小川哲「地図と拳」と満洲

   小川哲『地図と拳』と満洲


 

 

今回、第168回直木賞を受賞した小川哲の『地図と拳』は「満洲」の一都市として設定

された「李家鎮」の半世紀にわたる興亡を通して、戦争に至る構造を描いた近代の歴史小

説である

 

1986年(昭和61年)生まれの作者、小川哲は語っている。「戦争はいけない。では

なぜ日本は無謀といえる、先の大戦に突き進んだのか」そして「親も戦後生まれの世代

からしてみれば、歴史の授業で出てくる第2次大戦は謎だらけ。敗戦に至る過程を一から

知りたかった。満洲を書くことが20世紀の前半の日本について書くことの縮図だと思った

のです」

 

私は1931年(昭和6年)生まれである。生まれたその年に満洲事変がおこり、翌32

年に日本軍は万里の長城の東北部をほぼ制圧し、清国の最後の皇帝だった溥儀を皇帝に

据えて満州国を作り上げた。これを中華民国政府が国際連盟に「侵略されている」と提訴

した。連盟は満州国を国として認めず、日本は連盟を脱退し、軍備の拡大を批判されて同じく

脱退したドイツと結び日独伊3国軍事同盟を締結した。世界は2分され第2次世界大戦へ

と進展していった、と理解している。

 

当時満洲国建国奉祝行事は、日本の各地でも行われ、黄色に4色を模した満州国の国旗は

私が生まれて初めて見た外国の国旗として脳裏に焼き付いて残っている。幼稚園に入った

ときは「日本さくら、満洲は蘭よ、支那は牡丹の花さかり、花の中から朝日が昇る、

アジアよいとこ楽しいところ」と歌を歌い、満洲国はそこに住む、満洲民族・漢民族・

モンゴル民族・朝鮮民族・日本民族の「五族協和」によって素晴らしい「王道楽土」の国を

打ち立てようとしていると、教え込まれた。溥儀皇帝が来日して、昼食休憩のため「甲子

園ホテル」(現武庫川学院甲子園会館)へ向かうとき、甲子園筋に並んで満洲国旗を振って

大歓迎をしたこともある。当時の日本人の多くは新しくできた満洲国と、欧米の侵略を排し、

アジア人によるアジアの共栄圏ができることに、大きな夢を託していたことは事実である。

「五族協和」もアジアの共栄圏も決して悪いことではない、当時としては日本の輝く理

想だった。しかし争いを治めきってリーダーシップを発揮して平和を打ち立てる本当の力

が日本には足りなかった。「支那大陸を侵略している」とされ、経済制裁としてアメリカ・

イギリス・オランダなどからの石油や屑鉄などの大切な資源の日本への輸出を完全に

止められ、大戦に追い込まれた。

 

作者の小川哲はさらに語っている。「新しい国家づくりの理念や理想は必ずといっていいほど

失敗する。その失敗の正体を知りたかった」そして「失敗の歴史は、当時の人々が無能だった

からでもない。一人ひとりの人間が良かれと思って選択したことが、思わぬ歴史のうねりに

つながることもある。現在を生きる我々にとっても他人事ではない。フィクションはそんな

自覚を促すことができると思っています」

 

これを読んだのは、作者の直木賞受賞が決定する前、朝日新聞の「考える」欄に書評

の形で掲載されたときだったが、私は1986年生まれの作者が、当時の人々の国家

づくりに「無能だったからでもない」と言い切っていることに驚いた。「これはよほど

満洲国建国当時のことを研究している人に違いない」と思って、すぐ電子書籍で『地図

と拳』を購入した。そして末尾の「参考文献」欄を見ると、内外に及ぶ満州国関係の

書籍、148冊が6ページにわたり記されていた。「これを全部読んでいるとしたら、

この作者は確かに大変な『満洲国ツウ』になっているのに違いない」と感じた。

 

物語は1899年(明治32年)夏、松花江(スンガリー)をハルビンに向かう船上

の二人の日本人から始まる。一人は茶商人に扮してはいるが、日本陸軍の参謀本部から

満洲のロシア軍の情勢を探る特別任務を帯びた軍人の高木であった。当時日本とロシア

が戦争になれば必ず満洲がその戦場になるという緊迫した情勢だった。もう一人は支那

語とロシア語の通訳を務める21歳の大学生細川だった。細川は船上で漢人の王(ワン)

から「桃源郷があると騙されてきた奉天の東にある李家鎮(リージャジェン)に住んで

いるが、そこには燃える土がある」という話に注目する。石炭資源が豊富にあるところ

かもしれないからだ。

 

李家鎮を開発して頭目となったのは李大綱(リーダーガン)だった。彼の言葉によると

その時の状況は「日本との戦争に負け武力のないことが発覚してしまった清国の朝廷は、

外国の脅しを断ることが出来ない。だから外国の鬼子たちにこの国の領土が切り刻まれ

ているのだ。日本鬼子(リーベンクイツ)、ドイツ鬼子、フランス鬼子にイギリス鬼子、

そしてロシヤ鬼子だ」そんな空気の下、1900年(明治33年)には外国勢力を排

除しようとする義和団の変が起こり、日本も北京に出兵する。

 

