先の大戦 エッセー集

                                 「西宮空襲」77年目の語り部 

                    2     80年前の敵基地攻撃

     3 天皇陛下の赤子(せきし)

                玉砕せずに生き抜いて戦い続けた男達 

   

       暁部隊(陸軍船舶司令部)


          「西宮空襲」77年目の語り部 



西宮戎神社の近く、浜脇町の「浜脇古老の会」では西宮空襲について語り継ぐ会を平成

21年から続けられていたが、新型コロナのため、平成30年を最後に中止となっていた。

今年令和4年7月になって、会員の青木さんと、枇杷(びわ)さんが、私の自宅に立ち寄

られ、今年はふるさと西宮空襲の日であり、広島原爆の日でもある8月6日に再開するから、

前回参加していた私には、ぜひ今年も参加して体験を語ってほしいと案内を渡された。

日時は当日の午後1時30分~3時30分。場所は浜脇小学校の本館1階にある多目

的教室であった。

 

浜脇小学校は明治5年開校の西宮では一番古い学校で、かつて、作家の村上春樹・作詞家

の岩谷時子もこの学校の生徒として在籍していた。当日、教室にはスリッパに履き替えて

入らなくてはならなかった。受付で西宮空襲についての簡単な説明書とペットボトルのお茶

をもらい教室に入ると、周りの机の上には、西宮の空襲関連の写真や、空襲で焼失した地域

の地図が並べられていた。前の方の席に座っていると、サンテレビのカメラが撮影の準備を

していて、女性記者が「語り部の方ですか」と声をかけて名前を聞いてきた。このテレビ放送

は何時に放映するのかと聞くと、今日の午後4時半のニュースの時間に予定している、と

いうことだった。

 

前回までは最初に話をされていたのは、「語り継ぐ会」を続けてこられていた代表の山

本さんだったが今は亡くなっていて、今回は枇杷さんが、最初の挨拶と説明書の「西宮への

空襲」の話をされた。

 

日本本土への空襲が激しくなったのは、サイパン島が陥落し、マリアナ諸島にアメリカ

軍の航空基地が建設され、昭和20年になると全国の主要都市東京、名古屋、大阪、神戸、

北九州などが大空襲を受け、その後、全国の地方都市への空襲が広がった。西宮市への空

襲は西宮市と合併している鳴尾の空襲を入れると10回に及ぶ。その中で、8月5日夜半

から6日未明の焼夷弾爆撃では、西宮の街の南部一帯は殆ど焼失して、壊滅状態となった、

という内容だった。

 

この話の後、以前に撮影されていたビデオの映写があった。このビデオにはかつて語り部と

して空襲体験を語られていた方たちの語る姿があった。代表の山本さん、(前回の時89歳)

司会をされていた西本さん(前回の時84歳)地元女性の語り部、松井さん(前回の時87歳)、

ほかにも幾人かの方がおられた。これらの方々は前回(平成30年)の「語る会」には、全

員出席されていて、体験を語られていた。ところが今回の語り継ぐ会にはビデオに出られていた

方々はすべて、おられなくなっていた。そして、今回私のほかに予定していた方々も高齢のため

急に故障が生じ、来られないとのことであった。空襲から77年目にして、体験を語る

語り部は、急激にいなくなってしまっていたのである。

 

結局、私ともう一人、神戸空襲を受けた後、移った西宮前浜町でも空襲にあったという人との

2人だけが体験を語ることになったが、この人は年齢が私より10年以上若く、空襲の時は幼児で、

あまり体験の記憶を語ることは出来ないので、2回も空襲にあって家を失った経過だけを

語られることになった。

 

