「大東亜戦争」という呼称について思う

  「大東亜戦争」という呼称について思う

              

陸上自衛隊の部隊(第32普通  科連隊)が今年(2024年)4月5日,硫黄島であった

日米合同の戦没者追悼式を伝える投稿で「大東亜戦争最大の激戦地硫黄島」と記述したが、

「1945年までの戦争を『大東亜戦争』と呼んでよいのかどうか」「侵略戦争を正当化する

用語だ」などと議論を呼び、そして8日には投稿から「大東亜戦争」という言葉は削除された。

 

この議論の中で私が「おや」と注目したのは、ネットの意見の中に「これは陸上自衛隊だから

『大東亜戦争』を使ったのだろう、海上自衛隊ならば絶対に『太平洋戦争』を使ったはずだ」

というのがあったからである。勿論、旧日本陸軍・海軍と今の自衛隊は完全に別組織である。

しかし「先の戦争」での「戦没者追悼式」の原稿となると「先の戦争」の歴史認識の、

旧陸軍と旧海軍との異なった認識を引き継いでいることも、充分ありうると考えられる。

 

「大東亜戦争」というのは、1941年12月、アメリカ・イギリスとの開戦直後、当時

の東條英機内閣が閣議決定した呼称であった。が、この時海軍は「戦争の名称は『太平洋

戦争』とするべきだ」と主張した。「太平洋戦争」という言葉はすでに1925年(大正

14年)「日米未来戦記」などで使用されていたし、開戦後は太平洋が戦いの場になると

考えていたからである。しかし実際には、この時すでに陸軍を中心として中国大陸での戦争

は続いていた。そして、仏印(ベトナム)・ビルマ(ヤンマー)・フィリッピン・マレーシア・

インドネシアなどのアジアの中の、欧米による植民地支配の地域を開放し、アジアの国々

全体で「大東亜共栄圏」を設立して、アジアの自立を目指すのがこの戦争の目的であると

いう理念を掲げて、戦争の呼称は「大東亜戦争」とすることに正式決定したのであった。

しかしながら、敗戦により、日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)はその呼称の使

用を禁じ、「太平洋戦争」というアメリカ側の呼称が広がった。

 

この「大東亜共栄圏」は、明治維新以来のアジア主義・大アジア主義・汎(PAN)アジア

主義とつながる考え方の影響を受けて唱えられたものである。いずれも「アジア諸民族の団

結」と「欧米列強のアジア侵略に対する対抗」の二つが、主義共通の基本的な考え方であった。

1887年(明治20年)玄洋社を興し大アジア主義を唱えた頭山満は、アジア主義を学ぶ

ため日本に留学していた朝鮮の金玉均、辛亥革命をおこし中華民国を建ちあげた孫文、過激

なインド独立運動をして日本に逃れてきたラス・ビハリ・ボースなどの彼らの考えに共鳴し、

強く支援していた。この流れは北一輝・石原莞爾・そして国会議員だった鹿島守之助等による

「汎アジア主義」につながるのである。「汎アジア主義」はヨーロッパの「汎欧州主義」に

対して、つけられた名称である。が、「汎欧州主義」は欧州連合の父と言われるハンガリー

のリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー伯爵が提唱したもので、欧州の各国間の戦争を

阻止するには、各国間で話し合い、関税や通貨、出入国、労働許可、福祉、防衛などで共通の

ルールを設けて欧州の結束を図るという考え方で、現在のEU(欧州連合)の結成に実際に

つながった。元外交官だった鹿島守之助によると、日本人のクーデンホーフ光子を母に持つ伯爵

は「汎欧州主義」と同じように「汎アジア主義」を考えてそして、「大東亜共栄圏」の建設の実

現を熱心に説いていたといわれている。伯爵は「大東亜共栄圏」にも「汎欧州」と同じような

アジア諸民族団結の理想の形を想い描いていたのである。

 

