黒富士北面、天神山のたたかい

        黒富士北面、天神山のたたかい



―全日本オリエンテーリング選手権大会、ミドル・ロングの2日間― 



全日本オリエンテーリング選手権大会は今年でロング大会は48回を数える。これは日

本にオリエンテーリングという競技が伝わってきて第1回大会が埼玉県飯能市で開催

されてから48年目にあたることを意味している。

 

富士山の北面の山梨県鳴沢村で行われる大会は今回2回目で、以前第6回大会を1980

年に鳴沢村のジラゴンノという場所で開かれたことがある。私は当時47歳で参加した。

クラスは男子43歳台Aクラスだった。3月の末にもかかわらず雪が降り、一面の雪の

中で穴や溝にはまり込み、動けなくなり苦戦をした思い出がある。今回の鳴沢村天神山は、

富士山の側火山で、平安時代にはまだ火山活動をしていたといわれ、それにより青木

ヶ原樹海の溶岩原や鳴沢氷穴が形成されたとされている。10月の初めにはまだ富士山

の山頂に白く輝く積雪が見られず、富士山全体が黒く見えるので、今の季節の富士山を

黒富士とした。10月の8日と9日にわたる大会であったが、天神山付近から8日は黒

富士がくっきりとよく見えたが、9日は白い雲に覆われて黒富士が姿を現すことは

なかった。

 

全日本大会は日本一を決める大会であると同時に10歳台から90歳台まで全年台の

ための大会でもある。私は今回、男子90歳台Aクラスに出るが、800人位の参加者

の内20歳台が最も多く、年代が進むにつれてすこしずつ少なくなり80歳台(男女)

は7名、85歳台(男女)は5名となり、90歳台は今のところ大阪オリエンテーリング

クラブの私と、多摩オリエンテーリングクラブの高橋厚さんの二人しか出場者はいない。

関西、関東の対決となる二人ではあるが、長年競技をしてきた生き残りどうし、サバイ

バルのたたかいともいえる。今回は、私にとって自分の身体の調子とのたたかいと考えて

いた。私は9月20日に心筋梗塞で入院し。2週間前の23日に退院したばかりだが、

それだけではなく歩くと腰痛が激しく、眼精疲労から目がだるく頭痛がすることがある

ような、状況にあったからである。私は血液サラサラ剤をはじめ、4種類の目薬、各種

のビタミン剤を、リュックにつめて参加することにした。そして大会の現地までいっても、

体調が悪ければ競技を棄権する場合もありうると覚悟を決めた。

 

今回の大会会場へのアクセスは、今岡山に住んでいる、大阪オリエンテーリングクラブ

の中原さん(男子60歳台Aクラス出場)が高速道路沿い近くの、鉄道の駅から私を自動

車に乗せてくれることになった。

 

大会前日の10月7日、大阪府三島郡島本町のJR島本駅西口で中原さんの車に乗り、

11時10分に出発した。島本町で昼食をとり、ガソリンを補給し大山崎ジャンク

ションから京滋バイバスを通り、名神高速道路に乗った。この日は朝から雨が降り続いて

いて東名高速道路に移った頃から、ますます激しくフロントガラスを雨粒がたたき始めた。

静岡サービスエリアで休憩の後、新富士インターチェンジから、一般道路に出て富士宮

の町を抜け白糸の滝の横を通り、静岡県から山梨県に入って、富士山の北側に回り込み

有名な氷穴などがある鳴沢村に入った。宿泊する民宿宿「鳴沢荘」に着いたのは16時

40分だった。

 

60歳ぐらいのおやじが一人でやっている民宿で、明日全国から集まる大会が開かれる

というのに、ここに宿泊したのは中原さんと私の二人だけだった。朝晩2食付きで一泊

6500円、安いがトイレは1階に一か所しかなく、2階の部屋から急な階段の上り下り

をしなければならなかった。風呂場は渡り廊下を通って少し離れたところにあった。

 