先に私の出番となって、私がまず語ったのは、10回あった西宮空襲のうち、海軍の戦闘機

「紫電改」を造っていた川西航空機鳴尾工場の爆撃(6月7日)や、宝塚工場(現仁川競馬

場の場所7月24日)の爆撃、などは、主に1㌧爆弾などを使った爆弾が中心の攻撃で

あったこと。またほかの日には、焼夷弾攻撃もあったが、その中には尼崎や神戸東灘区、

芦屋などと一緒に阪神地区で攻撃を受けた爆撃もあり、艦載機からの機銃掃射を伴う爆

撃もあったこと。そして、最後の8月5日夜半から6日未明の空襲こそ、当時の西宮住宅

密集地全域を対象にした完全な西宮への広域油脂焼夷弾爆撃だった、ということである。

特にこの日の爆撃のためにアメリカのB―29から空襲の予告ビラがまかれている。

それには「数日のうちに裏面に書いてある都市全部を爆撃するので、書いてある都市から

避難してください」と書かれ、そのビラには西宮、水戸、八王子、郡山、前橋、大津、

舞鶴、富山、福山、長野、高岡、久留米などの12都市があげられその通り実行されて

いる。ほかにも住宅密集地焼去作戦の対象に180の中小都市が、指名されていたとされる。

そして、この日実際に爆撃された地帯は、西宮では鳴尾,甲子園、久寿川、今津、用海、

浜脇、香櫨園、と広範囲にわたり、当時の西宮の中心となる住宅密集地帯であった。

そしてこの日の空襲のB―29爆撃機は130機といわれ、それが甲子園浜から香櫨園浜

に至る海岸地帯から北上して国道2号線を越える地帯までを一斉に絨毯爆撃で焼夷弾を

落としていった。油脂焼夷弾38個を収束して一個とした収束(クラスター)爆弾を、

1機のB―29は普通1520発個積んでいる。1600発個まで積めるともいわれている。

(NHKBS1放送「なぜ日本は焼き尽くされたのか」)落とされたその1発ごとの収束

爆弾が落下途中、地上70㍍で破裂して、そこでさらに38個の油脂焼夷弾となって広がり、

リボンに火が付いて落ちてくる。その油脂焼夷弾は長さ50・8㌢、直径7・6㌢、重さ

7・6㌔で炸裂すると燃焼力の強大なナパームが拡散し、周辺を火災に巻き込む。大量の

油脂焼夷弾攻撃は完全にその地域を火の海にする。私は西宮という一都市にも、これだけ

大規模で、大量の焼夷弾投下があったのだ、ということを、この日参加した人たちに

知っておいてほしいという気持ち一杯になって、語り続けた。

 

この時住んでいたのは、今津社前町であった。社前町というのは、西宮3福神(西宮えびす

神社・甑岩神社・福應神社)の一つ福應神社の前の町という意味で当時、神社は今の高速

道路西宮インターチェンジの場所の西南部にあった。8月5日の晩は、着のみ着のまま蚊帳

の中に入って寝ていた。12時に近く空襲警報が鳴り、ラジオをつけると「敵機は西宮を

空襲中」と何遍も繰り返していた。家族5人、父(大阪の会社に通勤)、母、姉(西宮高女、

動員で軍需工場勤務)弟(国民学校初年)私(甲陽中学2年、動員で阪神電鉄尼崎工場勤務)

が揃って家をぬけ、福應神社の森に向かった。そこにも浅い防空壕があったのだが、南の

方から火の手が迫り、「ここにいると危ない、北の方に走れ」と父がいった。私は「家が

焼ければ、千里山の叔母の家にいっているから」といって一人で走り出した。西宮今津郵

便局(今でもある)の前を通り、久寿川に出て空を見ると、打ち上げ花火のような大輪の

火の輪が空に拡がり、ザーという音を立てて火の雨が落ちてきた。私は思わずそこに停めて

あったトラックの下に潜り込んだ。トラックに落下の衝撃音が響いた。周りに落ちた油脂

焼夷弾が火を噴き始めた。私はトラックの下を素早く抜け出し、北へ川に沿って必死に

走った。阪神久寿川駅の東側の川沿いの踏切を越え、走り続けた。

 

走りながら、焼夷弾の落下音と爆発音が追いかけてくるのを感じていた。やがて農家の村落

をぬけると、周りは田んぼとなった。今の春風町あたりではなかったかと思う。田んぼ道の横

に土盛があって、防空壕が作られていた。その中は人が一杯だったが、「入れてください」と

断って、厚かましく中の片隅にしゃがみこんだ。皆、無言だった。

 

私はここまで一気に語った。「語り継ぐ会」の参加者は60数名だったが、皆の眼が私に集中

して、耳を傾けて聞いてくれているのが実感された。西宮今津郵便局とか、久寿川沿いの

駅の踏切とか私がいったときに、うなずいてくれる人もいた。

 

