コンパス操作ミスに富士の山が嗤(わら)う
―富士山麓オリエンテーリング大会―
今年4月9日(日)富士山麓朝霧高原の根原周辺で行われたオリエンテーリング大会に
91歳の私は、男子80歳台A級の競技に参加したが、コンパスの操作ミスで大失敗をして完走できなかった。今後の大会では失敗しないための反省を込めて、その参加の経過と、考えられる失敗の原因を書き記すことにした。
出発したのは4月8日(土)、9時に能勢電鉄畦野駅前で、今、岡山に住む男子65歳台A級に出場する大阪オリエンテーリングクラブの中原さんの車に同乗させてもらった。畦野の駅は新名神高速道路の川西ICに近い場所にあり、山陽自動車道から神戸JCT経由で到達しやすい場所にあるからである。そこから名神、東名を乗り継ぎ新富士ICから、富士宮市の北部にある宿屋「西の家」に着いたのは15時過ぎであった。夕食までは時間があったので、その近くにある日本五大桜の一つといわれる源頼朝ゆかりの「狩宿の下馬桜」の桜祭りを見に行ったが、すでに桜は散っていた。そこで富士山本宮浅間神社一の鳥居の横に2017年に建てられていた「静岡県富士山世界遺産センター」へ行ってみた。立派な5階建ての建物に驚いたが、中に入るとスロープが螺旋状に最上階まで続き、それを登ってゆくと周りの映像から、富士登山を思わせる仕組みとなっていて、最上階のテラスに出ると、そこからはさえぎるものがなく、白雪をかぶった、本物の富士山が眺められた。他に岩石や動植物などの説明と展示があった。入場料300円だが、70歳以上は無料だった。その日は「西の家」に宿泊したが、ここは古い建物で団体客向けの宿だったが朝夕の2食付きで、7700円だった。
翌日の大会当日、朝8時半出発、中原さんの運転で9時半には会場の朝霧野外活動センターに着いた。立派な建物で2階の広い体育館が、その日の荷物置き場となっていたが、参加者は皆そこで着かえたり、休んだりしていた。この会場の周りには山つつじが咲き誇り、東側には頂上付近を銀色に輝かした富士の山が真近に見えた。まさに快晴の一日であった。スタート場所は、専用バスで15分間「道の駅朝霧高原」まで乗って、そこからさらに25分間「根原分校」まで歩き、さらに青白テープ誘導で10分間歩いた林の中にあった。ただ75歳以上の参加者は「根原分校」までの間は係員が自家用車で送ってくれた。この日の競技出走者総数は622名であった。男子80歳台は11名であり、地図は7500分の1、距離は1・8㌔、コントロール数は7。私のスタート時間は12時17分であった。その前におなじみの顔どうしの、最高齢者の3人、91歳の東京の高橋さんと大阪オリエンテーリングクラブの私、北海道の89歳の原田さんとの、本日のレジェントが揃って、スタッフから写真を撮ってもらった。
時間がきて、私はスタートした。テープに沿ってしばらく走ると、地図上では△印で示されているスタートフラッグが道にあって、そこから①(岩の南側)へは西南西へ150㍍である。道から離れ、雑草の原を横切り林の中の丘を越えてゆくと地図上に最初の岩があった。その次の岩にはフラッグがあるだろうと、次に見えた岩に駆け寄ったが、そこには①のフラッグがなく目標と違う岩だった。今から思うとその時に進む方角が変わってしまっていたのである。最初の岩に戻りそこから西南西にコンパスを振れば簡単に見つけられたに違いないと今になって思う。ところが、「なんでこんな短い距離で見つからないのか」という焦りが出て、さらに私は南東の方向にずれて、間違った方向の林を彷徨し始めていたのである。私のスタートした後には、原田さんや小幡さんや今井さんや高橋さんが続々と追いついてくるはずなのだが、誰にも会わず、私の周りには誰も人がいなくなっていた。私はルートから外れていたのである。「仕方がないスタートフラッグに戻ろう」としたが、それがまたわからなくなったが、やみくもに進んでとにかく、最初スタートしてきた道に出て、再びスタートフラッグのある、地図上の△まで戻り、もう一遍コンパスを西南西へ向けて進みなおした、ところがなんとまたもや同じ①ではない岩にぶつかってしまった。また戻ったりすると完全に今日はここで終わりとなる。大ピンチだ。「さぁ、どうする」。地図をよく見ると①の南側に道があるので、とにかく南に進んでその道に出ることにした。道に出て地図を良く見ると道の北側に祠のしるしがありその横に細い途がある。それだ。それを進んだ先の岩にやっと①を見つけた。あとで分かったラップの記録では私は①だけで48分20秒もかかっていた。同じコースの男子80歳台・女子65歳台を通じてここでこれだけかかっている人はいない。80歳台男子1位の鈴木さんは4分4秒、2位の原野さんは3分40秒で、高橋さんは6分46秒である。65歳台女子の植松さんは3分17秒で、男女通じて最速でこの①を取っている。ただ、この①でつまずいた人はいる。65歳台女子の山本さんはこの①を取れずに次の②に向かっている。男子80歳台の田中さんはこの①で29分41秒もかかったが、あと猛スピードで完走して見事3位に入っている。若い? 80歳台の力はすごい。
私は規定時間90分以内にはゴールできないかもしれなくなったが、やれるだけやってみようと思って②(炭焼き小屋跡の西)に向かった。①から南南西へ350㍍だが、その途中に道があるので、道から南に進めば簡単なように思えた。ところが②のほんのそばまで行っていながら(後で分かったことだが)見つからない。そこで再び行きなおすため、途中の道まで戻ろうと思った。この時コンパスの重大な操作ミスを犯してしまったのである。①へ行くとき南に進んで道に出たので「道=南」という刷り込みが私の頭に残っていたのかもしれない。北へ行くべきなのに南にどんどん進んでしまったのである。
