暁部隊(陸軍船舶司令部)

    暁部隊(陸軍船舶司令部)

              

 先の大戦末期、昭和19年秋のことです。阪神甲子園球場のごく近くにあった甲陽中学校に突然、陸軍の暁部隊が駐在することになりました。その時、私は甲陽中学に入学したばかりの一年生でしたが、学校では軍隊との同居状態となりました。校庭には、軍の炊事場や便所などが建てられ、教室の一部と、柔道場、剣道場は、全部兵隊の居住する内務班になってしまいました。正門や裏門にも軍人の衛兵が常時立ち、出入りをするときは、足をあげて「歩調とれ」で進み、頭を本物の兵隊の衛兵に向けて敬礼をするようになりました。私たちも毎日軍事教練でしごかれていたので、学校は兵営になり、まるで軍隊に入隊しているような状況になりました。

 昭和20年になり、上空をB―29の編隊が通過することがありました。警報が鳴り、私たちは分散して校庭の片隅に掘られている防空壕に入りました。(掩蔽がなく、掘られただけの溝状の穴)甲子園球場のスタンドに設置されていたとされる高射砲の発射音がたて続けに聞こえました。その時鉄帽をかぶった暁部隊の一人の兵隊が、運動場を駆けつけて来て「伝令、高射砲,急斉射中、破片注意、以上」と叫んで、次の壕目指してかけ去っていきました。この時中学駐在の暁部隊は、敵襲戦闘態勢に入って、校内の兵隊、学生が一体の体制となり、伝令によって、戦闘情報を伝えていたのでした。私も暁部隊と一緒に闘っているような思いになりました。

 戦時中は軍隊の内容や行動の目的などは、すべて機密事項で、暁部隊についてもどんな部隊で何をするのかなどは、聞くこともできませんでした。ただ私が知っていたのは、甲子園球場内の一部にも駐在している。浜甲子園の南運動場の建物にも、その建物が撤去されるまで駐在していた。そして、甲陽中学の駐在と同時に、香櫨園の浜近くにあった系列の甲陽高等工業専門学校の建物も軍の宿舎として使っている、ということでした。昭和20年の4月、2年生になった私たちは「甲陽学徒隊」という腕章を巻いて、学徒動員として工場で働くことになりましたので、暁部隊のいる学校へは終戦まで戻ることはありませんでした。そして、その後、暁部隊のことは私の脳裏から忘れ去っていました。

 戦後76年経った今年、令和3年の7月に暁部隊のことを詳しく調べて書かれた『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』が出版されました。ノンフィクション作家の堀川惠子さんが、膨大な文献の渉猟と綿密な取材により、かつての暁部隊の全貌を描き出していました。私は暁部隊のことが書かれた本と知って、早速購入して読み始めました。

令和3年の8月28日の朝日新聞の書評「著者に会いたい」にもこの本は取り上げられ「海軍でなく陸軍が船舶輸送を担う意外な経緯は本書に詳しい」として「戦時、日本は『ナントカナル』で突き進んだ。輸送の死活的重要性を熟知し、先を危ぶむ田尻(『船舶の神』とまで言われた船舶司令官)の声は届かず、直言すれば待っていたのは更迭である。耳に心地よい情報が上に集まり、さしたる吟味なく判断が下され、あげく国は破滅に向かう。昔の話と思えないのは、臨場感あふれる筆致のせいばかりではない」と福田宏樹さんの文が載せられていました。

この本から私が知った要点を取り上げてみますと、まず暁部隊というのは、帝国陸軍の海上での船舶輸送など、「海」にかかわった部隊をさし、総兵数は船員、軍属を含めて30万人にも及ぶ大きな組織でした。日清、日露戦争から先の大戦にかけて多くの兵員を送り出した中心の港、広島の宇品にその船舶司令部があり、その船舶司令部が統括した陸軍船舶各部隊は、船舶工兵隊、船舶通信隊、海上輸送隊などの機能別名では、機密上表面で名乗らず、各隊に与えられていた通称号の兵団文字符「暁」から「暁部隊」と、すべての関係部隊が呼ばれていました。