私は語り続けた。夜が明けると強い雨が降った。大空襲後は必ず煤を含む黒い雨が降る。

雨が上がると私は礼をいって防空壕を出た。私の逃げてきた道を戻っていて驚いたのは、

その道の上に小型爆弾が落ちて穴をあけて、その穴の周りに数人の人が防空頭巾を

かぶったまま倒れ亡くなっていたことである。焼夷弾投下地帯の周りに小型爆弾を落とし、

逃げだす人を狙っている。私も逃げるのが少し遅かったら、危ない所だった。阪神電車の

線路まで戻ってくるとその先は一面の焼野原でまだところどころ煙をあげていた。駅前の

商店街も、市場も、福應神社も隣の常源寺もすべて焼け失せていた。家のあったところに

近づくと、ところどころに真っ黒こげになった死体が転がっていた。その中に折り重なった

2つの黒こげ死体があった。隣組にいた二人暮らしで、足の悪かったお婆さんと、背負って

逃げようとしたおばさんに違いないと思った。家は完全に燃え尽きていた。土蔵も松の木も

すべてなかった。井戸の場所だけがようやくわかった。近くでは今津国民学校の3階建ての

鉄筋の校舎だけが、焼けずに残っていた。

 

今津国民学校の鉄筋の校舎には、焼け出された人が集まり始めていた。私は家族を探したが

見当たらなかった。戦災孤児になったかもしれないと思った。大分遅くなって、2階の教室

から運動場を見ていて、家族が無事運動場に入ってきているのを見つけた。

 

その日電車が動き始めたので、千里山の伯母の家に、家族全員泊まることになった。そして、

翌日私は動員先の阪神電車尼崎工場に出勤した。すると、前日の空襲で阪神甲子園球場に相

当の被害が出ているので、後始末の手伝いに行くことになった。そして外野の入口から、甲子

園球場内に入って驚いた。銀傘も供出で取り払われ、外野席の木造の椅子も外されて、

廃墟のような球場だったが、グランド一面には、油脂焼夷弾が群れとなって突き刺さって

いた。私はハリネズミの背中のようなグラウンドの風景に、落下してきた焼夷弾雨の密度

と量の多さに改めて身震いした。

 

そして、こんな密度で降り注いだ弾雨の中を、良く逃げられたものだと思った。後日当時の

甲子園球場長だった石田さんは『甲子園の回想』で、この風景を「歩兵の大部隊が筒先を揃

えて行進するかのようであった」と書かれている。やがて、昼になると、球場の中の臨時の

軍需工場で働いていた中学生たちが、このグランドに出てきた。ドライバーを使って、不発

弾の信管を抜こうとする生徒がいて、そこに私も、皆と一緒に集まった。これは危険な行為で、

焼夷弾でも爆発すると近くにいる者は、全身火を浴びて死ぬ。が、この時は成功して中から、

ナパームの袋を取り出し、「これで風呂が沸かせるで」といった。このような不発弾が多くて

危険を後まで及ぼす収束弾(クラスター弾)は今「クラスター弾に関する条約」により日本

を含む92カ国が、製造、所持、使用の禁止に署名している。

 

このように、私が甲子園球場グランド一面に突き刺さつた焼夷弾風景と、不発弾を解体する生

徒を語ったのは、西宮のような地方都市の住宅地にも、強力な火力のナパームを使った、不発弾

が多くて危険な収束弾の、隙間の無い密度での徹底した大量投下があったのだと、いうことを

知っておいてほしいという気持ちで一杯となっていたからであった。私が語り終えたとき、

会場から幾人かの拍手をもらった。

 

私の後、もう一人の方の神戸空襲と前浜町での空襲を受けた経過の報告があって、語り継ぐ会

は終わった。その後、小学生の女の子供たちが、私の所に来て質問をしてきた。その中に

「戦争をどう思いますか」というのがあった。私は次のように答えた。

 

「ウクライナの街の集合住宅がミサイルやクラスター弾砲撃で攻撃され崩れているのを見ると、

私はこの西宮のクラスター油脂焼夷弾大量爆撃がすぐに頭に浮かびます。住民が戦争の犠牲に

なるのは、昔も今も変わりません。住民が爆弾やミサイルなどで無差別に攻撃を受けることなど、

絶対に起こすことのない世界をみんなで作っていかなくてはならない、と思っています」

 

(令和4年8月29日)




    80年前の敵基地攻撃

 

