創立150周年の母校小学校の平和学習

 

 創立150周年の母校小学校の平和学習で、戦時体験を語る。

 

酒造の郷、西宮の今津に、初めて小学校が誕生したのは、明治6年のことである。当

初は今津村常源寺を仮校舎として開校したが、明治15年校舎として「六角堂」

が建てられた。洋風の斬新な建物で、当時の人を驚かせた有名な建物だった。

日本で現存する小学校の木造洋風建築としては松本の開智小学校に次いで古く、

価値ある建造物として、敷地の東南の表通りに面して移築されて今でも建って

いる。

 

私がこの学校を卒業したのは先の大戦中の昭和19年3月のことである。

そして、甲陽中学に入り、昭和20年8月5日の夜~6日未明の西宮の空

襲を体験して8月15日の終戦を迎えている。そんな私にこの今津小学校

から、6年生の平和学習をするので、西宮の空襲などの戦時体験を語って

ほしいとの依頼があった。

 

同じ西宮シルバー人材センター会員で今津の地域学習推進員の青山さんが

今年の3月に、私の空襲の体験を「西宮今津での戦災を語る」というDVDに

撮影してくれていて、これが今、YOUTUBEにも入っているが、その青山さん

が私を小学校に紹介したのであった。6年生は70名。語る時間は約1時間。

あと10分は質疑応答の時間ということだった。私は最初の30分はこの私が

空襲体験を語っているDVDを見てもらい、5分の休憩後、さらに次の30

分で「日中戦争・太平洋戦争下の小学生・中学生のときの体験を語る」

ことにした。

 

7月14日金曜日、私は久しぶりに今津小学校を訪れた。私の時代は二宮

金次郎の像のある庭があり、その中に六角堂があり、木造の校舎が並び、

西側にだけ鉄筋の3階建て校舎があったのだが、今、六角堂は表に出て、

庭はなく全部、鉄筋の校舎となり水泳プールまで備えている。私はまず校

長室に入って、校長先生、コミスク(地域学校協働活動協議会)担当の先

生と挨拶を交わし、私の在校中は戦争の時代であったので、その話をする

ことを言った。校長先生は、2日に創立記念祝賀式をした時に発行した

「創立150周年記念誌」を渡してくれた。

 

東館2階にある集会室には、すでに6年生の生徒達が集まって長机の前

に座っていた。「こんにちは」と挨拶すると元気な声で「こんにちは」の

大勢の声が返ってきた。「これはいい感じだ。話を真剣に聞いてくれ

そうだ」と私は思った。「私は今、91歳ですが、この今津小学校の卒

業生です」というと、「おうー」という歓声のようなものが起こった。

そして代表の男女の生徒が私の前まできて「今日はよろしくお願いし

ます」と挨拶をしてくれた。

 

6年生担当の先生により、大きな画面にDVD映写がはじまった。これは

空襲当日、中学2年の私が打ち上げ花火のように何重にも火花が落下して

くる焼夷弾の中を、走って逃げている様子を語ったもので、今年の3月、

青山さんが西宮市の地域学習推進用に撮影したもので、場所は、香櫨園

の西宮平和資料館の中で私が一人語っている。そして空襲の翌日、甲子園

球場のグランドに、無数の焼夷弾が突き刺さっている様子も、また球場で中

学生たちが不発弾のネジをこじ開け信管を抜き、ナパームを取り出して

いたことも語っていた。そして、今、ウクライナの戦争で使われ、さらに

アメリカが送ろうとしている爆弾の中にクラスター弾があるが、西宮の爆

撃でも使われたのは一つの親爆弾のなかに38個の子爆弾を収束された

クラスター爆弾であったこと。クラスター爆弾は、広範囲の無差別爆撃

となり、不発弾も多く、いつまでも危険を抱えるので、いまでは、国際

的にも使用を禁止する条約が作られている。このことを知っておいて

ほしい。と、語って次の話に移った。

 

私は「日中戦争・太平洋戦争下の小学生・中学生のときの体験を語る」

では次のように語り始めた。

 

