手塚治虫とアニメ映画「火の鳥」
令和7年1月元旦、NHKの総合第一放送午後11時から50分間、手塚治虫のライフ
ワークと銘打ってアニメ「火の鳥」が放映された。その同じ元旦の午後4時30分から30
分間、熱談プレイバックの再放送として、講談師・神田阿久鯉によって、手塚治虫の
「名作誕生秘話」、手塚治虫の大成功後のスランプを乗り越えて進んだ、60年の人生
である「執念の人生」が熱く語られていた。
昭和38年(1963年)漫画家,手塚治虫原作の連続テレビアニメ「鉄腕アトム」
(フジテレビ系)が始まった。私は当時31歳の銀行員だったが、このアニメだけは
見ることにしていた。
「空をこえてラララ、星のかなた、ゆくぞ、アトムジェットの限り、心やさしラララ科学の子、
10万馬力だ、鉄腕アトム」この鉄腕アトムの歌は今でもすぐに歌うことが出来る。この
テレビは大ヒット作となって、最高視聴率40%を叩き出し、原作者手塚治虫は漫画界の
NO1の漫画家として、この『鉄腕アトム』の他、『ジャングル大帝』『リボンの騎士』
などのヒット作を次々と生み出し、「漫画の神様」と言われるようになった。そして、
藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、矢代まさこ、水野英子、萩尾望都、などを
はじめ、多くの人が、手塚に影響を受け、接触し漫画家を志した。私の小学校、中学校
を通じての親しい友人の黒岩琢磨は今、日本折り紙協会の理事長も務め、『折り紙
太平記』などの著作もある折り紙作家だが、当時は漫画家を志望し、一部の新聞に
漫画を載せたりしていたが、手塚治虫に会いに行って漫画を語り、励まされたことを
熱く語っていたのを思い出す。
1968年、手塚は手塚プロダクションに動画部を設立した。その後、「虫プロダクション」
に改名して、最盛期には400人を超える正社員を擁していた。が、一方、漫画誌では
桑田次郎、竹内つなよし、横山光輝などの売れっ子漫画家が出現しており、また従来の
漫画ではなく、社会の闇をストレートの描く「劇画」が新しく台頭してきた。そして
次第に手塚の漫画は古いタイプの漫画とみなされるようになっていった。人気も低迷し、
虫プロダクションが倒産して、手塚は個人で負債約1億5千万円をかかえることになった。
手塚はこの時のことを「冬の時代だった」といっている。その手塚を回復させるきっかけ
になったのは、『ブラック・ジャック』などの医療漫画だった。手塚は大阪大学付属医学
専門部を卒業し、大阪大学付属病院で1年間インターンを務め、1953年3月に医師国
家試験に合格して、翌年に医籍登録をしている。
1973年に『週刊少年チヤンピオン』で連載開始された『ブラック・ジャック』は、
天才的な外科医だが医師免許を持たない「ブラック・ジャック」こと間黒男(はざま くろお)
の活躍を描いている。この作品は毎回読み切り形式で連載され、新鮮な作品として注目され、
後期の手塚を代表するヒット作へと成長していくことになった。1976年、少し書きかけて、
中断していた『火の鳥』を、『マンガ少年』の創刊で再開した。そして、『三つ目がとおる』
『ブッダ』などの連載で人気の復活を確かなものにしていった。
生命はいつか衰え、必ずいつか消滅する。そして、別の生命に引き継がれてゆく。しかし、
手塚は『火の鳥』という不死鳥(フエニックス)、永遠に死なない鳥を、登場させた。
火山の近くに住み、大地から湧き出るマグマからエネルギーを吸収して生きている。
火の鳥の血を飲むと永遠の生命を得られるという設定にもなっている。それを求めて古代から、
世界の各地、そして未来を通じてこの作品『火の鳥』の登場人物たちは、その火の鳥と関
わりながら悩み苦しみ、戦い、残酷な運命に翻弄され続ける。手塚はこの作品をライフ
ワークとして、最初は古代の『黎明編』から描き始めたが、次いで『復活編』『エジプト編』
『ギリシャ編』『ローマ編』さらに『未来編』『宇宙編』などその他、過去と未来を交互に描
かれている。そして最後は現代に戻り、手塚本人が死亡した瞬間に作品が完結するという
構想で描かれていた。
元旦から放映されたアニメ映画はその『黎明編』を手塚プロダクションとNHKエンタープ
ライスが共同で制作したものである。
時代は3世紀の倭(やまと・日本)。ところは火の国(クマソ)。主人公のナギの姉ヒナクは
破傷風にかかり、生死の境をさまよう。ヒナクの夫ウラジは妻を助けるため火の鳥の生き血
を求めて火の山に入るが、火の鳥の炎に包まれ死んでしまう。そんな折、村の海岸に漂着
した異国の医師グズリが現れアオカビから、ペニシリンを作ってヒナクを救う。やがてグズリ
とヒナクは恋に落ちる。ところが婚礼の夜、グズリの手引きによって、多数の軍船から猿田彦
率いるヤマタイコクの軍団が上陸。村人は虐殺され、ひとり生き残ったナギは猿田彦を襲撃
するが捕らえられる。猿田彦はナギをヤマタイコクに連れ帰り、狩り部(猟師)に鍛え上げる。
グズリはスパイではあったが、村人を虐殺することまでは知らされていなかった。必死で
