Tryus(その1)
―機能訓練特化型デイサービスー
神戸に本社を置く「アシックス」という会社は、スポーツシューズの他、各種スポーツ用品等の製造販売をしている。今や、資本金239億7千2百万円。系列企業連結売上高5704億6千3百万円、従業員数8,927人、関係会社国内13社、海外52社(北米、欧州、中華圏、オセニア、東南・南アジアなど)を有する、成長性の高い新進の大企業であるが、1949年創業の時は創業者の鬼塚喜八郎がやっと、神戸で「鬼塚株式会社」として、4人の社員で発足した会社だった。
30年ぐらい昔、私は日経新聞の「私の履歴書」を読んでそんな会社が神戸にあることを初めて知った。鬼塚喜八郎は1918年(大正7年)鳥取県生まれ、中学卒業後7年間、軍隊生活を経験のあと終戦。神戸で商事会社に就職したが、当時よくあった闇取引もする会社で、社長と対立して、3年で会社を辞めてしまう。学校の教師を希望していたが、当時のGHQによって軍隊経験の永いものは、公職禁止令により教師にもなれなかった。
そんな時、兵庫県教育委員会で体育保健課長を勤めていた元戦友でもある堀浩平から聞いた話が心に残った。その話は「健全な身体に健全なる精神があれかしと祈るべきだ。というローマ時代の詩人の残した言葉があるが、スポーツで鍛えることで青少年は立派に育つ、教師になれないのなら、スポーツの振興に役立つ仕事をしたらどうだろうか」というものだった。そして、堀の話を聞いて、思い立ったのが、スポーツシューズの製造であった。
シューズはあらゆるスポーツに欠かせないものである。しかし当時はズック靴か地下足袋(じかたび)が用いられ、本格的なスポーツシューズはほとんど無かった。青少年が全力で打ち込み、記録が伸びるようなシューズを作る。シューズを通じてスポーツを普及させ、青少年を立ち直らせる。喜八郎が使命感に目覚めた瞬間だった。
初めてつくったのは、バスケットシューズだった。ある高校の監督からの依頼だった。新しい仕事への挑戦に心がときめいた。仕事場にこもり、夜まで作業をしてなんとかカタチにした。しかしそのシューズを監督に届けると、わらじのようだと床にたたきつけられた。練習場で球拾いしながら、選手の足を見ながら、選手ひとりひとりから意見や注文を聞きながら、改良に改良を重ねた。しかし、グリップの悪さだけはどうにもならなかった。
夏のある日、母親が夕飯にキュウリの酢の物を作ってくれた。その時、皿の中にあったタコの足の吸盤に目が止まった。この原理を靴底に応用すればいいかもしれないと思った。そして吸着盤型のバスケットシューズが生まれた。しかしそのシューズは、グリップが効き過ぎて、ひっくり返る選手が続出した。吸盤のくぼみを浅くして、ようやく、急発進、急停車どちらも可能な鬼塚式タイガーバスケットシューズが完成した。そのシューズを履いた高校のチームが優勝したのは、それから遠い日のことではなかった。
次はマラソンシューズの開発に没頭した。走るとマメができて当然。マメを克服してこそ一流という時代だった。しかしマメができないシューズがあれば、もっといい記録ができるはずだと考えた。当時のトップランナーに「そんなシューズができたら逆立ちしてマラソンしてみせますよ」と言われた。
さっそくマラソンに関する文献を貪り読んだ。欧米の研究書や日本の特許もくまなく調べた。しかしまだ科学的に研究されていない時代であり、答えはどこにも見つからなかった。ある日風呂場で何とはなしに自分の足をながめていて、はっと気がついた。人間のカラダのことは靴屋がいくら考えてもダメだ。肉体のことは医者がいちばんよく知っているにちがいないと大学の医学部の教授のもとへ走った。マメは火傷の現象と同じだということを知った。衝撃熱を冷やし、足の裏の炎症をいかにして軽くするかという具体的な課題を得た。そしてヒントは意外なところにころがっていた。タクシーに乗った時、エンジンが加熱して動かなくなってしまったのだ。運転手がラジエーターに水を補給するのを忘れていたことが原因だった。その時、足も水で冷やせばよいと思った。
さっそくこのアイデアで新しいシューズづくりに取りかかったが、結果は散々だった。シューズの底に水を入れると、足が重くなり、しかもふやけてしまう。水冷式がダメなら、空冷式だと方針を転換した。シューズの上部に目の粗い布を使い、前と横に穴をいっぱいあけて風通しをよくした。着地した時、熱い空気が吐き出され、足が地面から離れると冷たい空気が流れ込むという空気入れ替え式構造のシューズができあがった。
逆立ちしてマラソンしてみせますよと言った選手に試してもらった30㌔ではほとんど異常はない。42・195㌔完走しても、足の裏は少し赤くなった程度で、マメはできなかった。その選手は信じられないという表情でいつまでも自分の足をながめていた。
マラソンシューズに関しては1968年の第1回東京オリンピックで銀メダルのイギリス、ヒートリー、と銅メダルの円谷幸吉が使用したのは、オニツカのマラソンシューズで、オニツカシューズは世界的に有名になっていった。私は2位で国立競技場に駆け込んできて、疲れてゴール200㍍手前で抜かれて、3位となる円谷の映像が今でも印象に残っている。
1977年、社名をアシックスに変更した
