「西宮空襲」77年目の語り部
西宮戎神社の近く、浜脇町の「浜脇古老の会」では西宮空襲について語り継ぐ会を平成
21年から続けられていたが、新型コロナのため、平成30年を最後に中止となっていた。
今年令和4年7月になって、会員の青木さんと、枇杷(びわ)さんが、私の自宅に立ち寄
られ、今年はふるさと西宮空襲の日であり、広島原爆の日でもある8月6日に再開するから、
前回参加していた私には、ぜひ今年も参加して体験を語ってほしいと案内を渡された。
日時は当日の午後1時30分~3時30分。場所は浜脇小学校の本館1階にある多目
的教室であった。
浜脇小学校は明治5年開校の西宮では一番古い学校で、かつて、作家の村上春樹・作詞家
の岩谷時子もこの学校の生徒として在籍していた。当日、教室にはスリッパに履き替えて
入らなくてはならなかった。受付で西宮空襲についての簡単な説明書とペットボトルのお茶
をもらい教室に入ると、周りの机の上には、西宮の空襲関連の写真や、空襲で焼失した地域
の地図が並べられていた。前の方の席に座っていると、サンテレビのカメラが撮影の準備を
していて、女性記者が「語り部の方ですか」と声をかけて名前を聞いてきた。このテレビ放送
は何時に放映するのかと聞くと、今日の午後4時半のニュースの時間に予定している、と
いうことだった。
前回までは最初に話をされていたのは、「語り継ぐ会」を続けてこられていた代表の山
本さんだったが今は亡くなっていて、今回は枇杷さんが、最初の挨拶と説明書の「西宮への
空襲」の話をされた。
日本本土への空襲が激しくなったのは、サイパン島が陥落し、マリアナ諸島にアメリカ
軍の航空基地が建設され、昭和20年になると全国の主要都市東京、名古屋、大阪、神戸、
北九州などが大空襲を受け、その後、全国の地方都市への空襲が広がった。西宮市への空
襲は西宮市と合併している鳴尾の空襲を入れると10回に及ぶ。その中で、8月5日夜半
から6日未明の焼夷弾爆撃では、西宮の街の南部一帯は殆ど焼失して、壊滅状態となった、
という内容だった。
この話の後、以前に撮影されていたビデオの映写があった。このビデオにはかつて語り部と
して空襲体験を語られていた方たちの語る姿があった。代表の山本さん、(前回の時89歳)
司会をされていた西本さん(前回の時84歳)地元女性の語り部、松井さん(前回の時87歳)、
ほかにも幾人かの方がおられた。これらの方々は前回(平成30年)の「語る会」には、全
員出席されていて、体験を語られていた。ところが今回の語り継ぐ会にはビデオに出られていた
方々はすべて、おられなくなっていた。そして、今回私のほかに予定していた方々も高齢のため
急に故障が生じ、来られないとのことであった。空襲から77年目にして、体験を語る
語り部は、急激にいなくなってしまっていたのである。
結局、私ともう一人、神戸空襲を受けた後、移った西宮前浜町でも空襲にあったという人との
2人だけが体験を語ることになったが、この人は年齢が私より10年以上若く、空襲の時は幼児で、
あまり体験の記憶を語ることは出来ないので、2回も空襲にあって家を失った経過だけを
語られることになった。
先に私の出番となって、私がまず語ったのは、10回あった西宮空襲のうち、海軍の戦闘機
「紫電改」を造っていた川西航空機鳴尾工場の爆撃(6月7日)や、宝塚工場(現仁川競馬
場の場所7月24日)の爆撃、などは、主に1㌧爆弾などを使った爆弾が中心の攻撃で
あったこと。またほかの日には、焼夷弾攻撃もあったが、その中には尼崎や神戸東灘区、
芦屋などと一緒に阪神地区で攻撃を受けた爆撃もあり、艦載機からの機銃掃射を伴う爆
