山のエッセー

  ー黒部の山賊の地の思いでー

 

    黒部の山賊の地の思いで

 

去年、2021年12月28日。私はNHK・BSTVの『〝黒部の山賊〟

北アルプス秘境の山小屋に生きる』という番組に目が留まって、画面に

引き込まれていった。番組は、麓から1泊2日はかかる北アルプスの最奥

部の黒部源流。かつて山賊が棲んだという伝説の残る秘境の山小屋を、亡き

父から受け継ぎ生きる兄弟の、廃道を復活させようする新たな試みや奮

闘を描いていた。

 

この亡き父とは伊藤正一さんで、2016年に93歳で亡くなっているが、

先の大戦中は陸軍航空研究所で航空機のジェットエンジンの開発に携わって

いたという人である。終戦を機に北アルプス最奥の地、黒部に踏み入り、

山賊が棲むという当時の三俣蓮華小屋(今は改築されて三俣山荘となって

いる)を買い取り、山賊と呼ばれた山の男たちと、ともに黒部に生き、

黒部の自然を見守り続けてきた。そして、伊藤正一さんは水晶小屋、雲ノ

平山荘などの小屋主にもなる。1964年、黒部源流で山の男たちと半生

を過ごした生活記録『黒部の山賊』を発売した。この本は登山家たちの間

で名著として有名になった。

 

今は長男の伊藤圭さんが三俣山荘と水晶小屋を受け継ぎ、家族で経営し、

次男の二朗さんが雲ノ平山荘を引き継いで、ともに亡き正一さんの思い

を継いで、アルプスの秘境といわれる黒部源流地帯で、生き抜くことを

選んでいる。

 

私は1959年、黒部の源流地帯最後の秘境といわれた雲ノ平を目指して、

テントを担いで今は亡き弟と二人で山旅をしたことがある。番組を見て

『黒部の山賊』を早速電子書籍で購入し、読み進みながら、63年前の

私と弟の山旅の色々な場面を思い出していった。

 

『黒部の山賊』は黒部の源流とはどんなところか、という記述から始まる。

信州(長野)飛騨(岐阜)越中(富山)の三国の境になっているのが三俣

蓮華岳(2841㍍)であるが、この山を中心に3つの山稜がある。一つは

白馬連峰から針ノ木、烏帽子と連なる山稜、二つめは立山、薬師を通る山稜、

三つめは穂高から槍を経て通る山陵、三俣蓮華岳はこれらの山稜の接合点

にあたり、周辺は北アルプスの奥地であり、心臓部なのである。

 

私はそれまで白馬、立山、穂高、槍へは登ったことはあったが、そこから

さらに奥に足を延ばして北アルプスの心臓部までいったことがなかった

ので、27歳のとき、8月14日から夏の休暇を取って飛騨側から三俣

蓮華岳を経て雲ノ平を目指した山行であった。弟はまだ大学生だったと思う。

 

『黒部の山賊』によれば、伊藤正一さんが、戦後すぐに山小屋の権利を

買い取ったものの、その山小屋には山賊が居座っていた。彼らはたくさん

の手下を従え登山者や猟師から金品や獲物を巻き上げ、黒部の行方不明者

はすべて彼らに殺された、当時そんな噂が流れていた。正一さんは何も知

らない登山者のふりをして、自分の買い取った山小屋を訪れ、宿泊を山賊

に乞うのである。壁にはモーゼル拳銃や猟銃、獣の皮、岩魚の燻製がかけて

あり、特に不気味なのが兎の丸ごとの燻製だった。とはいえ山賊の頭目は

物腰も柔らかく、山に白熊や大木ほどの大蛇がいた話、狸に化かされた話

などを面白おかしく話すばかり。正一さんは短刀を忍ばせ、いざとなったら

相手を刺す覚悟で山小屋の一晩を明かしたが、結局何事もなく朝を迎える。

そして自分の所有である山小屋の宿泊代を値切って支払う。山賊も「山を

好きな者は助け合わなければいけない」と、値切りに応じる。

 

ところが下山後、この話が漏れて新聞記事になってしまう。小屋に居座る

山賊たちに武装して山狩りをしなければならない、などという話も出るの

だが、結局、小屋を買い取っている正一さんが一人で山賊と交渉する、と

いうことになった。そして、実際に山賊と交渉をしたところ、彼らの身元

保証人になるような格好となってしまった。そして、やがて、正一さんは

山賊たちと一緒に住んで、協力して黒部の登山ルートと山小屋を支える

役割を果たすようになるのである。

 

山賊の頭目は、黒部の主といわれた名猟師、遠山品衛門の実子、富士弥。

仲間はその従兄弟で岩魚釣りの天才・林平や、常人なら4日かかる山道を、

軽く1日で歩ける鬼窪、熊打ち名人の倉繁など、超人的な体力を持つ個性

派ぞろいだった。彼らは凶悪な犯罪者などではない。黒部源流はもともと

彼らの生活の場であったのだ。険しい高山地帯もそんな彼らにとっては

庭のようなもので、熊を打ち、岩魚を釣り、ウサギやカモシカを捕らえ、

厳しくもあるが、同時に豊かな山での生活をしている男たちだったのだ。

 