私が生まれた1931年(昭和6年)満州事変が起こり、翌年日本軍は中国東北部をほぼ制圧し、

清の最後の皇帝溥儀を皇帝に据えて満州国を作り上げた。これを中華民国政府が国際連盟に「侵略

されている」と提訴した。国際連盟は満州国を国として認めず、満州から日本軍は撤退するよう決

議した。同意できない日本は国際連盟を脱退して、満州国は独立国であり、漢人・満州人・朝鮮人・

モンゴル人。日本人の「五族協和」して「王道楽土」を作り上げようとしている国だ、というス

ローガンを打ち出していた。

 

1937年(昭和12年)私が入った西宮市の今津幼稚園でも、学芸会ではアジアの楽園を謳い

あげる劇が園児により演じられ、私も出演した。この年、支那事変が起こった。

  

日本さくら、満州は蘭よ

支那は牡丹の花盛り

花の中から朝日が昇る

アジアよいとこ、楽しいところ

 

と、歌を私は懸命に唄っていた。

 

小学校で、本が読めるようになると、アジアが欧米勢力から独立し拓けてゆく物語が当時人気を独占し、

夢中に読むようになった。山中峰太郎「亜細亜の曙」(アジアの解放の使命を帯びて、南方に向かう、

日東の剣俠児本郷義昭陸軍少佐。印度の王子ルイカールを援け、西欧の覇権に挑む、戦前の青少年の

胸を焦がした軍事冒険小説)などは私だけでなく当時の青少年の多くの血を沸かせ、肉を踊らせた。

作者の山中峰太郎自身、陸軍大学を中退して、当時日本への留学生と共に辛亥革命を支援する大アジア

主義の活動家でもあった。

 

軍歌で藤原義江が作曲して歌った「亜細亜行進曲」も広く歌われ私も歌っていた。

  

有色の屈辱のもと

  喘ぐもの亜細亜、亜細亜

  奪はわれし吾らが亜細亜

 

歌は「白人のみ栄えんがため奪われた亜細亜」と続き「滅びゆく亜細亜を救えるのは今や日本のみ」と

歌われていた。

 

また1940年(昭和15年)大阪毎日新聞は陸軍、海軍、文部省のバックアップを経て興亜行進曲を

全国に広めた。公募した歌詞は山梨県の25歳の女性「今沢ふきこ」が選ばれ、曲は藤原義江のピアノ伴奏

をしていた福井文彦が選ばれた。興亜はアジアを盛り立てて興すという意味である。

  

いざ諸共に、うち建てん

  永久(とわ)の栄の,大アジア

  かわらぬ盟(ちか)ひ、かんばしく

  興亜の実り、豊(ゆた)けくも

  世界に示せ、この偉業

 

このような歌の曲も歌詞も、私は今でも、覚えていて無意識に歌っていることがある。

 

1943年(昭和18年)11月、アメリカ・イギリスとの戦争中、東京で大東亜会議が開かれた。

この時点で、日本は東アジアの大半(モンゴル・満州・中国大陸中心部)及び東南アジアの欧米の植

民地(マレーシア・シンガポール・インドネシア・フィリッピン・ビルマ(ヤンマー)仏印(ベトナム)

を占領し軍政をおこない、欧米の侵略からは解放していたが、アメリカ・イギリス軍の強力な反攻がすで

に始まっていて、軍政がどこまで続けられるか、わからなくなっていた。それでも大東亜会議には、

中華民国(汪兆銘政権)の汪兆銘国民政府主席。満州国の張景恵国務総理大臣。フィリッピンのホセ・

ラウレル大統領。ビルマ国のパーモウ内閣総理大臣。タイ国ワンワイタヤーコーン親王(首相代理)。

インドの亡命政権である自由インドのチャンドラ・ポーズ首班が参加して、帝国議会議事堂で行われた。

晩餐会では女優の高峰三枝子が「湖畔の宿」を歌唱した。

 

これは大東亜共栄圏の最初にして最後になる、ただ1回の会合であった。そしてこの会合をピーク

として以後、日本は追い詰められて、ゆくのである。戦争の呼称を大東亜戦争と呼ばれるのは、本当

はここまでだったのである。

 