撃もあったこと。そして、最後の8月5日夜半から6日未明の空襲こそ、当時の西宮住宅
密集地全域を対象にした完全な西宮への広域油脂焼夷弾爆撃だった、ということである。
特にこの日の爆撃のためにアメリカのB―29から空襲の予告ビラがまかれている。
それには「数日のうちに裏面に書いてある都市全部を爆撃するので、書いてある都市から
避難してください」と書かれ、そのビラには西宮、水戸、八王子、郡山、前橋、大津、
舞鶴、富山、福山、長野、高岡、久留米などの12都市があげられその通り実行されて
いる。ほかにも住宅密集地焼去作戦の対象に180の中小都市が、指名されていたとされる。
そして、この日実際に爆撃された地帯は、西宮では鳴尾,甲子園、久寿川、今津、用海、
浜脇、香櫨園、と広範囲にわたり、当時の西宮の中心となる住宅密集地帯であった。
そしてこの日の空襲のB―29爆撃機は130機といわれ、それが甲子園浜から香櫨園浜
に至る海岸地帯から北上して国道2号線を越える地帯までを一斉に絨毯爆撃で焼夷弾を
落としていった。油脂焼夷弾38個を収束して一個とした収束(クラスター)爆弾を、
1機のB―29は普通1520発個積んでいる。1600発個まで積めるともいわれている。
(NHKBS1放送「なぜ日本は焼き尽くされたのか」)落とされたその1発ごとの収束
爆弾が落下途中、地上70㍍で破裂して、そこでさらに38個の油脂焼夷弾となって広がり、
リボンに火が付いて落ちてくる。その油脂焼夷弾は長さ50・8㌢、直径7・6㌢、重さ
7・6㌔で炸裂すると燃焼力の強大なナパームが拡散し、周辺を火災に巻き込む。大量の
油脂焼夷弾攻撃は完全にその地域を火の海にする。私は西宮という一都市にも、これだけ
大規模で、大量の焼夷弾投下があったのだ、ということを、この日参加した人たちに
知っておいてほしいという気持ち一杯になって、語り続けた。
この時住んでいたのは、今津社前町であった。社前町というのは、西宮3福神(西宮えびす
神社・甑岩神社・福應神社)の一つ福應神社の前の町という意味で当時、神社は今の高速
道路西宮インターチェンジの場所の西南部にあった。8月5日の晩は、着のみ着のまま蚊帳
の中に入って寝ていた。12時に近く空襲警報が鳴り、ラジオをつけると「敵機は西宮を
空襲中」と何遍も繰り返していた。家族5人、父(大阪の会社に通勤)、母、姉(西宮高女、
動員で軍需工場勤務)弟(国民学校初年)私(甲陽中学2年、動員で阪神電鉄尼崎工場勤務)
が揃って家をぬけ、福應神社の森に向かった。そこにも浅い防空壕があったのだが、南の
方から火の手が迫り、「ここにいると危ない、北の方に走れ」と父がいった。私は「家が
焼ければ、千里山の叔母の家にいっているから」といって一人で走り出した。西宮今津郵
便局(今でもある)の前を通り、久寿川に出て空を見ると、打ち上げ花火のような大輪の
火の輪が空に拡がり、ザーという音を立てて火の雨が落ちてきた。私は思わずそこに停めて
あったトラックの下に潜り込んだ。トラックに落下の衝撃音が響いた。周りに落ちた油脂
焼夷弾が火を噴き始めた。私はトラックの下を素早く抜け出し、北へ川に沿って必死に
走った。阪神久寿川駅の東側の川沿いの踏切を越え、走り続けた。
走りながら、焼夷弾の落下音と爆発音が追いかけてくるのを感じていた。やがて農家の村落
をぬけると、周りは田んぼとなった。今の春風町あたりではなかったかと思う。田んぼ道の横
に土盛があって、防空壕が作られていた。その中は人が一杯だったが、「入れてください」と
断って、厚かましく中の片隅にしゃがみこんだ。皆、無言だった。
私はここまで一気に語った。「語り継ぐ会」の参加者は60数名だったが、皆の眼が私に集中