そして海軍ではなく、陸軍が船舶輸送を担当する端緒は日清戦争の3年前、明治24年にさかのぼります。当時参謀本部では、陸軍の軍隊を船で外地に運ぶ輸送任務を海軍が担当してほしいと希望したのですが、当時の海軍は諸外国に伍するだけの軍艦を揃えるために必死になっていて、軍隊輸送の仕事は海軍の任務ではないと拒んだのです。ところが陸軍には「自前の船」は一隻もなく船員もいない、そこで行われたのが「民間船のチャーター」いわゆる「傭船」でした。陸軍には操船のできる船員もいませんから船体と船員を民間から借り受けるのです。そして、この形が陸軍の船舶徴用の原型となり、昭和の太平洋戦争の終わるまで続けられることになったのです。

 このようにして陸軍の船舶輸送を取り扱うようになった、宇品の陸軍船舶輸送司令部に、後で「船舶の神」と言われるようになる田尻昌次が大正8年に赴任するのです。その田尻中佐は、船舶班長に就任して民間出身の技師市原と組んで、陸軍の足となる大発動艇(大発)の開発に成功するのです。さらに、装甲艇、高速艇、特殊発動艇など様々な陸軍の舟艇を完成させるようになりました。そしてそれ等を操船する「船舶工兵」を新設して、「船舶兵学校」と言われる「船舶練習員制度」を創設しました。これらの舟艇や兵員は昭和7年の上海事変で揚子江右岸の上陸作戦に大活躍しました。そして、大発や小型の小発など合わせて44艇を一度に収容できるようになる巨大な舟艇母艦も作られるようになり、田尻は日本陸軍の船舶輸送の強固な体制をつくりあげ、船舶輸送司令官となるのです。昭和13年田尻は中将にまで昇格します。その頃から周りを海に面した海洋国家日本が、深刻な船舶不足状態となり、日本全体の物流が停滞してきているのを田尻は感じ始めました。

「軍の用船を解除して、船を国内の輸送業務に使わせてほしい」という歎願が連日のように寄せられるようになりました。日中戦争が進行し船舶の軍需が急速に増えたのですが、同時に石炭、鉄鋼、食料などの輸送に必要な民間の船舶需要も増え、船舶不足となり、日本の国内の物資不足が深刻なものとなりつつあったのです。そんな状況の時、重要な資源を東南アジアに得ることに活路を求めようとする「南進論」が重要国策として決定されてもいたのです。そこで、船舶輸送の司令官として、田尻は捨て身の意見具申をします。「民間の船腹不足緩和に関する意見具申」で、相手は陸軍中枢に止まらず、厚生省、大蔵省、商工省などの全ての省に船腹不足を緩和するための膨大な業務改善を求めた建白書でした。この意見具申は運輸輸送部門を軽視する、陸軍首脳からは、いたずらに船腹不足の危機感をあおり、「南進論」への牽制をしているとも受け取られ、田尻は厄介者払いともいえる国策会社への顧問就任を勧められます。折しも宇品の運輸部の倉庫の火災があり、倉庫4棟が全焼、3棟が半焼しました。そして陸軍中将田尻昌次は諭旨免職となってしまったのでした。これは倉庫火災の引責辞任という形ですが、実際は田尻を排除して、切迫して強く訴えている船舶輸送部門の建白書を葬り「南進論」に突き進む巨大官僚組織、そして硬直化していく帝国陸軍の体質をも照らし出しているもので、今の官僚組織にも通じることだと、この本『暁の宇品』では示唆しています。

 アメリカ・イギリスとの戦争が始まり佐伯文郎船舶司令官が着任し、戦線は広がりますが、やがて、田尻の心配した通り、船は足らず船を作る資材もないという状況となります。そして徴用して南方に送った船の多くがアメリカの潜水艦の餌食となり、船員の犠牲者は突出して多くなりました。佐伯司令官は船員の身分について「少なくとも軍属」として「戦死の場合は軍人同様の取り扱い」をしてほしいと陸軍省に要望を重ねています。船員の戦死者率は陸海軍の軍人の戦死者率を大きく上回っていたのでした。そして、アメリカの侵攻が進み日本の輸送の護送船団は護衛艦が付いても対潜兵器の立ち遅れと戦術の立ち遅れから手も足も出ず、護衛艦もろとも撃沈される惨劇が続いて日本の船舶の保有は危機的な状況となってしまうのです。