「西宮の空襲は戦争が終わる昭和20年(1945年)8月15日の10日

前でした。しかし日本の戦争は太平洋戦争の起る前から、支那事変(日中戦

争)・満州事変と、私の生まれた年、昭和6年(1931年)から始まって

15年に及び続いていたのでした。満洲事変は奉天郊外の柳条湖で南満州

鉄道の線路の爆破に端を発し、当時日本の権益下にあった鉄道を守備する

関東軍が満洲全土を占領した戦争です。関東軍は清朝最後の皇帝であった

溥儀を新皇帝に迎え満州国の建国を宣言させました。ところが、昭和8年

(1933年)43カ国が集まった国際連盟臨時総会では日本は満洲から軍

隊を撤退するべきだという案が全面的に可決され、日本は国際連盟を脱退

するのです。そして、日本は満州国の建国を大いに祝福し、『五族(日・漢

・鮮・蒙・満)協和』『王道楽土』を建国スローガンとして、アジアは満洲

から開けてゆくとしていました。

私は昭和12年(1937年)小学校と続いた場所にあった今津幼稚園に

入ったのですが、その幼稚園の学芸会でも満州国を祝福しアジアの花園を

守るのは、日本・ドイツ・イタリアだという劇をやっていました。私は

そのとき、イタリアの旗をもつムッソリーニになって舞台に出ました。

その年の7月7日、盧溝橋で日本軍に銃弾が飛んできたことが原因で支那

事変が勃発、戦火は上海に移り、さらに南京の攻防戦へと広がってゆき

ました。12月12日、南京陥落の祝賀の提灯行列は西宮の六湛寺町一帯

でも行われました。中華国民政府は首都を重慶に移しました。

 

翌年、今津小学校に入学しました。昭和13年(1938年)4月のこと

です。この年から日本軍の重慶への爆撃が始まりました。

『肩を並べて兄さんと、今日も学校に行けるのは、兵隊さんのおかげです。

兵隊さんよありがとう』と、歌っていました。昭和14年(1939

年)小学2年生になりました。その年ノモンハン事変が起こり、蒙古

とソ連の国境で日本軍と、ソ連の戦車隊が、戦いました。この戦いでは

日本の航空隊には『しめたぞ、敵の戦車群、待てと矢を射る急降下、

煙る火だるま後にして、悠々帰る飛行基地、涙莞爾と部隊長』とみんな

で歌っていたのですが、圧倒的なソ連の戦車と火砲の前に日本軍は敗

退し、すぐに停戦を結びました。このころ今津の町からも、召集令状

(赤紙)により出征する人が多くなりました。福應神社に参拝し、久

寿川の駅まで、皆でのぼりや旗をもって『いざ征け、つわもの、日本男

児』の歌で送り出しました。昭和15年(1940年)小学3年生に

なりました。西宮北口の西宮球場にいるとき、場内放送があり『日本

軍はフランス・インドシナに本日進駐しました』と言葉が流れ、仏

印(ベトナム)進駐を知りました。欧州でドイツがフランスを占領

していたことから出来たことですが、この進駐はアメリカを大きく

刺激し、日米戦争の火種の一つになりました。仏印はゴムの産地と

して、当時小学生にはゴムのボールが全員に配られました。小学校

の同級生のお父さんが戦死して、その遺骨が帰ってくるのを、クラス

全員でその家の前に並んで迎えたことがありました。同級生が白布の

遺骨を抱いて歩き、楽隊が葬送曲を奏でるというものでしたが、戦争

が進み、戦死者が多くなると、クラス全員で迎えることはなくなり

ました。食料と日常品が切符制度になり、隣組制度が強化され、隣

組単位で配給されるようになり『とんとんとんからりと隣組』と

いう歌を歌っていました。昭和16年(1941年)国学4年生

になりました。この4月1日から小学校は国民学校となりました。

12月8日、日本はアメリカ・イギリスと戦闘状態に入りました。

太平洋戦争の勃発です。ラジオは戦意高揚の軍歌を次々と流しました

『進め、一億火の玉だ。一人一人が決死隊……、やるぞ やるぞ                                                                                       …