翌朝、宿のおやじが「今日は富士山が見えますよ」といった。雨が止んだ南の空に雪の

ない黒い富士が見えた。今日の大会の会場は、その富士さんの方向に宿から車で30分

ほどのところにある。「フジテンリゾート」である。冬の富士天神山のスキー場なのだが、

冬でなくてもマウンテンバイク場や、グラススキー場の営業もしていて、大会当日も

やっていた。全日本ミドル大会のスタートの場所はそのリゾートから15分北に

下った山地にあった。私のこの日のスタート時間は10時41分であった。ミドル

の男子90歳台Aは距離1・5㌔、登り60㍍、コントロール(標識)数6、競技

時間120分(この時間内にゴールしなければ、失格、行方不明で捜査対象となる)

高橋さんのスタートは1分後の10時42分。私を追っかけてくることになる。

 

私は今日の体調を考えながら、スタート枠を進んだ。胸の痛みはなくなり、今日は

大丈夫だろう。腰の痛み、眼のだるさは少しあるが何とか持ちそうだ。地図をとって

スタートした時、慌てずに落ち着いて地図を見た。①(湿地の東南)へはすぐに道の

ない樹海へ突入することになる。スタートフラッグから200㍍の距離だが、樹海の

中で距離感覚を狂わすと、行き過ぎてしまって、どこにいるかわからなくなる。行き

過ぎて番号の違う別のコントロールにぶつかった。直ぐに引き返す。すると1分後スタ

ートの高橋さんが走ってきた。「彼はまだ①を見つけていない」彼の進む方向を観察した。

やや左側に進み高地を登った。私は後を追った。すると進む方向の右側に①が見えた。

次の②(こぶ)へは西へ150㍍。これ位の距離なら何とかなる。高橋さんとほぼ

同時にとった。③(沢)は南南西に100㍍。私は丘を登ったが、高橋さんは裾を

まいた。彼の方が37秒早かった。ここまでで、私は18分30秒かかっているが、

高橋さんは16分16秒で、私を2分14秒上回っている。しかし、次の④(小

コブの西)で私が高橋さんを大逆転することになる。④へは西西南に300㍍山の

斜面を進む。途中通行度の少し悪いところがある。このぐらいになると距離感覚は

難しくなる。やみくもにコンパスの方向に進むしかない。土崖を少し上ったところ

のコブに別のコントロールがあった。番号が違う。しかしそこから少し北へ進み東

の方を見ると④のフラッグとコブが見えた。思わず駆け寄った。③から④へ私は

17分54秒で来ている。高橋さんはここで49分28秒かかっている。この④

が勝負を分けた。⑤(小コブの東)は南に150㍍。最後の⑥(林の角北東内側)

は広い道上にあった。ここからゴールまでは道登りの250㍍。腰が痛くなったのを

我慢してゴールした。私の総タイムは50分11秒。高橋さんは1時間24分

18秒であった。

 

表彰式では大阪オリエンテーリングクラブの旗を私の前に掲げて優勝の賞状と

メダルと、賞品として富士の酒とお菓子をもらった。この日鳴沢荘へ中原さんの

車で帰る途中、鳴沢村のワイナリーに立ち寄った。今夜は鳴沢荘へ泊るという大阪

オリエンテーリングクラブの楠見さん(男子60歳台Aクラス出場)の車も一緒

だった。しかし、中原さんも楠見さんもドライバーのため、葡萄酒の試飲が

できない。私一人数種類の赤白の葡萄酒を無料で味あうことになった。

 

翌日、曇り空ではあったが、雨は夕方ぐらいまでは大丈夫との予報だった。しかし

気温は低く、寒い日となった。この日のロング大会の会場も昨日と同じ「フジテン

リゾート」だが、スタート場所は参加者駐車場のすぐ近くの北西に設けられていた。

私のスタート時間は10時49分であつた。高橋さんのスタート時間は10時48分

で、今日は私が高橋さんを追いかける形となった。ロングの男子90歳台Aは距離

1・8キロ、登り75㍍、コントロール数7、競技時間180分(超えると失格)。

 