1944年(昭和19年)インパール作戦撤退。ビルマの日本の地上部隊総数30万3千人、そのうち

生還者11万8千人。サイパン島陥落。日本軍守備隊は2万7千人ほぼ全滅。住民は1万人が戦死。

1945年(昭和20年)硫黄島玉砕者2万3千人。アメリカ軍死傷者2万4千人。そして、沖縄戦が終わった。

日本側軍人軍属9万人、と一般人9万2千人が戦死。アメリカ軍1万1千人が戦死。3月以降日本の本土は

連日空襲にさらされていた。8月6日広島・9日長崎に原子爆弾投下。8月8日ソ連参戦。と続き、完全に

制海権・制空権はすでに日本にはなく「太平洋玉砕戦争」となってしまっていた。8月15日にポッダム宣言

受諾を、天皇が全国に発表した。しかしながら。日本の敗戦をきっかけとして、アジア各地で独立の機運が

巻き起こった。朝鮮は朝鮮戦争を経て南北に分かれ、中国は内戦を経て中華人民共和国と台湾の中華民国とが

存在する。フィリッピン・マレーシア・ビルマ・ベトナム・インドは独立した。インドネシアはオランダと独立

戦争を戦い、1949年まで、日本人兵士約3千人が独立戦争に参加、約1千人が独立戦争で死亡、約1千人が

日本に帰国、約1千人がそのまま現地に残留して、現地人となった。

 

敗戦の日から長い年月が流れた。2015年(平成27年)私は大阪朝日カルチャーセンターで、エッセー

教室の会員になっていた。講師の大森亮尚先生から、「会員の多くの方は、戦時中や戦後の辛い日々をくぐり

ぬけてこられた方が多く、その若き日の体験を時折、エッセーで語ってくれることがあった」として、今こそ

それを「戦争」という倉に収納して、一つのけじめをつけてはどうか」と語られた。みんな賛成して一冊の

の本を出版することにした。ところが「戦争」の呼称をどう表現するか、を決めねばならない。「大東亜戦争」

「太平洋戦争」「アジア・太平洋戦争」「第2次世界大戦」「15年戦争」など色々あった。

 

その色々ある呼称はイデオロギー的色彩を帯びる傾向となっており、全般的に、戦争を正当化・肯定する人々は

「大東亜戦争」。そして、アジア主義は省かれているが、中立的な「太平洋戦争」。そして、アジアに対する侵略戦争

とみなす人々は「15年戦争」及び「アジア・太平洋戦争」といった傾向が 見られた。

みんなで話をして結局、天皇が全国戦没者追悼会などで使っている「先の大戦」に決めた。この冊子「先の

大戦」は2015年(平成27年)12月8日(開戦の日)に出版された。冊子は125㌻。10名の投稿

があった。

 

小嶋 裕(昭和6年生まれ)4編

海部 多賀子(昭和6年生まれ)3編

西村 敦子(昭和6年生まれ)3編

谷川 初枝(昭和18年生まれ)1編

 清水 正子(昭和10年生まれ)3編

 釣瓶 美佐子(昭和7年生まれ)2編

 片岡 亜希子(昭和12年生まれ)4編

 高瀬 光一(昭和9年生まれ)4編

 久保 孝夫(昭和16年生まれ)3編

 大森 亮尚(昭和22年生まれ)1編

 

内容は、空襲・機銃掃射・学徒動員・疎開・生体解剖・混血児・海葬・大阪陸軍造兵廠と多岐にわたった。この中

でも清水正子さんは中国の天津から、高瀬光一さんは北朝鮮の平安南道安州郡からの引き上げの状況が書かれていた。

 

陸上自衛隊は硫黄島追悼文から「大東亜戦争」をすぐに削除したが、その前に「先の大戦」とはなにか。そして「戦争」

とはなにかをもっと深く議論してほしかった。と、私は思っている。

                                         (2024年5月29日)