がんとやるぞ』確かに緒戦の戦果、真珠湾攻撃・香港占領・コタ

バル上陸・シンガポール占領(昭和17年2月)と日本国内は沸き

立っていました。敵性用語を使うなということで、ドレミファソラシ

ドはハニホヘトイロハに、セーフはヨシ、アウトはダメに変わり

ました。毎朝運動場に全生徒が集まり朝礼が行われるようになり

ました。その最初に東を向いて皇居遥拝が行われていました。

 

昭和17年(1942年)国学5年生になりました。この年の4

月に初めてドウリットル爆撃隊による日本本土の爆撃がありました。

この爆撃は空母から16機が発艦して空母はすぐに引き返し、

16機は日本を爆撃後、大陸に向かいました。日本の占領地に不

時着した爆撃機の乗組員は捕虜になりました。医務室の看護師の

先生が従軍看護婦として、戦地に向かわれることになり、朝礼で

挨拶がありました。紺色の日本赤十字救護看護婦1種の制服、正

帽の凛とした姿は,恰好いいと思いました。昭和18年(1943年)

国学6年生になりました。アメリカの攻勢が強くなり、5月アッツ島、

11月タラワマキン島の日本軍は全滅玉砕しました。連合艦隊司令長

官山本五十六元帥が飛行機上で戦死、国葬になりました。学徒出陣の壮

行会が明治神宮競技場で開かれ実況放送されました。『花もつぼみの若櫻,

五尺の命ひっさげて、国の大事に殉ずるは、われら学徒の面目ぞ、

ああ紅の血は燃ゆる』学徒動員の歌を歌っていました。

 

昭和19年(1944年)甲子園の甲陽中学1年生になりました。中等

学校令により当時の中学校は、どの学校にも配属将校がいて、軍事教練

を行い、全く軍隊の予備校でした。4月にサイバン島が陥落し、日本本

土空襲の基地が出来上がりました。10月に陸軍の舟艇本部の暁部隊が

甲陽中学に駐屯して、学校は兵営になりました。昭和20年(1945

年)中学2年生になり、学徒動員により阪神電鉄の電工小隊に入り、空

襲の後始末の手伝いもすることになりました。この年の3月からは大都

市無差別爆撃が始まり、5月以降は日本国中の地方都市へと広がりました。

6月。沖縄全土が完全に占領されました。8月には西宮の住宅密集地爆撃、

広島原爆投下、ソ連参戦で満洲・樺太・千島に攻め込まれ、長崎原爆投

下と続きました。そして8月15日、終戦詔勅放送となりましたが、空

襲は前日14日まで激しく続いていました」

 

私はここまで、一気に語った。最初のDVDで「焼夷弾」とはなんや、と

隣にささやいていた生徒もいたが、みんな真剣な目を私に向けて聞いて

いてくれたようであった。最後に私は平成22年(2010年)NHK

ニユースウオッチ9「戦時下の甲子園知られざる歴史」に出て高校野球

大会中の甲子園球場で語った話をして「熱い声援を送る満員の観客。

栄冠を目指して一心に白球を追う懸命な選手たち、素晴らしい大会です。

そして、夢のスポーツの王国の施設が、たちまち壊され海軍の飛行場

となり、暁部隊が駐屯した甲子園。グランドに突き刺さった無数のクラ

スター焼夷弾をみて、進駐軍に占領され米軍基地になりかけ、もう野

球はできないと思った甲子園。を、知る私は今、平和の喜びを痛感して

います。素晴らしいこの大会は平和であるからこそできることを知って

ほしいです」とそのとき語った言葉を再び繰り返して結びとした。

 

「戦時中食べものは」「服装は」「終戦で感じたことは」「戦争をどう思うか」

との質問があった。米は2合5勺と決められたが、配給はなくなり、海宝麺

・満洲大豆などに代わり,さつまいもを植えた。女はモンペ、男は国民服。

中学生はゲートルを巻いた。夜電気がつけられることが、終戦で一番

うれしかった。戦争については、多くの人が殺され、勝つても負けても

悲惨な結果となる側面が強い。だからこそ、平和のための努力を続け平

和の喜びを知ることが大切だと、質問の答えをした。

 

最後に代表の男女の生徒が、再び私の前に来て「貴重なお話を聞

かせていただき、平和が大切なことがよくわかりました。有難う

ございました」と、丁寧にうれしい挨拶をしてくれた。

 

(2023年7月25日)