―日本国民は歓喜した。相手国の指導者たちも、腹の底では喜んだ―


昨年の12月6日、岸田首相は臨時国会の所信表明演説で、外交・安全保障分野に関し、「我が国を取り巻く安全保障環境は、これまで以上に急速に厳しさを増している」と強調した。それとともに「国民の命と暮らしを守るため、いわゆる敵基地攻撃能力も含め、あらゆる選択肢を排除せず現実的に検討し、スピード感をもって防衛力を抜本的に強化していく」と述べていた。 その2日後の12月8日は、日本がハワイ真珠湾を攻撃し、アメリカ・イギリスと戦闘状態に入った時から丁度、80年目に当たる日であった。そして例年になく、この日の前後には「日米開戦から80年」に関するNHKのテレビ番組が多く放送された。 12月1日「日米開戦への道 知られざる国際情報戦」。12月3日「真珠湾の謎~悲劇の特殊潜航艇~」。12月7日「山本五十六 開戦への葛藤、避戦派提督はなぜ真珠湾を攻撃したのか」。12月8日「1941 日本はなぜ開戦したのか」。12月30日特集ドラマ「倫敦の山本五十六」。などであった。 80年前、当時国民学校4年生だった私はラジオで「帝國陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」という開戦を告げる大本営発表の臨時ニユースを聞いた経験がある。その時の緊迫した空気を思い出した私は、これらの放送番組をすべて興味深く見ることができた。そして、岸田首相の敵基地攻撃能力を含め、現実的に検討し防衛力を抜本的に強化していく、という言葉と考え合わせてみた。 80年前の日本の真珠湾攻撃は、それこそ典型的な敵基地攻撃そのものであった。しかし、その攻撃に至るまでの経過は、私が当時思っていた以上に複雑で難しいものであったことが、これらのテレビ番組を見て改めて分かってきた。それはこの真珠湾攻撃を立案した、当時の連合艦隊司令長官山本五十六が、兵学校同期の堀悌吉に語っていた「日本がアメリカと戦争すれば、必ず負ける」という言葉からも、アメリカとの国力の差をはっきりと認識して、開戦を避けるべきだと山本は考えていたことが分かる。また他にもそう考えていた指導者の人たちがいた。堀悌吉が保管してきた多くの山本からの書簡が番組で報道され、ドイツ・イタリアと三国同盟に反対し、なんとか開戦を避けようと思いながら、真珠湾攻撃を立案していく山本の苦悩と葛藤の姿がそこにあった。 陸軍大臣を兼務して首相となった、東條英機を私は、開戦決定の一番の推進者のように思っていたが、番組を見て彼が首相になってからの言葉からは、開戦前年、世論が反米に傾かないようメディアの情報統制を行い、対米戦を回避しようとしていたことがうかがえる。 昨年9月公開された天皇の侍従長・百武三郎の日記によると、日米交渉に期待しながらも独ソ開戦で不眠となり、苦悩しながら東條英樹に組閣を命じる天皇の姿が克明に記されている。東條は首相になって、天皇の苦悩が分かり相当に悩んだ末に、それでもやむを得ず開戦に追い込まれていったとされている。 私はこれらの番組には、勝ち目がないことを知りつつ、苦悩しながら重大案件を先送りして「決意なき開戦」に追い込まれていったリーダーたちの本当の姿が浮き彫りになって示されていることを強く感じた。 開戦緒戦の真珠湾攻撃、マレー半島上陸、シンガポール陥落などの戦果に、ほとんどの日本国民は歓喜した。私も(海軍の歌)「見よ しょうとうに思い出の、Z旗たかく翻る、時こそ来たれ令一下、ああ十二月八日朝、星条旗まず破れたり、巨艦裂けたり沈みたり」。(陸軍の歌)「今こそ撃てと宣戦の、みことに勇むつわものが、火蓋を切って押し渡る、時、十二月その八日」などの歌を、「よくぞやったぞ 日本」とばかり、歓喜に包まれた街でも学校でも家でもみんなで歌いまくっていた。 ところが、日本のこのような攻撃による開戦を喜んだのは、日本国民だけではなかった。なんと大戦の相手国側、アメリカ・イギリス・中華民国のリーダーたちも、日本の攻撃を「しめた」とばかり喜んでいたことが番組で説明されている。 昨年の12月8日、真珠湾攻撃から80周年を迎え、アメリカバイデン大統領はその声明のなかで、「今後しばらくは米国内で日本の蛮行に対する非難が続くと思われる。ただ、歴史を学ぶ者として、この奇襲攻撃は米英の指導者が誘導し、歓迎した点があったことは指摘しておきたい」と述べている。この攻撃により「リメンバーパールハーバー」の言葉とともに、欧州で始まっていた戦争に参加するかどうかで反対の多かったアメリカの世論は一気に開戦にまとまった。日本との戦争に立ち向い、日本と同盟を結んでいるドイツとも戦うことも決まった。当時国力ナンバーワンのアメリカ全体が直ちに強力な一体となって大戦に参加することになる。その時のルーズベルト大統領はアメリカ国内を一致団結させることに成功したのである。 イギリスのチャーチル首相は当時欧州を制圧していたドイツに苦しめられていた、アメリカが参戦して共に戦ってくれることが、どうしても必要であった。真珠湾攻撃の報告を受けた英国首相チャーチルは、喜んで自身の日記にこう記載している。「孤独の戦いと、恐るべき緊張の後、真珠湾攻撃によって我々は勝ったのだ。英国の歴史は終わらないだろう。ヒットラーの運命は定まった。日本人に至っては微塵に砕かれるであろう」チャーチル首相は、この時アメリカ・イギリスの支援を頼りに、重慶で日本軍と戦っていた中華民国・国民政府の蒋介石総統に「これで国民政府は、連合国側の有力な一国となった。共に勝利に向かって戦おう」とエールを送っている。