ヒナコに説明し続けることになる。が、最後は二人で子供を多く作り、火の国(クマソ)の
再建を目指すことになる。ナギがヤマタイコクの卑弥呼に矢で攻撃したのを怒った卑弥呼。
そのナギをかばった猿田彦とナギは日蝕の騒ぎのすきにヤマタイコクを脱出して火の国に
向かう。
ヤマタイコクの老いた卑弥呼は火の鳥の生き血を強く求め、火の国に来て弓の名手弓彦に、
火の鳥を射させるが、:火の鳥に矢が命中したと同時に、逆に卑弥呼が死んでしまう。弓彦は
火の鳥をモガリの宮に閉じ込めるが、火の鳥は死なない。永遠の不死鳥なのである。
一方、猿田彦とナギは火の国に来たが、火山が大噴火をして、近づけない。折から侵攻してきた、
騎馬軍団高天原族に捕らわれる。が、同じく捕らわれていたウズメの手引きにより、逃げだす
ことが出来た。ところがこの高天原軍団は近在の村を襲い、モガリの宮に卑弥呼の亡骸を祀り、
卑弥呼の亡き後のことが決まっていないヤマタイコクに攻め込んでくるのである。猿田彦はナギ
と別れヤマタイコクの救援に向かう。激しい戦いの最中、別れたはずのナギも猿田彦の戦いに
参加する。火の鳥を射た名手弓彦も先頭に立って戦うが、ナギに火の鳥はモガリの宮に閉じ
込めてあると告げて、敵の矢に当たって死ぬ。猿田彦も最後まで戦ったが、力尽きナギの
「お父さん」と叫ぶ声に満足して死ぬ。ナギもモガリの宮で火の鳥を捕らえようとしたが、
火の鳥は光を発し、飛び去ってゆく。ナギはさらに高天原軍団と戦って死んでしまう。
グズリとヒナクと産んだ子供たちは、火山の大噴火により、洞窟に閉じ込められたが、
噴火がおさまると、洞窟の奥に通じる火口の亀裂の底で暮らしていた。子供の一人、タケルは
火の鳥に導かれ、火口の壁を登って脱出に成功する。彼はやがて家族全員を火口の亀裂の底
から救い出し、火の国クマソを再興することになる。火の鳥『黎明編』はここで終わる。
『黎明編』は今年の元旦に続き、NHKの1月8日と15日に放映され、1月22日からは、
がらりと内容が変わって、未来のロボットが多数出てきて、人間との間に色々な関係を結ぶ
『復活編』に移る。『黎明編』で描かれていたのは、『魏志倭人伝』の卑弥呼の時代であるが、
部族間で血なまぐさい闘争が繰り広げられているなか、卑弥呼などは権力維持のために、
クマソのヒナクの夫やナギは身内の命を救うために、火の鳥の生き血を求めて行動をおこして
いる。そんな中、騎馬軍団が現れて、ヤマタイコクを滅ぼすのは東京大学江上波夫名誉教授の
騎馬民族征服王朝説にヒントを得たものであろうと思われる。
手塚はこのような古代の「過去」から「未来」の火の鳥を描き、(『未来編』では3404年
の核戦争による、人類の滅亡期まで描かれている)それを繰り返して、最後に『現代編』を
描くことで、手塚の人生も、火の鳥も完結すると語っていたが、どんな終わり方を考えて
いたのだろうか。
晩年、手塚が構想を語りながらも描かれなかった「火の鳥」の「編」が2つもある。一つは
『火の鳥と私』で1968年12月に『現代編』についてこう語っている。『黎明編』から
長い一貫したドラマは「最後にひとつにつながってみたときに、はじめてすべての話が、
じつは長い物語の一部にすぎなかったということがわかるしくみになっています」。
もう一つは『再生アトム編』という構想を持っていたことである。これは、NHK
ラジオ第1放送で1980年3月21日に、その内容を次のように語っている。「アトム
はロボットであり、不死の存在と言える。その魂は、最終的には、火の鳥に救われるの
ではないか」と言うことと、「意識していたわけではないのだが、お茶の水博士はその
容貌からして、猿田彦の血を引いていると思う。彼はアトムの最期を見届けることに
なるだろう」 1985年、NHKの取材特集に応じた時は、身体能力が衰え「丸(〇)
が上手に書けないんだ」と語る半面、「今はアイディアが溢れるように出てきて、
もうバーゲンセールしてもいいぐらいあるんだ」と述べ、創作活動への強い意欲を見せた。
私は思う。手塚は火の鳥を完結させる最後の『現代編』にどうしても「鉄腕アトム」を出した
かったのではないか。アトムはもう手塚の分身のようになっていたから、手塚の亡
くなる時は鉄腕アトムの終わるときである。
そして、新しいアトムが同時に出来上がる。そのアトムは「鉄腕」ではない「ウルトラ・
アトム」だ。人間に近くなり、感情も持ち、体内には血管に近いものも持っている。
その血管に火の鳥の生き血が入ったら……。
これは、私の『現代編』に対する思いだが、手塚は最後の『現代編』に、もっと
凄い構想があったのかもしれない。
手塚は胃癌で死ぬ直前の昏睡状態の時でも「鉛筆をくれ……」とうわ言を言っており、
手塚の死に立ち会った手塚プロの松谷社長によると手塚の最後の言葉は「頼むから仕事を
させてくれ」であったという。この時息子の手塚真がペンを渡すと強く握りしめるという
動作をしていたといわれている。
1989年2月9日。手塚治虫はその60年の生涯を閉じた。
(2025年1月28日)