私と弟が黒部の源流を目指した時は戦後14年で、もはや山賊が出ると

いう話は聞いたことはなかった。しかし当時、改築前の三俣蓮華小屋を、

正一さん始めこれらの山男たちが健在で小屋を支えていた時であったこと

は間違いない。そして雲ノ平山荘はまだできてはいなかった。私と弟は朝に

飛騨側にある新穂高温泉に着き、真北に左俣川に沿って小池新道を登った。

わさび平、鏡平を経て弓折岳のへの乗越を過ぎて、槍から双六岳に通じる

稜線に出る手前の、低木の林でテントを張った。ところが夕方になって、

急に風雨が強く吹き付け、テントが大きく揺れだした。静岡に上陸した昭

和34年の台風7号、ジョージア台風が北アルプスを襲ったのだ。強風は林

と呼応して、大きなうなり声をあげ、雨水は滝のようにテントに降りかかった。

このままではテントが吹き飛んでしまう。私と弟は手分けして、2本のテン

トの支柱にしがみついて、支えていたが、それでも、テントは強風に押され、

倒れそうになった。「双六小屋に逃げよう」私は弟に声をかけた。防水した

袋に入った下着をリックにつめ、テントは飛ばないように支柱を付近の木に

括り付けて、暴風雨の中、弟と二人、夜の山稜をしばらく走って、双六小

屋に駆け込んだ。太い木組みの頑丈な建物でホッとした。濡れた上着を絞り

部屋に入ると、数人の登山者がいた。台風下なのに、一人の女性が笛で

「もみの木の歌」を吹いていたのを覚えている。

 

『黒部の山賊』にはこの7号ジョージア台風で、荷物を小屋まで歩荷で担い

であげる基地であった山麓の湯俣への、森林鉄道の軌道がずたずたに切れて

しまったことが書かれている。また同じ年の9月26日の夕方から襲った

15号台風では、水晶小屋が跡形もなく吹き飛ばされてしまったことが記

され、昭和24年8月末から9月初めに襲来したキティ台風では、豪雨と

強風が続き、山崩れがあちこちに起こり、三俣蓮華小屋の後方の普段水が

流れていないところにも滝のように水が流れ、小屋が流されるかと思

われるほどの水の出方だった、と述べられている。正一さんは台風で

なくても、3000㍍級の高所では風速70㍍の風が吹くことがよくあり、

雨で身体が濡れて、真夏でも凍死する遭難者が多く出たことがあったと

語っている。私は本を読んで、あのとき双六小屋に弟と逃げ込むことが

できて本当によかったとしみじみ思った。

 

ジョージア台風が一過し、翌朝私と弟は、テントを張っていた場所に戻り、

濡れて倒れていたテントをたたみ、再び双六小屋を経て、双六岳東側の道

をたどり三俣蓮華岳に登った。北の鷲羽岳を背景に、真下に三俣蓮華小屋

が見えた。北北西に見える台地は目的の秘境雲ノ平と見当をつけた。

 

『黒部の山賊』で正一さんは雲ノ平について、次のように書いている。

 

「雲ノ平はほぼ4㌔四方の高原である。私は雲ノ平東南から入り、雪田を

通過してハイマツ林に出ると、その入口に形のいい池塘があり大きな岩が

あって、その岩から人間が手入れしたとしか思えない、大変姿のいいハイ

マツが生えていた。周りを見ると同じようなものがいくつも見える。私は

実に驚いた。人間が技術の粋を尽くして作ったとしか見えない風景が、

自然の中にあるのだ」

 

私と弟は広い雲ノ平のほぼ真ん中にテントを張った。台風通過後の秘境に

そそぐ太陽の光と風は、濡れたテントをたちまち乾かした。ここは平板な

溶岩の大地で、凹みには美しい形で透明な水をたたえた池塘が数多くでき、

青い空と雲を池面に映して、そのふちに高山植物が白い花を一杯に咲かせて

いた。自然が作り出した盆栽のようなハイマツは、日本庭園を思わせた。

この日は誰もおらず、来る人もなく、狭い流れから水を汲み、米を炊く

などして終日、天国のような北アルプスの秘境、63年前の雲ノ平を、

弟と二人だけで独占満喫して過ごした。

 

翌日は三俣蓮華小屋の前から伊藤新道を湯俣目指して下ることにした。

この道こそ『黒部の山賊』を書いた伊藤正一さんが、10年かけて山

男たちと一緒に開発に取り組み、1956年に完成した、赤沢、湯俣

川をつないで、黒部源流地帯から湯俣まで1日でいけるようになった

有名な道であった。が、1979年、湯俣川下流に髙瀬ダムが完成し、

地下水位が上昇して伊藤新道の通る谷の岩盤が緩み始め、5つあった

吊り橋が次々に崩落し、がけ崩れもあり通行は困難となった。今現在

はNHK番組の『〝黒部の山賊〟北アルプスの秘境の山小屋に生きる』

の放映のように、正一さんの長男の圭さん、次男の二朗さんが中心と

なって「伊藤新道再興プロジェクト」を立ち上げて、新道の復活を

進めている。

 

私と弟は当時完成して3年目だった新道を一気に下った。しかし下流の

湯俣の近くまで来ると、前々日のジョージア台風で小橋が落ちて進めな

かったり、森林鉄道の軌道が流されて散乱しているのを目撃したりした。

この日は小高い土手の上にテントを張った。弟は釣り道具を持ってきて

いて「岩魚を釣ってくる」といったが、私は「この川は硫黄含みの温泉が

湧いているので、魚はいない。やめとけ」といった。翌日、湯俣から葛

温泉まで歩いてバスに乗った。

 

80歳で膵臓ガンのため亡くなった弟の葬儀は、2019年6月13日、

東京の幡ヶ谷斎場で行われた。葬儀後の食事会で献杯の後、弟の妻から挨

拶話を依頼された私は、弟との北アルプス山稜での台風経験と秘境雲ノ平

を語った。弟の妻も子供も孫も親族も、また弟の勤めていた信託銀行の退

職者会の集まられた人たちも、初めて聞く話だったろう。こんなとき

しか語る機会はないと思った。語りながら、私の頭には〝天国〟雲ノ平の

風景が頭に一杯浮かんできていた。

 

(2022年2月10日)