その蒋介石総統は膨大な日記を残しているが、日本との戦争を国際化」して、欧米の強い支援を引き出そうと、必死で方策をねっていた様子が詳しく記されている。真珠湾攻撃によるアメリカの大戦への参加は、蒋介石にとっては、抗日戦の最良の筋書きが完成したと感じた喜びの時であっただろう。 私は改めて、80年前の日本の敵基地攻撃が、アメリカの世界大戦参加を促し、連合国側の結束をより強固にしたかを知って、その及ぼした影響の大きさに驚いた。そして第二次世界大戦のきっかけを作ったのは、ドイツヒットラーの1939年9月のポーランド侵攻だが、米英ソ中の連携する連合国側と日独伊を軸とする枢軸国側で世界を分裂して戦った第二次世界大戦の本当の引き金を引いたのは、80年前の日本の敵基地攻撃であったことが分かり、今になって「大変なことをやってくれたものだ」との思いが湧きだしてくるのである。 今年の1月7日、日米外務・防衛担当閣僚会議(2国間2部門の会議で2プラス2と呼ばれる)が開かれ、台頭する中国を牽制し、日米で戦略を整合させ、共同の能力を強化し対処するという共同発表があった。日本はここで「敵基地攻撃能力」の保有の検討を進める意向を示した。共同発表にも「ミサイルの脅威に対抗するための能力を含め国家の防衛に必要なあらゆる選択肢を検討する」とあったが、私は中国の台湾への攻撃が現実味をもって、想定され、いよいよそれを見据えた日米連携が踏み込んだ形で、求められ始めたのを感じた。 今は「敵基地攻撃能力」といっても、軍事技術能力は格段に進歩し、80年前とは全く違ったものとなり、年々進化し続けているから、その技術を常に研究し、いつでも対応できる能力の維持は必要である。ミサイルでも、最近は極超音速ミサイルを北朝鮮がすでに発射している。また日本で新型高速滑空弾、アメリカで超音速滑空弾が作られていると言われている。さらに電磁波攻撃、その電磁波防衛バリアの研究も進んでいるとも聞いている。攻撃能力といってもどのような能力を保有すべきか、常に変化に対応した検討を続けねばならない。 私は今、日本を取り巻く安全保障環境は、80年前の緊迫した状態に、少しずつ近づいていっているように思っている。そんななか、戦時中に交換船でアメリカから帰ってきた人の話を聞いたことを思い出した。交換船は戦争が始まったため、母国に帰れなくなっている外交官や一般民間人を、それぞれの国が民間船で、中立的な場所に送り込み、そこで自国の船に乗り換えて、帰国させていた。日米間では2回行われた。私のいた今津国民学校では交換船で帰国したばかりの人を招いて、話を聞く会を開いた。その人は日本の真珠湾攻撃後、アメリカでは「卑劣な攻撃をしたジャップをやっつけろ」と街で叫んでいる人がおり、「リメンバーパールハーバー」という歌ができ、日本が南方の各地を攻撃したことを例え「蛸の足を叩き潰せ」という言葉までできて、アメリカ人の日本に対する戦意が一気に盛り上がった様子を語っていた。私はそれを聞いて「真珠湾攻撃は両方の国民を熱狂させているのだ。凄いことだ」と思ったことがある。 もう一つ思い出したのは当時の同盟国ドイツのことだ。今は亡くなっているが、私は戦時中7歳年上の母方の従兄と親しくしていた。早稲田大学在学中、海軍予備学生となり、大竹海兵団で予備情報将校になっていたが、この従兄からドイツのことを色々聞いた。彼はヒットラーの『マインカンプ』(我が闘争)を常に読んでいて、ドイツが第一次大戦惨敗のどん底から、いかに立ち上がって来たかを語ってくれた。そしてドイツが欧州、アフリカを制圧し、インド洋を制圧した日本と結び、アジヤ・欧州・アフリカ大陸は、枢軸国で抑えることができる。などと話してくれたことがある。 確かに、先の大戦初期、日本はインド洋を制圧し、フランス植民地だったアフリカ大陸南東のマダカスカル島のヴィシー政権(枢軸国側)と同盟を結ぶところまでは進展したが、その連携を阻害しようとする連合国側との戦いもあり、さらなる進展にはならなかった。が、私がこの従兄の話から今考えるのは、80年前のアメリカ・イギリスとの開戦決定時、ドイツの力を大きく信じ、同盟国ドイツが負けることはないと思っていた人が多かったのではないかということである。今の日本の同盟国はアメリカである。アメリカが負けることはないと思っている人は今でも多いと思うが、私は敵基地攻撃の能力の保有の検討に際して、同盟国の力を過信することは避けるよう、意思統一をしておいてほしいと今思っている。 1月7日の2プラス2では、「台湾有事」初期段階で、米海兵隊が自衛隊とともに沖縄・南西諸島に「機動基地」を置き、中国艦艇の航行を阻止する「共同作戦計画」にゴーサインを出した。自衛隊のミサイル部隊は奄美大島や宮古島に配置されていて、配備予定の石垣島を含めると約40ヶ所ある。私はアメリカとの共同作戦での、日本の敵基地攻撃能力の活用のあり方については、今こそ、事前の十分な討議と打ち合わせが必要と考えている。 歴史は繰り返す。80年前に苦悩して決定した当時の日本の指導者たちの敵基地攻撃が第2次世界大戦の引き金を引いたように、台湾有事に際し、アメリカとの共同作戦で敵基地攻撃の時期と方法を間違えれば、アメリカと中国の間の戦争を引き起こし、引いてはロシアとヨーロッパを巻き込む第3次世界大戦の引き金を引くことにもなる。 1941年12月8日。なぜ日本は堪忍袋の緒を切っての攻撃に追い込まれたのか、なぜ臥薪嘗胆の道を選べなかったのか。日本は今こそ、深く考えるべきときが来ているのではないだろうか。 (2022年1月15日)

