2024年100周年を迎える甲子園と私

   2024年100周年を迎える甲子園と私

甲子園といえば、多くの人はまず第一に阪神甲子園球場のことを思い浮かべる。甲子園

という名前は、十干十二支の組み合わせの「甲子」にちなんで名付けられた。球場の完成

した年1924年(大正13年)がちょうどその甲子(きのえね)の年だったからだった。

それに「園」が付いていることも忘れてはならない。園は一定の区域を指す。甲子園と

呼ばれるこの区域も球場と同じく、来年は甲子園と呼ばれるようになってから、100年

を迎えるということになる。

 

本来甲子園と呼ばれる地区は、昔武庫川の支流である枝川が流れていた場所である。

1920年(大正9年)から1923年にかけて武庫川本流の改修工事が行われ、それは、

本流の川幅を広げるとともに、その支流の枝川をせき止めて、その跡地を道路や広場に利用

しようとする大規模な工事をした場所でもあった。そして1922年廃川となった枝川の跡

地を買い取り、全般にわたる開発利用を引き受けたのが当時の阪神電鉄だった。

 

1899年(明治32年)に設立されたその阪神電鉄の社長外山脩造は、電車のモーター

の開発者である三崎省三を専務に迎え、今後の電気鉄道発展の方策を探るために欧米に派

遣した。この三崎省三は19歳にしてアメリカにわたり、アメリカの学校で学び、電気鉄道

の研究をしていた人物であったが、彼はイギリスの海に面したリゾート地ブラックプール

やブライトンが大きく発展していて人を集め、アメリカのコニーアイランドでは、遊園地

や水族館、ピーチなどがあって、多くの観光客を引き付けていることに着目した。そして

アメリカでは野球やフットボールの試合に実に多くの観客が集まってくるのを目の当たり

にした。そして、社長にリゾート地開発を提言し、阪神間で適地を求めていた三崎省三が、

大阪湾の海岸まで続く枝川の廃川跡地を、阪神電鉄の用地として購入したのは,彼自身が

代表取締役5代目社長となったその年であった。

 

関西で初めて日米野球が行われたのは1910年(明治43年)、当時大学野球最強と

いわれていたシカゴ大学と早稲田大学の試合が香櫨園の急造の球場で開かれた。阪神

電車香櫨園駅には多くの観客が詰めかけて香櫨園への道は一杯になった。豊中で始まった

全国中等学校優勝野球大会は第3回大会から鳴尾球場に移るが、多くの観客をスタンドで

収容しきれなくなっていた。特に地元の甲陽中学が1923年(大正12年)に優勝した

ことから関西の中等学校野球人気はピークに達した。そのようなことから、阪神電鉄は

買い取っていた枝川のその支流の申川との分流点の廃川跡広場に大人数を収容できる

球場建設を決定した。中等学校野球大会とのタイアップを進めていた「大朝」(大阪朝

日新聞)からは世界的にも見劣りのしない本格的な球場建設の提案があったといわれ

ている。そして「大毎」(大阪毎日新聞)も大会とのタイアップをすることになった。

 

日本初の本格的な野球場を建設した阪神電鉄であったが、社長の三崎省三は総合的リゾ

ート地開発の信念を変えなかった。特に壮大な総合スポーツ地開発に夢を抱き、力を

注いだ。球場という言葉を使わず、「甲子園大運動場」と命名し、外野席の前を直線に

広げてフットボールにも使えるようにした。そして中等学校野球と共に、近畿地区の小

学校などに陸上競技の大会の場を提供した。1929年にアルプススタンドを建設したが、

その1塁側下に室内運動場を作り。バレーボール・柔道などの競技を出来るようにし、

3塁側下には長さ25㍍の室内温水プールを完成させた。

 