 戦局は危急となり、船舶司令部(暁部隊)は輸送から日本本土の海岸防衛に転換してゆきます。そして木製のモーターボートに爆雷を積んで敵艦船にぶつかる「特攻艇マルレ」が造られ、編成された「陸軍海上挺進戦隊」が、特攻作戦を行うようになりました。そして昭和20年8月6日原爆投下。爆心地から離れていた宇品の佐伯船舶司令官は、自ら率先して、船舶部隊と共に、広島市近郊の陸軍全部隊を配下にいれて、救護体制を構築し、自らの判断と責任で全力をあげて、全広島市民の救援、救護の指揮を取ったことが『暁の宇品』に書かれています。

 

 私は『暁の宇品』を読んで改めて、先の戦争末期の国内の深刻極まる物資不足、特に本当に食べるものが一切内地の街から消えて無くなった体験を思い出しました。大戦の始まる前に、田尻船舶司令官の建白書を無視して更迭、船舶輸送力の実状を軽視し「なんとかなる」と南進、大戦に突入していつたことが、深刻な事態を招いた原因であることが良く分かりました。作者の堀川惠子さんはあとがきに「本書で繰り返し問われたシーレーンの安全と船舶による輸送力の確保は、決して過去の話ではない。食料からあらゆる産業を支える資源のほとんどを依然として海上輸送に依存する日本にとって、それは平時においても国家存立の基本である」と書かれています。

 

 戦争末期に甲陽中学に駐屯してきた暁部隊については、最近私が、ネットで兵庫県の軍事遺跡を調べていて分かったことですが、昭和19年に日本の海岸防衛のために新しく編成された、陸軍船舶砲兵団司令部に所属する船舶情報連隊という部隊でした。大阪湾の海岸防衛と共に、他に甲子園球場の三塁側アルプスの下にあった室内プールを接収し、「対潜音響研究所」としていたことから、敵の潜水艦の微妙な音響を聞き取り、攻撃する新兵器の研究もしていたと思われます。

 そのため、駐屯部隊の将校の中に当時の有名な音楽家がいたのです。フランス帰りのピアニスト・ピアノ教育家、井口基成もいましたが、私がよく覚えているのは、バス歌手で有名な牧嗣人でした。軍刀を下げ足早に校庭を通りすぎる将校の中に、少し小太りで、私たちが敬礼をすると、ニターと笑って返礼をする将校がいました。その将校の牧嗣人が、戦争が終わり暁部隊の撤収した後、学校に残り甲陽中学の音楽の先生になったのです。

 そしてある日、全校生徒が講堂に集まって牧嗣人先生の独唱を聞く催しがあったのです。

タキシードを着た牧嗣人が最初に歌ったのが「ボルガの舟歌」でした。「エイコーラ、エイコーラ、もひとつエイコーラ」最初は低い、遠くからの掛け声、それが次第に近づいて大きくなります。「アイダダアイダ、アイダダアイダ」大迫力の圧倒的な声量でした。次は「蚤の歌」。「むぅかーし 王様ぁー 蚤を飼ぅー ワッハァハッハ ワッハァハッハ¦¦」で始まるこの歌はムソルグスキー作曲の戯曲『ファウスト』で悪魔メフイストフェレスが歌う有名な歌ですが、ゼスチャーたっぷりに大声量で歌いまくる元暁部隊船舶情報連隊将校の姿に、全く変身したプロのバス歌手牧嗣人の本来の姿を目の当たりにした気がしました。

 軍歌で育ち、軍歌で明け暮れた軍隊の時代は今ここに確かに終りを告げたことを私はこの時、強烈な歌声によって心から実感していたのでした。

(平成3年9月28日)