101歳の語り部
元特攻隊員―茶道裏千家玄室大宗匠
私は先の大戦での西宮空襲の語り部をしている。毎年8月6日(西宮空襲のあった日)
になると、地元の浜脇古老の会では浜脇小学校集会室で「西宮空襲を語る会」が開かれ
ていた。私はそこで空襲の体験を語っていた。3年前の会合までは、体験を語る人は数
人はおられて、次々と語っていたのだが、その後古老の会の代表の山本実さんも亡く
なって昨年は、私と三重県から来られた、西宮空襲体験者で私と同年齢の田間貞夫さんと
二人だけとなった。今年は(2024年)会合が開かれるかどうかは分からなくなった。
そして私自身もいつまで、語り続けることができるかどうかわからない。
そこで昨年、私は西宮市今津地域学習推進員オンライン講座の講師として、私の語り
をDVDに撮ってYouTubeにアップしてもらった。「西宮今津での戦災を語る」
というタイトルでYouTubeを検索すれば、焼夷弾の打ち上げ花火のように
広がって落下する火の下を必死で逃げた空襲体験を語る私が、いつでも現れるよう
になっている。
それによって私はYouTubeで、多くの先の大戦の戦争体験が、語られている
ことを知って時々聞くようになった。その中に、千の利休を祖とする茶道裏千家大宗
匠で元海軍特別攻撃隊員の千玄室さんの当時100歳の戦争体験の語りに私は、深く
心を奪われた。
千玄室さんの語りのYouTubeは何種類かあった。代表的なのは朝日放送報道ス
テーションの、大越キャスターのインタービューで、昨年(2023年)8月に語られた
ものである。その他には、昨年4月に語られた関西プレスクラブの定例会での講演。
昨年3月の海上自衛隊のシンポジウム基調講演などがあるが、いずれも、当時100歳
の年齢にもかかわらず、記憶は鮮明で、言語は実に明瞭に語られ、その眼差しは
穏やかながら鋭く、語られる内容とともに、私は素晴らしい語り部だと、感動して
YouTubeを見たので、その語りの内容を、私なりにまとめてみた。
千玄室さんは大正13年(1923年)4月19日、茶道裏千家14代碩叟(せきそう)
宋室の長男として誕生。茶道家の生まれではあったが明治維新までは武家でもあって、
茶道の他、剣道・柔道・馬術など厳しく躾けられていたと語っている。同志社大学2年生の
昭和18年(1943年)の時、理工系を除く学生に徴兵猶予を取り消し、学業なかばで戦
場への出陣を求められた「学徒出陣」により、海軍を志望し第14期海軍予備学生として
舞鶴の海兵団に入隊する。大学での親しい仲間10人の内8人は陸軍に行った。それぞれ、
フィリピン、中国、旧ソ連などへ行って、ほとんど亡くなっている。
舞鶴では基礎訓練の他、適性の試験が何度も行われた。通信・航空・主計などに分かれること
になった。玄室さんは眼がよく、琵琶湖で民間の水上飛行機を操縦した経験もあることから、
航空隊に決まり、土浦海軍航空隊に転属する。この航空隊は茨城県の湖、霞ケ浦の一角にあり、
戦時中の「予科練の歌」で「今日も飛ぶ飛ぶ霞ケ浦にや、でっかい希望の雲が沸く」と歌われ
た有名な航空隊である。ここで海軍士官になるための精神を植え付けられる。「スマートで、
目先が利いて、几帳面、負けじ魂、これぞ船乗り」として、スマート・スマイル・スタデイ
を忘れずに、美しく死ね、と教え込まれた。
そして、徳島の航空隊に転属して、海軍少尉に任官する。ここでは水上機ではなく、陸上
機の訓練に明け暮れた。この時は戦局も危急となり、1年6か月かかる飛行訓練を10か
月で習得しなくてはならなくなった。飛行機の操縦では,上がっていく高度。風速、風の