天皇陛下の赤子(せきし)



                      天皇陛下の赤子(せきし)

 

8月15日。私はいつもこの日になると、戦時下の中学生時代を思い出す。私は昭和

19年の4月、住んでいた家の近くの甲子園にあった甲陽中学に入学した。当時の中等

学校は公立、私立を問わず、戦時中等学校令が施行されて、すべてが軍隊式になって

いた。戦闘帽、カーキ色の服に、足にゲートル(巻脚絆)を巻き、校門を入るときは隊

列を組んで、「歩調とれ」と号令をかけ「かしら左」で衛兵役の上級生に挨拶し、その後

運動場を隔てて「かしら中」と天皇の御真影のある校舎に向かって礼を捧げなければ

ならなかった。一人で門を入るときは、それを一人でやった。

 

朝の朝礼では、まず運動場に集まった生徒全員で次のような言葉を奉唱した。

 

「我等学徒は、天皇陛下の赤子なり、日夜聖旨を奉戴し、おおみ心に、沿いたてまつらん」

聖旨とは天皇のおぼしめし、命令のことであった。教育勅語の「一旦緩急アレバ義勇公

に奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」などは戦時下で第一番に守るべき聖旨であった。

そして、軍事教練が始まった。教練の教官は退役軍人の一人と配属将校の二人が担当した。

退役軍人の時間は、直立不動の立ち方、挙手敬礼の仕方、腕を強く振り足を高く上げて

の歩行訓練から始まった。彼は竹刀をばらした一片の竹の棒を持ち、少しでもやり方

が悪いと、すぐにそれで頭を殴りつけた。そしていった。「君たちは陛下の赤子である。

陛下の赤子である以上、私は君たちを殴ってでも教えこまなければならないと思って

いる」殴られると頭にこぶが出来た。それでも平気でまた殴った。その時は軍事教練で

殴られるのは当たり前と思っていたが、今考えてみると陛下の赤子だから殴らなければ

ならない、という理屈は確かにどこかおかしい。

 