して、耳を傾けて聞いてくれているのが実感された。西宮今津郵便局とか、久寿川沿いの
駅の踏切とか私がいったときに、うなずいてくれる人もいた。
私は語り続けた。夜が明けると強い雨が降った。大空襲後は必ず煤を含む黒い雨が降る。
雨が上がると私は礼をいって防空壕を出た。私の逃げてきた道を戻っていて驚いたのは、
その道の上に小型爆弾が落ちて穴をあけて、その穴の周りに数人の人が防空頭巾を
かぶったまま倒れ亡くなっていたことである。焼夷弾投下地帯の周りに小型爆弾を落とし、
逃げだす人を狙っている。私も逃げるのが少し遅かったら、危ない所だった。阪神電車の
線路まで戻ってくるとその先は一面の焼野原でまだところどころ煙をあげていた。駅前の
商店街も、市場も、福應神社も隣の常源寺もすべて焼け失せていた。家のあったところに
近づくと、ところどころに真っ黒こげになった死体が転がっていた。その中に折り重なった
2つの黒こげ死体があった。隣組にいた二人暮らしで、足の悪かったお婆さんと、背負って
逃げようとしたおばさんに違いないと思った。家は完全に燃え尽きていた。土蔵も松の木も
すべてなかった。井戸の場所だけがようやくわかった。近くでは今津国民学校の3階建ての
鉄筋の校舎だけが、焼けずに残っていた。
今津国民学校の鉄筋の校舎には、焼け出された人が集まり始めていた。私は家族を探したが
見当たらなかった。戦災孤児になったかもしれないと思った。大分遅くなって、2階の教室
から運動場を見ていて、家族が無事運動場に入ってきているのを見つけた。
その日電車が動き始めたので、千里山の伯母の家に、家族全員泊まることになった。そして、
翌日私は動員先の阪神電車尼崎工場に出勤した。すると、前日の空襲で阪神甲子園球場に相
当の被害が出ているので、後始末の手伝いに行くことになった。そして外野の入口から、甲子
園球場内に入って驚いた。銀傘も供出で取り払われ、外野席の木造の椅子も外されて、
廃墟のような球場だったが、グランド一面には、油脂焼夷弾が群れとなって突き刺さって
いた。私はハリネズミの背中のようなグラウンドの風景に、落下してきた焼夷弾雨の密度
と量の多さに改めて身震いした。
そして、こんな密度で降り注いだ弾雨の中を、良く逃げられたものだと思った。後日当時の
甲子園球場長だった石田さんは『甲子園の回想』で、この風景を「歩兵の大部隊が筒先を揃
えて行進するかのようであった」と書かれている。やがて、昼になると、球場の中の臨時の
軍需工場で働いていた中学生たちが、このグランドに出てきた。ドライバーを使って、不発
弾の信管を抜こうとする生徒がいて、そこに私も、皆と一緒に集まった。これは危険な行為で、
焼夷弾でも爆発すると近くにいる者は、全身火を浴びて死ぬ。が、この時は成功して中から、
ナパームの袋を取り出し、「これで風呂が沸かせるで」といった。このような不発弾が多くて
危険を後まで及ぼす収束弾(クラスター弾)は今「クラスター弾に関する条約」により日本
を含む92カ国が、製造、所持、使用の禁止に署名している。
このように、私が甲子園球場グランド一面に突き刺さつた焼夷弾風景と、不発弾を解体する生
徒を語ったのは、西宮のような地方都市の住宅地にも、強力な火力のナパームを使った、不発弾
が多くて危険な収束弾の、隙間の無い密度での徹底した大量投下があったのだと、いうことを
知っておいてほしいという気持ちで一杯となっていたからであった。私が語り終えたとき、
会場から幾人かの拍手をもらった。
私の後、もう一人の方の神戸空襲と前浜町での空襲を受けた経過の報告があって、語り継ぐ会
