先の戦時下の替え歌・裏の歌
昭和15年(1940年)は神武天皇の即位から皇紀2600年に当たり。日本では紀元
2600年の祝典が盛大に行われた。祝賀の歌は作詞増田好生、作曲森儀八郎。歌ったの
は当時有名な歌手藤山一郎、松田トシだった。
金鵄輝く日本の
栄えある光身にうけて
いまこそ祝えこのあした
紀元は二千六百年
ああ一億の胸はなる
この替え歌は直ぐに、誰ともなく作られ、かなり広く歌われていたように思う。当時煙草
の銘柄にゴールデン・バットから、名称が変わった「金鵄」というのが、あったからだ
と思われる。
金鵄上がって十五銭
栄えある光三十銭
はるかに仰ぐ鳳翼は
五十銭になりました
ああ一億はみな困る
膨大な軍需支出は際限なく、輸入はこの年に行われたアメリカによる対日輸出制限措置等
により制限され、統制価格も全て上げざるを得なくなっていた。国民は物資不足、巨大なイ
ンフレになっていくことに不安を感じていたことが、この替え歌になった。
そこで。質素に生活すべし「贅沢は敵だ」というポスターが街中に張られ、頭の毛のパー
マネントは止めましょう、ということになり、次の替え歌となった。
パーマネントに火がついて
みるみるうちに禿げ頭
剥げた頭に毛が三本
ああ恥ずかしい 恥ずかしい
パーマネントは止めましょう
この歌の元歌は「皇軍大捷の歌」である。
国を発つ日の万歳に
しびれるほどの感激を
こめてふったもこの腕ぞ
今この腕に長城を超えて
はためく日章旗
これは日支事変で、当初は不拡大の方針であった戦火が、上海から南京へと拡大して
ゆく頃の歌である。作詞、福田米三郎、作曲。堀内敬三で広く歌われていて、最後に
「皇軍大捷万々歳!」と叫んで終わる。
作詞は佐藤惣之助、作曲は服部良一の「湖畔の宿」、 歌ったのは高峰三枝子で戦争
末期、特攻隊を慰問したときなどにもよく歌われた。
山の淋しい湖に
一人来たのも悲しい心
胸の痛みに耐えかねて
昨日の夢と焚き捨てる
古い手紙の薄煙
これが、骨のないタコの子の歌となった。
きのう召された タコの子が
弾に撃たれて 名誉の戦死
タコの遺骨は いつ還る
骨が無いから 還れない
タコのかあちゃん 悲しかろう
戦争末期には、玉砕、輸送船の沈没が相次ぎ、遺骨が返ってくることも少なくなって、
こんな歌をみんなで唄っていた。
小学生の集団疎開は私より年下の生徒から行われていたので私は歌ってないが、次の
ような厳しい状況下の歌が唄われていたようだ。
朝だ四時半だ ご飯のしたく
それがすんだら 紙くず拾い
昼飯は ミミズのうどん
集団生活 なかなかつらい
ケツケツ カイカイ ノミ シラミ
これは土曜・日曜の無い訓練をする軍歌「月月火水木金金」。作詞、高橋俊策 作曲、
江口夜詩の曲であった。
朝だ夜明けだ 潮の息吹
ぐんと吸い込む 銅(あかがね)色の
胸に若さの みなぎる誇り
海の男の 艦隊勤務
月月火水木金金
中等学校生は学徒動員令により、軍需工場などで働くことになった。私は川西航空機
工場に人を送る路線造りをしていた阪神電鉄に行ったが、西宮高等女学校4年生だった
姉(故人)は航空機の部品を作る工場に動員された。
そこには西宮商業学校の生徒も来ており、色々な歌を唄っていたらしい。それを姉が
家に帰って歌うのを、弟の私がうろ覚えながら今でも覚えている歌の部分がある。
その歌を記憶の限り書いてみようと思う。
津門の姐御(あねご)は国賊 国賊
君が代知らへん 国賊だあぁー
私は「津門の姐御」という人がどんな立場の人かは全く分からない。君が代は国歌の
ことだが知らへんと決めつける経緯もわからない。しかし戦時中は気に食わない人を
「国賊だ」と決めつけることはよくあったと思はれる。
動員中の西宮商業生の歌う歌も姉が歌っていたのを私が覚えているのは次の歌である。
浪商ヤクザで 阪神ボロ学校
甲陽・関学 これまたナンパ
同じ生徒なら 西商の生徒さん
義理も人情も 厚い生徒さん
花の久寿川 青葉の下で
将来旦那の 夢見る生徒さん
動員中の女学生たちに、西商の生徒さんたちは、こんな歌を唄ってしきりにアッピール
しようとしていたのかもしれないが、姉は覚えてしまって、家で歌っていた。
西宮の空襲で家が焼かれ、母の姉の嫁ぎ先の吹田市千里山の石田家に寄寓(きぐう)
することになった。石田家の息子の兄弟の3人は軍隊に入っていた。一人は早稲田大学
からの学徒出陣で呉の大竹海兵団に(故人)、もう一人は徴兵されて満州に(故人)、一番
下の一人は海軍の予科練を志願して、鳥取県の美保海軍航空隊にいた(故人)。
戦いが終わり帰ってきて、軍隊で歌いまくっていた歌を、唄ったのは、予科練にいた
昭示さんだった。予科練と言えば、有名な「予科練の歌」、「若い血潮の 予科練の七つ
ボタンは 桜に錨」とか、「貴様と俺とは同期の桜」ばかり歌っていたわけではなかった。
西南戦争を歌った熊本県民謡「田原坂」をよく歌っていた。
雨はふる ふる
人馬は濡れる
越すに越されぬ田原坂((たばるざか)
右手(めて)に血刀
左手(ゆんで)に手綱((たづな)
馬上ゆたかな美少年
西郷隆盛は
話せる男
国のためなら死ねというた
この「国のために死ね」というところが、当たり前に思えるまで、歌ったのであろう。
もう一つ「新船頭小唄」も歌っていた。
小島離れりゃ舟歌で
今日もおいらは波の上
海もきれいな夜じゃないか
なまじ見せるな未練気を
この歌もこの世に未練気が無くなるまで歌うのであろうと思った。美保海軍航空隊では
航空機はすべて特攻機用に出払い、人間機雷の「伏龍」の訓練もしていたという。
昭和20年の7月頃だったと思うが、宝塚と尼崎を結ぶ道路「尼宝線」のなかほどにある
阪神電鉄の農場での仕事を終え、同じ阪神電鉄電工小隊の三浦君と尼宝線を阪神国道に
向かって歩いていると、横を進んでいた牛の曳く荷車が止まった。荷車の先で手綱を取って
いた老人が「乗るか?」と声をかけてくれた。二人は荷車に乗って座り込んだ。牛は
ゆっくりと歩み始め、荷車は軽く揺れながら畑の中の道を進んだ。三浦君が新しく聴いた
歌だといって次の歌を唄い始めた。
明日はお立ちか 横浜基地を
さっと飛び立つ わが愛機
可愛いあの娘の 花束載せて
私しや征くよぅと 土佐沖へ土佐沖へ
「もう土佐沖まで、敵は来ているのやろか」と私。「そや、日本のどこかに上陸してくるのも
近いで……」三浦君がいった。 私も三浦君に続いて、この歌を唄って、1番は何とかすぐに
覚えて、唄い続けた。
牛の曳く荷車は尼宝線と阪神国道の交差点西大島に向かって、ゆったり、ゆっくり進んでいた。
(令和7年3月15日)