配属将校は若い教官と年配の教官がいて、若い教官の時間は銃剣術があった、木銃を

構えて前進、突けという基本動作を教えた。教えている途中で突然私を指名して、校庭の

隅に「捧げ銃」をしたまま立っておれ、と命令した。私は一生懸命に銃剣術訓練をやって

いたつもりで、どこが悪いのか指摘も説明もないまま、1時間ほど「捧げ銃」のあと、

身体が吹き飛ぶほど殴られた。未だに私のどこが悪かったのか分からない。

 

殴るのは、配属将校だけではなかった。先生も生徒をよく殴った。授業に短い棒を

持ち込んで、質問に答えられないと頭を殴る先生。出席簿の部厚く広いファイルを

持ち上げて、振り下ろして殴る先生。元海軍に在籍した先生は海軍式に野球のバットに

似た精神注入棒で、生徒を立たせてその尻をひっぱたくのを得意とした。また上級生は

下級生を殴ることが、普通になっていた。服装が乱れているとか、生意気な態度を取って

いるとか、口実を見つけて、呼び出しておおっぴらに平手で殴った。生徒の親たちの中

には「ぜひうちの息子を殴りつけ、日本男児の魂を入れて鍛え上げて頂きたい」と学校

に申し出ることもあったと聞いている。

 

これは、私の入った中学だけではなく、私と同年配で他の中学へいった友人に聞いても、

当時は良く殴られたという。特に、戦局が危急となっていた昭和18年に、中等学校令

が発令し、5年の年限を4年として、教育に関する戦時非常措置方策が実施され、全国の

中等学校の軍隊化がさらに進んだときに一層殴る教育が激しくなったといわれている。

 

『日本沈没』の作家小松左京は、私と同じ昭和6年生まれだが、戦時中神戸一中での

散々殴られた青春のことを『やぶれかぶれ青春記』に書いている。教師と運動部の上級生、

一年上の上級生から「陸軍式」の殴りや海軍式の「一中精神注入棒」で殴られていた、

といっている。そのほか、教練の准尉の教官の厳しい「匍匐前進」訓練の時に「服が

破れる」「一着しかないねんぞ、どないしてくれるねん」などと、数人が声をあげた。

それを怒った教官から「言ったものは誰か」と追及された。言った数人で手をあげるはずが、

左京一人だけしか手をあげなかった。教官は5つのボタンが飛び散った位、服を引っ張り

引き回し、3つ4つ殴りつけて、教員室に連れていかれた。そこで担任の先生からも突き

飛ばされ、ゲートルのまま4時間半正座させられ、殴る蹴る、ごつい長靴で膝の上に乗られ

るなどの拷問を受けたという。左京はその後、第三高等学校に合格した時「くそったれ中学め!

担任め! ヤバンな軍国主義的な中学。それも、もうおしまいだ」といっているが、神戸

一中に限らず、この時期の中等学校は、どこも「鉄拳制裁」の嵐の中にあったのだったと

私は思っている。

 

私も動員中、絶体絶命の強い鉄拳制裁を受けるべき事態を引き起こしたことがあった。

空襲の日の翌日、エレクトロン焼夷弾の不発弾がいくつか、工場の横に集めてあったのを、

仲間3人でかってに持ち出して、変電所のテラスから下に投げおろし、爆発するかどうか

試してみたのである。そのうちの一つが爆発して、横にあった材木に火が付いて燃え上がり、

大騒ぎとなった。砂と水で消し止めたが、これこそ徹底的に鉄拳制裁を受けるべき事態

である。引率の教師は2年生全員の集合をかけた。「やった者は前へ」で私は進み出て徹底

的に殴られる覚悟を決めた。

 

ところがこの時教師は、連帯責任制裁方式を取った。戦時中良く行われた制裁方式で、

問題を引き起こした者が所属するグループ全員が、同じように制裁の対象になる。これは

教師の方から見ると、2年生全員を殴ることになり、殴る手が痛くなり大変である。教師に

よっては、自分で殴らず、二人ずつ向き合わせて、お互いに殴らせることも出来た。「もっと

強く殴れ」「加減をするな」と教師はハッパをかけておれば、良いのである。しかしこの時

の教師は、誠実に「殴り」に取り組んだ。2年生全員を一人ずつ殴っていった。2年生は

30人位いたが、並んで一発ずつ殴られた。私もこの時は一発殴られた。しかしそれだけで

終わった。その後、4年生のリーダーが、あまり関係ないのに「これは私の責任であります」

と自ら申し出て、殴られていた。

 