は終わった。その後、小学生の女の子供たちが、私の所に来て質問をしてきた。その中に
「戦争をどう思いますか」というのがあった。私は次のように答えた。
「ウクライナの街の集合住宅がミサイルやクラスター弾砲撃で攻撃され崩れているのを見ると、
私はこの西宮のクラスター油脂焼夷弾大量爆撃がすぐに頭に浮かびます。住民が戦争の犠牲に
なるのは、昔も今も変わりません。住民が爆弾やミサイルなどで無差別に攻撃を受けることなど、
絶対に起こすことのない世界をみんなで作っていかなくてはならない、と思っています」
(令和4年8月29日)
80年前の敵基地攻撃
―日本国民は歓喜した。相手国の指導者たちも、腹の底では喜んだ―
天皇陛下の赤子(せきし)
天皇陛下の赤子(せきし)
8月15日。私はいつもこの日になると、戦時下の中学生時代を思い出す。私は昭和
19年の4月、住んでいた家の近くの甲子園にあった甲陽中学に入学した。当時の中等
学校は公立、私立を問わず、戦時中等学校令が施行されて、すべてが軍隊式になって
いた。戦闘帽、カーキ色の服に、足にゲートル(巻脚絆)を巻き、校門を入るときは隊
列を組んで、「歩調とれ」と号令をかけ「かしら左」で衛兵役の上級生に挨拶し、その後
運動場を隔てて「かしら中」と天皇の御真影のある校舎に向かって礼を捧げなければ
ならなかった。一人で門を入るときは、それを一人でやった。
朝の朝礼では、まず運動場に集まった生徒全員で次のような言葉を奉唱した。
「我等学徒は、天皇陛下の赤子なり、日夜聖旨を奉戴し、おおみ心に、沿いたてまつらん」
聖旨とは天皇のおぼしめし、命令のことであった。教育勅語の「一旦緩急アレバ義勇公
に奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」などは戦時下で第一番に守るべき聖旨であった。
そして、軍事教練が始まった。教練の教官は退役軍人の一人と配属将校の二人が担当した。
退役軍人の時間は、直立不動の立ち方、挙手敬礼の仕方、腕を強く振り足を高く上げて
の歩行訓練から始まった。彼は竹刀をばらした一片の竹の棒を持ち、少しでもやり方
が悪いと、すぐにそれで頭を殴りつけた。そしていった。「君たちは陛下の赤子である。
陛下の赤子である以上、私は君たちを殴ってでも教えこまなければならないと思って
いる」殴られると頭にこぶが出来た。それでも平気でまた殴った。その時は軍事教練で
殴られるのは当たり前と思っていたが、今考えてみると陛下の赤子だから殴らなければ
ならない、という理屈は確かにどこかおかしい。
配属将校は若い教官と年配の教官がいて、若い教官の時間は銃剣術があった、木銃を
構えて前進、突けという基本動作を教えた。教えている途中で突然私を指名して、校庭の
隅に「捧げ銃」をしたまま立っておれ、と命令した。私は一生懸命に銃剣術訓練をやって
いたつもりで、どこが悪いのか指摘も説明もないまま、1時間ほど「捧げ銃」のあと、
身体が吹き飛ぶほど殴られた。未だに私のどこが悪かったのか分からない。
殴るのは、配属将校だけではなかった。先生も生徒をよく殴った。授業に短い棒を
持ち込んで、質問に答えられないと頭を殴る先生。出席簿の部厚く広いファイルを
持ち上げて、振り下ろして殴る先生。元海軍に在籍した先生は海軍式に野球のバットに
似た精神注入棒で、生徒を立たせてその尻をひっぱたくのを得意とした。また上級生は
下級生を殴ることが、普通になっていた。服装が乱れているとか、生意気な態度を取って
いるとか、口実を見つけて、呼び出しておおっぴらに平手で殴った。生徒の親たちの中
には「ぜひうちの息子を殴りつけ、日本男児の魂を入れて鍛え上げて頂きたい」と学校