枝川の流れのその上流だった上甲子園に西の帝国ホテルといわれた「甲子園ホテル」を

作ったのが1930年、甲子園浜には海水浴場施設を作り、阪神甲子園駅から甲子園線の

電車を通し、甲子園浜に近い沿線に2万人の観客を収容できる、総合陸上大競技場「南運

動場」を作った。そこには500㍍トラックがあり、フットボール・ラグビーなども行

われた。その近くに飛び込みプールもある浜甲子園プールを作り、甲子園線の甲子園浜駅の

前から東南の海岸部一帯に「甲子園娯楽場」も作って「浜甲子園阪神パーク」といわれる

ようになった。東洋一を誇る水族館には鯨8頭を飼育する巨大な鯨池までできた。放し飼

いの動物園はじめ、電気自動車の乗り物、ボート池、映画館、大浴場などもあつた。

さらに驚くのは球場の南側一帯にメインコート、クラブハウスの他、テニスコート

103面を持つ広大な国際テニス場を作ったことである。そして、その1937年には、

球場のすぐ南西に「甲子園水上競技場」として正式な国際大会の開ける観客席と50㍍

飛び込み専用プールが出来上がっていた。そして、1936年にはベルリンでオリン

ピックが開かれて、次の1940年には東京で開かれることが決定していた(戦争で

中止となった)。が、「甲子園だけでも、充分オリンピックが開催できるぞ¦¦」という

人がいたほど、阪神電鉄一社で、すごいスポーツの王国を作り上げていたのは、

本当に驚くべきことであった。

 

私は1931年この甲子園の直ぐ近くの今津の町で生まれ育った。幼いころから今津の

浜に続く、甲子園浜海水浴場にはよく両親や親類に連れて行ってもらっていた。そして

初めて鯨を見たのも、100羽もいる「ペンギンの海」を見たのも、当時の有名な子役

「テンプルちゃん」の映画を見たのも、「浜甲子園阪神パーク」であった。そして、

「われは官軍、わが敵は¦¦」の抜刀隊行進曲が鳴り響く「南運動場」では、秋田工業

・旅順高校(満洲)・京城師範(朝鮮)などの選手が行進して、ラグビーの試合を初めて

見た記憶が残っている。

 

家が甲子園に近かった関係で大阪に住む従兄(母の姉の息子)たちが、よく遊びに来て

私を甲子園球場に連れ出した。当時の中等学校野球大会では海草中学・明石中学・中京

商業など野球有名校の名前を憶えている。どこの学校の試合だったかはわからないが、

夏の暑い日、早稲田大学の角帽をかぶった従兄と小学生の私が球場の外野席に並んで

「かちわり氷」を口に入れたり頭にのせて観戦して、その後で球場で食べたカレーが

辛く口がしびれたのも記憶に残っている。

 

甲子園球場は野球試合以外にも様々な催しに使われてきた。その中で強い印象に

残っているのが、野外映画大会だった。球場の真ん中に大スクリーンを設置して、

夏場の夕方から行われていた。大スクリーンは鉄骨で頑丈に作られ高さ20㍍幅

30㍍位で、普通は球場の外に保管されていたが、映画の行われるときはレフト側外

野席とアルプス席の間の通路からグランド中央まで特設レールが引かれ、人力で運ばれ

ていた。私の記憶にある映画の題名は「残菊物語」。歌舞伎役者の悲恋の話は当時の

私にはさっぱりわからなかった。「指導物語」は国鉄老機関士が若い陸軍鉄道兵の機関

車運転を指導する、心の交流を描いたものでこれには感動した。ワイズミュラーの出る

ターザン映画もあった。1939年(昭和14年)には当時純国産の飛行機で世界

一周の記録を作った日本号の祝賀大会を球場でみた。外野席に向けた舞台に並んだ

搭乗員たちが話をして、音楽が演奏され、四谷文子などの歌手が「6万㌔の空を飛ぶ、

空を飛ぶ」という「世界一周大飛行の歌」を熱唱したのを覚えている。スキーのジャン

プ大会もアルプス席にやぐらを組みスロープを作り妙高山から雪を運び、1938年・

39年2回にわたり行われた。ジャンプを私は見ていないが、球場の近くに住んでいた

小学校・中学校を通じての友人黒岩君によると、今と違って翔ぶという感じではなく、

すぐに着地して迫力はなかったということである。また彼によると球場で「鷹狩り」

の実演があり、鳩や兎を球場に放ち、それを鷹匠が放つ鷹が追って捕捉するのが、

公開されていたという。

 