このように当時は13歳から17歳までの中等学校生に対して、天皇陛下の赤子と呼び、配属

将校による軍事教練が徹底され、殴って鍛える習慣や鉄拳制裁が普通になっていた。なぜそんな

ことになっていたのであろう。これはアメリカ軍の攻勢が、日本本土上陸となり、本土決戦と

なった場合の戦闘要員として、中等学校生も加わることになっていたからだろうと思っている。

当時の学徒は教育勅語の「一旦緩急アレバ義勇公に奉ジ」なければならない。急速に兵士に仕立

て上げられていたのである。実際に沖縄戦では中等学校生による鉄血勤王隊らが戦闘に参加し、

女学校生によるひめゆり部隊らが軍の看護に従事している。さらにその後、国民義勇隊法が制定

され、全国民の男子15歳以上60歳以下、女子17歳以上40歳以下を国民義勇戦闘隊に編入

させることが出来ることを決めている。そしてやたらに殴ったのは、戦闘に参加する場合、上官

の命令には絶対服従でなければならないので、日頃から、その命令絶対服従状態を作りだして

おくために、殴るのが一番手っ取り早い方法だったから、と思われる。

 

天皇から下された「軍人勅諭」に「下級の者は上官の命を承ること実は直ちに朕が命を承る義

なりと心得よ」とあって、「上級者の命令は、天皇陛下のご命令と思へ」と言われ、上級者への

絶対服従を強いられる。日本の軍隊内の階層と力関係の実態を書いた作家山本七平は『私の中の

日本軍』の中で、兵隊は失敗があれば殴られる。気に入らないと言われて殴られる。自分の失敗

が連帯責任なれば仲間たちも殴られる。として、殴り続けられていると「もうどうにでもなれ

といった諦めが奇妙な相乗作用となり、まるで催眠術にかけられたように、歩けと言われれば

歩き、殴れと言われれば殴り、靴の底や痰壺をなめろ言われればなめる」ようになると書かれて

いる。天皇陛下の赤子である中学生には、靴の底や痰壺をなめることまでは、命令されなかったが、

本土決戦になって、最後には命令一下、玉砕攻撃をして散ることを全く拒まない、また拒めない、

ところまで「殴って鍛える」教育によって命令絶対服従体制が徹底されていったのである。

 

神戸一中時代に散々殴られた経験のある小松左京は、その自伝のなかで、作品の『日本沈没』を

書き始めた動機は戦争で、本土決戦、一億玉砕で日本は滅亡するはずであったが、これは終戦で

救われた。(滅亡させてみたらどうなるかを書いてみたかった)といっているが、当時は「生きて

虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓の訓令があり、降伏して捕虜にもなれない状況下一億玉砕で、

皆最後の総攻撃で死んでしまったら、日本は完全に滅亡してしまうのではないかとふと思ったことが、

私にもあった。連日の空襲、艦載機機銃掃射に加え、原爆投下、ソ連参戦、本土決戦、そして玉砕

命令、その命令の絶対服従、で小松左京が「滅亡するはず」と考えた日本列島はどうなるのか、左京

が『日本沈没』を書こうとした気持ちが、私にも少し分かってきたような気がした。

 

殴る,蹴る、突く、胸倉をつかんで引っ張る。などの行為は「人の身体に対し不法に有形力を行使

すること」になり、今では刑法の暴行罪が適応され、犯罪行為となる。しかし76年前までの日本

では、陸軍でも海軍でも兵隊は殴られるのが当たり前であつたし、それが全国の中等学校にも

波及し「殴って鍛える」「鉄拳制裁」「愛の鞭を加える」などといわれてこれが当たり前のように

行われていたことは、今考えると、全く別次元の世界であり、驚くべきことだったと私は、しみ

じみと思うのである。

 

今でもたまに「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かえり

見はせじ」の歌や曲を聞くと、学校では殴られながらも、天皇のため、国ためなら死んでも

良いと本気で思い込んでいた、戦時中の自分の姿を想い起こすのである。

 

また「天皇陛下の赤子」という、今は使われない言葉が、頭をかすめるときには、赤子を鍛える

ことを「承書必謹」と信じ込んで、中学に入ったばかりの生徒達を「陛下の赤子なら殴って鍛

えねばならん」と、くそ真面目に、そして一心不乱に殴っていたあの初老の退役軍人の教官を

思い出すのである。

 

(2021年8月25日)