私はコンパスの指し示す南の方向へと、ただひたすらに岩石や倒木などで歩きにくい林の中を懸命にもがくように進んでいた。土崖の上に出てそれを下ると、広い荒れ地に出た。道などは全く見当たらないが、木々の茂りはなくなり、眼前が開けた。
その時、サッと左の空一杯に頭に雪をギラギラ輝やかせた富士山が、真近くに姿を現した。「美しい」とか「素晴らしい」とか思うゆとりはもうなかった。雪の中に黒く露出した部分が目や口に見えて、「お前、なんと馬鹿なことをしているのか、可笑しいよ」と富士山に私が、からかわれて、嗤(わら)われている気がした。「くそー」と見返したとき、気が付いた。「朝霧高原は富士山の西にある。地図の上部に向けて進むとき、富士山は右に見えるはずだ。地図の上部は北を指す。北に進まなければならない。左に見えるのは間違って反対の方向に進んでいるからだ」大失敗だ。「わかったよ、富士山。嗤うな」私は直ちに一回転し、コンパスの北の方向目指して戻ることにした。気が付けば地図の南の端近くに来ていると思えた。マツプアウト(地図の外に出て彷徨)するとそれこそ行方不明者となり、捜索隊が出動するところだった。必死で戻ると落ち葉に覆われた沼にぶつかり、これは②の南側の沼地だと分かった。やっと②が取れたが、規定時間90分はすでにオーバーしていた。ラップによると、スタートしてから、96分59秒がここまででかかっていた。競技は失格していたのである。②の近くには水飲み場があり、そこにいたスタッフの人に、「時間オーバーなので、先へ行かずに帰る」と告げた。「北に進み、道に出て、その道を東南にまっすぐ行けば、大きな道からゴールに着きます」と教えてくれた。
ゴールすると、私一人を乗せてスタッフが車で「道の駅朝霧高原」まで送ってくれて、そこからバスを乗り継いで会場の「朝霧野外活動センター」に帰り着いた。14時40分だった。中原さんが岡山まで高速道路で帰るのに15時過ぎには、ここを出たいといっていたので、なんとか間に合って良かった。と、思った。同じころ帰ってきていた、高橋さんは11名中9位で1時間24分15秒、見事に時間内に完走していた。原田さんも11名中8位で1時間22分57秒で立派に完走していた。完走できず失格となったのは私と横浜のベテランの今井さんの2名だった。男子80歳台の1位は千葉の鈴木さんで37分04秒だった。同じコースの女子65歳台の1位は北欧のイレーネ・ダニエレッセンさんで34分31秒だった。
そして帰りは、岡山へ帰る中原さんの運転する車に乗せてもらった。新富士ICに至る手前の富士宮の道路が渋滞して、少しイライラしたが、高速道路に入ると、大きな渋滞もなく20時20分、無事新名神高速道路から能勢電鉄畦野駅に帰り着くことができた。
家に帰って改めて地図を見て、失敗の原因を考えた。この日の競技中、私は肝心のところで、間違った方角に進んでいたのがその原因だ。コンパスを見ていなかったり、見間違ったりしていたのである。コンパスの赤い針は常に北を指す(磁北だが地図も磁北に合わせてある)反対の白い方は南だ。西南西に進むには白い方から見て右に80度、90度は真西だから西からは左に10度の方向へ進めばすぐに①を取れたはずだ。②の場合は道まで戻ってやり直そうなど思わず、もうほんの少し進めば、すぐに見つかったはずだ。それにしてもコンパスの北と南を間違えたのは完全な操作ミスだ。私の身体と頭の老化が進んでいるからそんなことになる。自動車の運転でいえば、アクセスとブレーキの踏み間違いミスに匹敵する、大事故につながる失敗だった。自動車の運転ならば、即運転免許は返上するべきである。オリエンテーリングも今後の参加は止めるべきではないか。91歳なら止めても当然の年齢である。
そこまで考えたとき、また別の思いが出てきた。2021年に開かれる予定だったWMG、生涯スポーツ国際大会、ワールドマスターズゲームズの日本開催での出場は私の長年の夢だった。そのために今まで競技を続けてきた。それが2027年5月まで延期となって、その年で日本の関西地区での開催が決まっている。そこまで何とか生きて日本人初の95歳台クラスに出場を目指すべきではないか。そのためには身体が無理にならない程度の競技には出た方がよい。いや、出ていないと2027年まで、身体と頭が持たなくなる。
私がなんとか健康を保ち今日まで曲がりなりにも生きてこられたのは、オリエンテーリング競技があったからである。毎日歩き続けているのもそのためである。私の場合は、今になって、競技を止めてしまえば、老化と衰えは急速に進むだろう。それに5歳年下の妻が、歩けなくなり「介護4」の状況で介護施設に入っている。医療費、施設費用の支払いや、手続き、面接などを含めての介護は、私が元気を保ち続け、生き続けていないとできない。私が倒れたり、競技を止めて私の身体が今以上に衰えていくわけにはいかないのだ。
私は地図を見て、周りきれなかった③、④、⑤、⑥、⑦のコースに想いをはせ、「よし、リベンジだ」と叫んでいた。そして今年、近くである大会、6月3日(土)播州赤穂海浜公園大会と、その翌日6月4日(日)兵庫県宍粟市「ちくさ高原」大会の参加申し込みをネットですぐにおこなった。
(2023年3月24日)