流れなどを計算に入れなくてはならない。操縦しながら、高度計や速度計、油圧計などの計
器盤を見ないといけない。少しでも間違うと、その後、地上で報告しなければならない。
飛行訓練をやっているときに報告すると、他の機の爆音で声が消される。「声が小さい」
「歯をくいしばれ」と怒鳴られ。ばーん、と殴り飛ばされる、こんな鉄拳制裁は、常に
受けていた、大変な毎日だった。訓練は死にものぐるいで、「ああ、よく今日も生きて
いたなぁ」というものであった。そうした中で、飛行機と一緒に死ぬのだと、自己認識
が生まれた。いろんな意味で悲しく、苦しい。自分で気合をいれ、朝来て夕方まで訓練。
昼飯などは食べている時間はないほどだった。
昭和19年(1944年)12月頃から特殊訓練が始まった。高度1500㍍から突っ込んで
ゆく訓練である。まっすぐ落下して突っ込むのだからそのままだと地上に激突する。G
(重力)がかかって苦しい中、高度計800㍍で操縦悍を引いて激突を避けよと教えられて
いた。昭和20年(1945年)1月頃には、これは特攻訓練ではないかと、きな臭く感じて
いた。案の定、4月2日、操縦士全員集合で200人ぐらい集合した時、紙を渡され、特別
攻撃隊に参加するかどうか「諾」するか「否」かと、姓名を書いて提出することを求められた。
玄室さんは、「熱望」と書いて2重丸して提出したが、同じ年の戦友の西村晃(戦後俳優となり
水戸黄門役などで有名)は、結婚していて子供が生まれる予定だったので、悩んで相談してきた。
「もう『否』とは書けないぞ」といった。その後、西村は特攻に出撃したが、機体故障の
ため引き返し、生き残っていた。が、そのとき移動していたため、すでに特攻死したものと
思っていた。結局は、西村と二人だけが生き残った。
海軍の特攻基地は九州の鹿屋と串良にあった。そこから沖縄周辺のアメリカの艦艇を目標に、
250㌔の爆弾を抱えた特攻機が飛び立って、機体と一緒に自爆攻撃をするのである。特
攻機には、零式戦闘機・艦上爆撃機彗星などのほか、練習機の白菊も使われていた。
いよいよ特攻基地へ移動する日、自分たちが乗る飛行機の機体のそばで、手持ちの
道具と配給の羊羹で、出撃隊員と茶会を催したことも語られていた。特攻のため
鹿屋へ移ってからも、臨時の茶会で、一服の茶を喜び、味わって、もう帰ることが
ない攻撃に飛び立っていった隊員も多くいた。京都大学の予備学生で親しかった
旗生良景などは、「千なぁ、俺なぁ、帰ってきたら、御前のところの本当の茶室
で茶を飲ませてくれや」といって、特攻に出撃していった。出撃する特攻機が
飛び立っていくとき「帽,振れ!」と命令がかかり、みんな懸命に帽子を振って
見送った。そして、「突入する」と信号が入ると、通信機を押したままの
「ツー」という発信音がしばらく続き、やがて途切れた。
玄室さんも、次々と飛び去ってゆく特攻機を見送り、出撃命令を待って待機する
日々を送っていたが、8月になって鹿屋から松山の基地へ転属が命じられた。
松山は敵のB―29爆撃機などを邀撃する戦闘機隊が集結していた基地であったが、
玄室さんには極秘命令が下された。「南方のある地点まで、大型機を操縦し、
そこで日本軍の将官を乗せて、日本本土に帰って来い」というものだった。
しかし、具体的な実行命令は出ず、極秘命令は中止になった。その日は昭和20年
(1945年)8月14日。翌日終戦、除隊となった。
玄室さんはその後、父(宗室)の死去により裏千家の家元を継ぐが、しばらくは
このような戦争体験を語ろうとはしなかった。ところが、学徒動員した14期