に申し出ることもあったと聞いている。
これは、私の入った中学だけではなく、私と同年配で他の中学へいった友人に聞いても、
当時は良く殴られたという。特に、戦局が危急となっていた昭和18年に、中等学校令
が発令し、5年の年限を4年として、教育に関する戦時非常措置方策が実施され、全国の
中等学校の軍隊化がさらに進んだときに一層殴る教育が激しくなったといわれている。
『日本沈没』の作家小松左京は、私と同じ昭和6年生まれだが、戦時中神戸一中での
散々殴られた青春のことを『やぶれかぶれ青春記』に書いている。教師と運動部の上級生、
一年上の上級生から「陸軍式」の殴りや海軍式の「一中精神注入棒」で殴られていた、
といっている。そのほか、教練の准尉の教官の厳しい「匍匐前進」訓練の時に「服が
破れる」「一着しかないねんぞ、どないしてくれるねん」などと、数人が声をあげた。
それを怒った教官から「言ったものは誰か」と追及された。言った数人で手をあげるはずが、
左京一人だけしか手をあげなかった。教官は5つのボタンが飛び散った位、服を引っ張り
引き回し、3つ4つ殴りつけて、教員室に連れていかれた。そこで担任の先生からも突き
飛ばされ、ゲートルのまま4時間半正座させられ、殴る蹴る、ごつい長靴で膝の上に乗られ
るなどの拷問を受けたという。左京はその後、第三高等学校に合格した時「くそったれ中学め!
担任め! ヤバンな軍国主義的な中学。それも、もうおしまいだ」といっているが、神戸
一中に限らず、この時期の中等学校は、どこも「鉄拳制裁」の嵐の中にあったのだったと
私は思っている。
私も動員中、絶体絶命の強い鉄拳制裁を受けるべき事態を引き起こしたことがあった。
空襲の日の翌日、エレクトロン焼夷弾の不発弾がいくつか、工場の横に集めてあったのを、
仲間3人でかってに持ち出して、変電所のテラスから下に投げおろし、爆発するかどうか
試してみたのである。そのうちの一つが爆発して、横にあった材木に火が付いて燃え上がり、
大騒ぎとなった。砂と水で消し止めたが、これこそ徹底的に鉄拳制裁を受けるべき事態
である。引率の教師は2年生全員の集合をかけた。「やった者は前へ」で私は進み出て徹底
的に殴られる覚悟を決めた。
ところがこの時教師は、連帯責任制裁方式を取った。戦時中良く行われた制裁方式で、
問題を引き起こした者が所属するグループ全員が、同じように制裁の対象になる。これは
教師の方から見ると、2年生全員を殴ることになり、殴る手が痛くなり大変である。教師に
よっては、自分で殴らず、二人ずつ向き合わせて、お互いに殴らせることも出来た。「もっと
強く殴れ」「加減をするな」と教師はハッパをかけておれば、良いのである。しかしこの時
の教師は、誠実に「殴り」に取り組んだ。2年生全員を一人ずつ殴っていった。2年生は
30人位いたが、並んで一発ずつ殴られた。私もこの時は一発殴られた。しかしそれだけで
終わった。その後、4年生のリーダーが、あまり関係ないのに「これは私の責任であります」
と自ら申し出て、殴られていた。
このように当時は13歳から17歳までの中等学校生に対して、天皇陛下の赤子と呼び、配属
将校による軍事教練が徹底され、殴って鍛える習慣や鉄拳制裁が普通になっていた。なぜそんな
ことになっていたのであろう。これはアメリカ軍の攻勢が、日本本土上陸となり、本土決戦と
なった場合の戦闘要員として、中等学校生も加わることになっていたからだろうと思っている。
当時の学徒は教育勅語の「一旦緩急アレバ義勇公に奉ジ」なければならない。急速に兵士に仕立
て上げられていたのである。実際に沖縄戦では中等学校生による鉄血勤王隊らが戦闘に参加し、
