そして、富士山麓の樹海の中を走るのが待ち遠しい思いが、次第にジワー

と湧き出してきた。

(2023年3月31日)