1944年(昭和19年)私は甲子園球場の近くにある甲陽中学に入学した。大戦の戦

況は大変厳しくなっていて、日本海軍は初戦に活躍した戦闘機「ゼロ戦」に変えて、武庫

川の河口西にある川西航空機工場の作る「紫電改」を主力にするように動き始めた。すると

甲子園の東南部は急激に軍需地帯となっていった。工場に続いて飛行場が作られていたの

である。たちまちあの500㍍トラックの南運動場も、夢のような、東洋一の浜甲子園阪神

パークも、鳴尾の競馬場も打ち壊されて、軍用飛行場の滑走路になってしまった。全国中等

学校野球大会は中止となって、錬成大会という名前で1943年に最後の大会を開き

それで終わっていた。プロ野球も1944年を最後にリーグ戦が中止となった。そして、

球場も甲陽中学にも陸軍の舟艇情報を統括する暁部隊が駐屯してきて、甲子園は軍隊の街

となってしまった。

 

1945年になると、学徒動員となり私は阪神電鉄から社員証(国鉄・私鉄を通じて乗車

できた)をもらい、尼崎工場で電工作業のほか、空襲の後始末の手伝いにも従事した。阪神

電鉄とは川西航空機工場に人を送る軍需路線武庫川線建設に甲陽中学生が従事して以来の縁

であった。そして、1945年8月6日未明の西宮空襲の後の甲子園球場で、グランド一面に

ハリネズミの背中のように油脂焼夷弾が突き刺さっている風景を目撃した。この空襲では今

津の家が焼かれ、逃げることができた一家5人が千里山の親類の家に寄寓したその翌日のこと

だったと思う。この風景に驚いたのは私だけでなく当時の甲子園球場長の石田さんは『甲子園

の回想』で「歩兵の大部隊が筒先を揃えて行進するかのようであった」と書かれている。また

球場内の作業場に動員中だった当時甲陽中学4年の望月さんは「林のような密度で突き刺さって

いた」と手記に書いている。銀傘もなく座席もなく、荒廃の極みとなった球場の無惨な姿だった。

1945年8月15日敗戦。甲子園球場はその周辺の施設を含めてアメリカ軍に占領されキャ

ンプ地となった。そして、昼間から派手な原色の服を着た日本人の女性たちが球場の周りを

うろつくようになった。「もうここで、野球大会などできない。あの若き血に燃えたスポーツ

王国甲子園は過去のはかない夢だったのか」と私は思った。飛行場のあった甲子園は厚木・岩国・

横須賀などと同じように日米行政協定の永久借用基地になる恐れもあった。1946年4月

になって、甲陽中学野球部のキャプテンになっていたあの望月さんが、アメリカの兵士たちと

甲子園のグランドで試合をしたといっているという話が伝わってきた。甲陽中学生対兵士の

試合は大きく兵士に負けたが、甲子園球場のグランドは綺麗に見違えるように整備されていた

ということであった。私は「甲子園でいつか大会が開ける日が来るかもしれない」と思うよう

になった。

 

1947年中等学校野球の全国選手権大会に甲子園球場が使えるようになった。そして

1948年には学制改革により「全国高等学校野球選手権大会」に改称され、大会歌「栄冠

は君に輝く」が制定された。この年、私は球場でこの歌が曲にのって流れたときは、「甲子園

に平和が戻ってきた」という思いが高まって目に涙を浮かべていた。

 

2010年(平成22年)8月15日。私はNHKの「戦跡は語るー戦時下の甲子園

知られざる歴史―」の取材撮影を受けることになり、高校野球大会の球場の3塁側アルプス

スタンドに記者と共に入った。終戦記念日のこの日、正午に1分間の黙祷がある。明徳

義塾対興南の試合の前であった。選手は一列に並び、満員の観客は一斉に立ち上がって

目をつぶった。帽子を胸に当てて立つ私をカメラマンが撮影していた。

試合が始まり記者がマイクを出して「戦時中の甲子園と比べて、今どう思われますか」

と聞いてきた。「あの空襲の後の球場にはグランド一杯に油脂焼夷弾が突き刺さって

いました。銀傘もなくまるで廃墟でした。野球はもうできないと思いました。今、選手

も懸命に野球をやり、大勢の観客もみんな懸命に応援している。これは素晴らしいこと

です。大会そのものも素晴らしい。しかしこれは平和だからできるのです。私は大会に

来て本当に心から平和の喜びを感じるのです。このことを知ってほしいと思っています」

と私は答えた。この私の姿と声は2010年8月20日、NHKニユースウオッチ9で

全国に放映された。

 

その後、コロナ禍を経た今も、私は甲子園球場で湧き上がる大歓声はすべて、平和で

あることの「歓喜の叫び」だと思っている。

 

(2023年6月1日)