女学校生によるひめゆり部隊らが軍の看護に従事している。さらにその後、国民義勇隊法が制定
され、全国民の男子15歳以上60歳以下、女子17歳以上40歳以下を国民義勇戦闘隊に編入
させることが出来ることを決めている。そしてやたらに殴ったのは、戦闘に参加する場合、上官
の命令には絶対服従でなければならないので、日頃から、その命令絶対服従状態を作りだして
おくために、殴るのが一番手っ取り早い方法だったから、と思われる。
天皇から下された「軍人勅諭」に「下級の者は上官の命を承ること実は直ちに朕が命を承る義
なりと心得よ」とあって、「上級者の命令は、天皇陛下のご命令と思へ」と言われ、上級者への
絶対服従を強いられる。日本の軍隊内の階層と力関係の実態を書いた作家山本七平は『私の中の
日本軍』の中で、兵隊は失敗があれば殴られる。気に入らないと言われて殴られる。自分の失敗
が連帯責任なれば仲間たちも殴られる。として、殴り続けられていると「もうどうにでもなれ
といった諦めが奇妙な相乗作用となり、まるで催眠術にかけられたように、歩けと言われれば
歩き、殴れと言われれば殴り、靴の底や痰壺をなめろ言われればなめる」ようになると書かれて
いる。天皇陛下の赤子である中学生には、靴の底や痰壺をなめることまでは、命令されなかったが、
本土決戦になって、最後には命令一下、玉砕攻撃をして散ることを全く拒まない、また拒めない、
ところまで「殴って鍛える」教育によって命令絶対服従体制が徹底されていったのである。
神戸一中時代に散々殴られた経験のある小松左京は、その自伝のなかで、作品の『日本沈没』を
書き始めた動機は戦争で、本土決戦、一億玉砕で日本は滅亡するはずであったが、これは終戦で
救われた。(滅亡させてみたらどうなるかを書いてみたかった)といっているが、当時は「生きて
虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓の訓令があり、降伏して捕虜にもなれない状況下一億玉砕で、
皆最後の総攻撃で死んでしまったら、日本は完全に滅亡してしまうのではないかとふと思ったことが、
私にもあった。連日の空襲、艦載機機銃掃射に加え、原爆投下、ソ連参戦、本土決戦、そして玉砕
命令、その命令の絶対服従、で小松左京が「滅亡するはず」と考えた日本列島はどうなるのか、左京
が『日本沈没』を書こうとした気持ちが、私にも少し分かってきたような気がした。
殴る,蹴る、突く、胸倉をつかんで引っ張る。などの行為は「人の身体に対し不法に有形力を行使
すること」になり、今では刑法の暴行罪が適応され、犯罪行為となる。しかし76年前までの日本
では、陸軍でも海軍でも兵隊は殴られるのが当たり前であつたし、それが全国の中等学校にも
波及し「殴って鍛える」「鉄拳制裁」「愛の鞭を加える」などといわれてこれが当たり前のように
行われていたことは、今考えると、全く別次元の世界であり、驚くべきことだったと私は、しみ
じみと思うのである。
今でもたまに「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かえり
見はせじ」の歌や曲を聞くと、学校では殴られながらも、天皇のため、国ためなら死んでも
良いと本気で思い込んでいた、戦時中の自分の姿を想い起こすのである。
また「天皇陛下の赤子」という、今は使われない言葉が、頭をかすめるときには、赤子を鍛える
ことを「承書必謹」と信じ込んで、中学に入ったばかりの生徒達を「陛下の赤子なら殴って鍛
えねばならん」と、くそ真面目に、そして一心不乱に殴っていたあの初老の退役軍人の教官を
思い出すのである。
(2021年8月25日)