地図をとってスタートすると、直ぐにスタートフラッグがあり、そこから道のない

樹海に入る。100㍍北北西の先に①(沢)がある。そこは微地形地帯。沢といっても、

いくつもの沢が入り組んでいて単純ではない。奥の方の沢で高橋さんの姿が

見えた。すぐそこへ向かうと①があった。②(小コブの北)はそこから北北東へ

130㍍。コブといっても古い溶岩の塊のようなのが一杯あり、どれがコブか

わからない。探している場所の東の方の草むらから突然、女子70歳台Aクラス

の植松さんが現れて西の方に向かった。「アッあちらだ」ヒントをもらったように

思って、植松さんの現れた東に向かうと②があった。高橋さんはまだ②を探して

いる様子だったので、急いで③(岩崖の下)へ向かった。北西へ200㍍の地点

だが、途中に山道があるので、迷わずにとれた。④(北西の岩の南)は、③から

北東に175㍍の地点である。直進するつもりで進んでいたが、地図上にある水

飲み場のマークにひかれ、道に出てから④に向かってとったので少し時間が

かかった。この④まで、私は39分56秒の時間で来ている。高橋さんは44分

54秒である。約5分の差があるが、本当の勝負は次の⑤(炭焼き小屋跡)を

どちらが先に見つけるかにあった。④から⑤までの距離は375㍍、南東の

方向である。一面の樹海を進まなければならない、目印は何もないのでコン

パスだけが頼りである。ひたすらに南東に進んだ。すると水の流れる深い

沢にぶっかった。地図をよく見ると、そこはもう地図の中の広い幅の道

まで来ている。「行き過ぎた。戻ろう」と戻り始めて少し進んだとき、

草むらを南東に進む高橋さんに出会った。「高橋さんは⑤をすでに

とっているのか、いないのか」まだ⑤を見つけていない私にとっては

重大な問題である。勝負中に聞くわけにはいかない。競技が終わった

あと話をしたとき、高橋さんはこのときのことを「遂に追いついた、

と思った」と語っている。しかし、そこからさらに北に下った低地に

あった⑤に先に到着してチェックできたのは私だった。そして、

⑥(円形に半ば開けた土地の南)へは、ほぼ南に150㍍、直ぐに

見つけ、あとは昨日の最終と同じ⑦(林の角北東内側)をとると、また、

ゴールまでの道登りの250㍍、ここでは昨日と同じく、腰が痛くなり、

身体全体が重かったが、何とかゴールした。私の総タイムは1時間31分

23秒。高橋さんは1時間46分04秒だった。

 

この日は最終日になので、日本国内でも遠くからきていて、帰りを

急ぐ表彰該当者で、表彰式まで会場に居れない人は、先に表彰状、

メダル、賞品を渡すという、ことが決まっていたので、私は先に申し

出て、表彰式を待たずロング90歳台A優勝の表彰状、金メダル、賞品

富士の酒と菓子を受け取って、13時30分、に出発して岡山まで高速

道路を通って帰るという中原さんの車に乗せてもらって、関西の鉄道の

駅を経て帰ることにした。その前に高橋さんに会って、今日は残念ながら

表彰式に出られないことを告げると、「次回、またお互い元気に

やりましょう」といってくれた。3位まで表彰されるので、

2位準優勝の高橋さんは、表彰式には一人で出たそうである。

 

高橋さんは次回といった。次回の全日本大会は来年11月に千葉県

房総半島の勝浦で行われる。が、それまでにも各地で大会が開かれる

だろう。高橋さんからは、競技をこれからもやり通す強い気迫が

感じられた。私の場合は胸が痛み、腰が悪く、目がだるくなって

くることから、今回も含めて「大会参加はこれで最後」と思い

ながら、競技を続けてきた。しかしながら、今回は胸の痛みが

なくなり、ミドルとロングで優勝した。そして、11月23日の

私の91歳の誕生日には、最高齢の私を励ますために、大阪オリ

エンテーリングクラブで特別に「誕生日祝い練習会」を大阪の

鶴見緑地で開催してくれることが決まった。そうなると「これ

を最後に、もうこれで競技には出ない」とは、いっていられ

なくなってしまった。

 

「無限のゆくて、斃れてやまむ」(注)私は昔の中学校の校歌の一部を、

節をつけてつぶやいていた。

(2022年10月22日)

 

(注)―旧甲陽中学校歌2番終りの言葉。中国の古典「禮記正義」に

「斃而後已」とある。死んではじめてやめられることから、命のある

限り精一杯努力し続けることをいう。