学徒予備学生の生き残りの集まりがあり、亡くなった人たちのことを語りあう
ことがあった。そして、生き残り生かされている者は何のために生きているのか
を考えた。死んでいった人たちも、本当は戦争のないことを願っていたのでは
ないか。我々は戦争を語り継ぎ、戦争をおこさないようにすべきではないか。
と、思うようになった。戦争は人類の堕落である。人類の堕落を何とか
止めなければならない。そして今、生かされている者はこれを止める
という気持ちを、みんなが持たなければならない。と、強く思いを語った。
そして、玄室さんは、茶道を通じて人類の「和らぎの心」を世界に広げようと、
努力してきた。文化功労章の受賞は、日本だけでなく、ドイツ・フランス・タイ・
アラブ首長国・ペルー・アメリカからに及んでいる。「千里同風」が座右の銘である。
私の家近くの西宮神社では玄室さんの誕生日にあたる、毎年4月19日には
「和敬の心」をテーマに玄室さんによる「献茶式」がおこなわれ、今年で52回
目になる。
私は玄室さんの語りを聞いて、私の経験した、終戦の日の前から、10か月間に及ぶ、
「狂気の嵐が吹き荒れた時期」を思い出した。昭和19年(1944年)10月25日、
神風特別攻撃隊がフィリッピンでアメリカの空母を含む艦船を攻撃して以来、終戦の日
まで、相次いだ特攻・玉砕、そして、沖縄と他の外地、内地の180を超える都市に
原爆も含む鉄の嵐のような攻撃と猛爆撃が続いて、この期間中に戦争で亡くなった人の
数は膨大で計り知れないものがあった。そしてあの時、ラジオから流れる歌は「神風
特別攻撃隊」「斬り込み隊の歌」など悲壮なものばかりだった。
送るも行くも今生の
別れと知れど微笑みて
爆音高く基地を蹴る
ああ神鷲の肉弾行
命一つと賭け替えに
百人千人斬ってやる
日本刀と銃剣の切れ味知れと
敵陣深く今宵また往く
斬り込み隊
中学生だった私でも「人間はいつか、死ぬのは確かだ。どうせ死ぬなら国のために
死ねばよい」と考えていた。親しかった従兄たち(母の姉の息子)も、上の従兄(故人)
は早稲田大学から学徒出陣で呉の大竹海兵団に入隊したが、「生きては帰らない」と
言っていた。下の従兄(故人)は海軍予科練習生を志願して、美保海軍航空隊に配属された
が、もうその時は特攻に使う飛行機も無くなっていたので、飛行訓練はなく、海に潜って
敵艦艇に体当たりする「伏龍」の訓練に明け暮れていた。もうこの時、特別攻撃は特別
でなく、追い詰められた日本軍の攻撃としては自爆・玉砕しかなく、死ぬのが当たり前
となっていた。
昭和20年(1945年)4月7日、航空機の援助もなく、巨大戦艦大和は総員3332人
を乗せて「一億玉砕の魁(さきがけ)になれ」と命令され、特攻出撃して、すぐに攻撃を
受け爆発して沈没。3056人が戦死していることなどはまさに狂気の作戦で、正常な頭で
考えられた作戦とはどうしても思えないことが起こるようになった。
玄室さんは、戦争は人類の堕落であるといったが、私は戦争で堕落した人間は狂気になると、
思っている。最初はそれに気づかないが、戦争が進んでゆくと、戦争指導者、軍人だけでなく、
一般に広がって狂気が狂気を生む。当時の少年・少女の多くは熱狂的な軍国主義におかされて
いった。そして、その狂気を一気に覚ますのは大変難しいことだった。
今、大切なのは、これからは、もう狂わされないという強い気持ちと、努力だ。それには戦争
の実態を本当に知るために、語り継がれている戦争の話を、YouTubeでも良いから、
本気で真剣にそれを聴くことだ。と、私は思っている。
(2024年3月28日)