1988年、ソウルオリンピックでポルトガルのロザ・モタがアシックスの靴でマラソンの金メダルを取った。1990年アシックス、スポーツ工学研究所を設立し、一層の改良が進められた。1992年バルセロナオリンピックで有森裕子が銀メダルを取った時も、アシックスの靴を使用していた。2000年シドニーオリンピックでは、高橋尚子がアシックスの「ソーテイジャパン」を履いて、マラソンで金メダルを取った。この時、私は大変感動して称賛のエッセーを書いた。2004年アテネオリンピックでは、女子マラソンで金メダルを取った野口みずきも、また、男子マラソンで金メダルだったイタリアのステファノ・バルデイもアシックスの靴を使用していた。
マラソンに限らず、アシックスのシューズは、広く多くのスポーツで使われるようになっていった。2018年テニス国際大会で優勝したノバク・ジョコビッチも、アシックスの
「GEL―RESOLTION]を使っていた。また、アテネ、北京、ロンドン、と、レスリング女子金メダルの吉田沙保里はアシックスのレスリングシューズ、「シングル・レッド」を使用していた。
私が参加しているオリエンテーリングの靴はスエーデンのサルミング社製など欧州製が多く、未だに、日本のメーカーでは専用靴は作られていないが、1990年頃からスプリント(平地)競技用として私はアシックスマークの入った靴を使うようになった。このマークの靴はなかなか恰好が良いからであった。
このように世界の有名人が愛用し、会社は大きく発展を遂げていったが、鬼塚喜八郎は、「スポーツにより、健全な精神と健全な身体造りをする」という方針だけは一貫して貫いた。毎年の新入社員の入社式には、スポーツ精神六か条をいつも声高らかに読み上げていた。
一、スポーツマンはルールを守る。
二、スポーツマンはフェアープレーの精神に徹する。
三、スポーツマンは絶えずベストを尽くす。
四、スポーツマンはチームの勝利のために闘う。
五、スポーツマンは能力を高めるために常に鍛錬する。
六、スポーツマンは転んだら起きればよい。失敗しても成功するまでやればよい。
2007年9月29日、鬼塚喜八郎は突然、亡くなってしまうのである。心不全と言われている、89歳だった。
喜八郎が亡くなった後も、この会社には喜八郎が信条としていた方針と、強いスポーツマン精神は、そのまま引き継がれた。さらに健康管理室を、2008年には健康推進室として顧客や、従業員に対する健康推進活動を一層積極的に行うようになり、全社挙げて健康経営に取り組むことになった。そして、2014年、アシックス独自の理論に基づいた運動サービスプログラムを作り出した。
それは心と身体の健康を同時に維持、増進させるためのもので、「身体」だけではなく「頭」も同時に活性化させるプログラムで、「デュアルスパーク」と呼ばれている。利用者の体力状態を測定して、数値で管理する。そして「あるべき姿」を知り「なりたい自分」を明確に決めて、それを目標とする。そして、プログラムを実行してゆくのである。実行するには3つの方法が取られる。1つ目は天井から下がった紐を握り、「立つ」「歩く」「転ばない」をコンセプトにした独自の訓練をおこなう。これを「スリング・ポール」という。2つ目は身体のそれぞれの部位を8つのマシンで効果的に鍛える「マシン・トレーニングである。3つめはトレーナーを囲み、両手・両足・その他の道具を使い、頭と身体を同時に使うことによって、注意力の向上を目指す「デュアルタスク」である。
この年の8月、アシックスは、このプログラムを実現するためにTryus(トライアス)という組織を作った。この組織は機能訓練特化型デイサービスといわれる、介護サービス事業である。介護認定の要支援1または2から要介護1・2の人の内「これ以上悪くならない」ことを望む人たちを対象とした組織である。
そして、2020年5月には、この組織を100%出資の子会社としてアシックストライアス株式会社を設立して、施設管理事業として事業分割経営を行っている。
2014年の8月のある日、私が属している西宮市シルバー人材センターから電話がかかってきた。「アシックスが9月から新しく『トライアス』1号店を西宮で開業します。運動プログラムの模擬体験をする人を求めています。就業として行ってみませんか」私は「アシックスがいよいよ西宮で介護事業を始めるのだ」と知って勿論、行くことを直ぐに決め、9月1日阪神西宮駅前に集まった。ここから酒蔵通りに面した用海町の、アシックスまで車で送ってくれた。人材センターから23人が集まった。模擬指導をするトレーナーは10人だった。8人が女性で30代から40代か、みんな若々しかった。「スリング」「マシン」「デュアルタスク」と分かれ、私のグループは「デュアルタスク」から始まった。トレーナーを中心に輪になって座って、両手・両足それぞれ違う運動を同時に素早くする。これには直ぐについていけなかった。トレーナーは相当の訓練をしているのだろうと思った。次の「マシン」は8種類の機器を順番に使って、足・腰・背筋を、鍛えるようになっていた。そして、「スリング」は天井から下がった紐を握って、「転ばない」訓練をした。
全部のプログラムが終わり、アンケートを提出して12時に解散となった。みんな「面白かった」「楽しかった」と笑顔で話していた。私は「このTryusがこれからどう展開して行くのだろう」と期待を込めて考えていた。
この時、私は82歳。まだ元気一杯で、10年後に介護認定を受けて、このTryusuの会員になることなどは、考えていなかった。
(続く)
(2024年10月29日)