ロシアは満洲の鉄道網を拡大して朝鮮半島までつなげる構想を持ち、その沿線地区の

住民をキリスト教の布教により治め、地理を調べさせる意図で神父クラスニコフを派

遣し李家鎮に教会を建てる。そのロシアの勢力を利用して、李家鎮を一層近代的な都

市にしようとする、孫悟空(ソンウーコン)を名乗る男。結社「神拳会」の特訓を受け

鉄の身体になっているというその男に、李大綱は殺され街の統率権を奪われる。

 

1904年(明治37年)日露戦争が勃発、旅順総攻撃が始まり、その翌年初め旅順が

陥落し、奉天大会戦となる。高木は歩兵第六連隊の大尉として沙河の戦闘で突撃命令

により、敵の本陣の支那屋敷に突入し、敵の隊長と刺し違えて戦死してしまう。細川は

支那語の通訳の実力者として軍服を着て参加していた。そして、今やこの地方の実質統

率者になっている孫悟空と、拘束されていた日本の輸送隊の解放についての交渉に決着

をつける。そして石炭発掘が見込まれ将来炭鉱都市として本当の桃源郷になる夢の街と

して、李家鎮の名前を仙桃城(シェンタオチョン)に変えることを孫悟空と同意する。

 

1906年(明治39年)日露戦争の勝利によって、日本はロシアから獲得した満洲南部

の鉄道とその付属事業を経営するために南満州鉄道会社(満鉄)を設立した。満鉄は単

なる鉄道会社ではなく、都市・炭鉱・製鉄所から農地までも経営し、独占的な商業部門も

持ち、さらに大学以下の教育機関・あらゆる部門の研究所・地図測量調査部門なども擁

するようになっていった。まさに満洲地区における半官半民の日本の国策会社となった。

日本租借地の関東州および南満州鉄道付属地の行政をたずさわるのが関東都督府であり、

その陸軍部が関東軍とよばれ、鉄道沿線に配置され軍事力を持つようになるのである。

 

東京帝国大学で気象学を研究していた須野の下に、満鉄の歴史地理調査部から、満洲で

ロシアの使っていた地図についての調査依頼があり、地図に興味のある須野はそれを

受ける。満鉄調査部のその担当者が、日露戦争で通訳をしていた細川に代わり、細川と

須野の交流が始まる。細川は須野に「君は満洲という白紙の地図に、夢を書き込むのだ」

といって、満鉄に入社して満洲の新しい地図を作ることを薦め、須野は麻布にある満

鉄の東京支社に勤めることになる。そして、1911年(明治44年)細川の世話で

須野は沙河の戦いで戦死した高木の未亡人高木慶子と結婚して、やがて明男という息

子を得る。

 

須野が満洲に単独赴任するのは、明男が生まれてすぐの時だった。そのとき、満州は

まだ日本の土地ではなかったし、そればかりか支那の土地でもなかった。辛亥革命に

よって清が滅び中華民国が誕生していたが、彼らも広大な満洲の統治に苦心していた。

満洲はまだ誰のものでもなかった。広大な白紙の地図を馬賊がゲリラ的に埋めていた。

勢力圏は目まぐるしく入れ替わった。日本が、支那が、そしてロシアや諸外国が、

有力な馬賊を懐柔しょうと試み、それに成功したり、失敗したりしていた。

 

私は満洲で馬賊が乱立していたこの時代、日本で「馬賊の歌」が流行していたことを

思い出した。「俺も行くから君も行け、狭い日本に住みあいた。海の彼方に支那がある、

支那にゃ四億の民が待つ」実際に、混迷している満洲の大陸を「何とかしてやらない

といけない」という義侠心と新天地を開くという夢を抱いて、当時満洲に渡り放浪

する日本人の壮士が多くいた。中には本当に馬賊の頭目となった人たちもいた。「御国

を出てから十余年、今じゃ満洲の大馬賊。亜細亜高嶺の間から、繰り出す手下五千人」

と歌われていた。

 

1928年(昭和3年)馬賊からこの地区の軍閥にのし上がった張作霖が爆殺され、

1931年(昭和6年)満州事変が起こり、翌年満州国建国祝賀の会がこの仙桃城

でも開かれた。この街の炭鉱は拡大し、日本人向けの高級住宅や病院、プール、

スケートリンクまでできていた。李家鎮時代からの住民は中心部から立ち退かされて、

近くの鶏冠山の中腹に村落を作って住んでいた。

 

明男は東京帝国大学の建築科に進学し、満洲の仙桃城都邑計画の学生随伴員に選ばれ、

そこで彼は地元有力者の孫悟空の娘だが、父娘対立して、抗日運動をしている孫承琳と

知り合う。知り合った日は日本の国策企業満鉄の経営する仙桃城炭鉱を抗日の紅槍会を

名乗る馬賊らと共に、襲撃炎上させる計画日だった。一部建物を爆破し日本人5人が

死亡するが、炭鉱の全面炎上とはならず。リーダー役の一人だった李承琳は撤退を命じ、

彼女は何とか無事逃走する。しかし日本の憲兵隊は匪賊が立ち寄ったとされる村落を

襲い報復虐殺をして、村落を焼き払う。明男は都邑計画のため村落を訪れていて、

巻き込まれ憲兵隊に逮捕ざれてしまう。満鉄の細川は身元引受人となって、明男を日

本に帰す。その後明男は徴兵されるが、満鉄に勤める父の要請で、司令部勤務となり

満洲の仙桃城の派出所で都市計画や建築にたずさわることになった。

 

1937年(昭和12年)の盧溝橋事件は支那事変となり、1939年(昭和14年)

ノモンハン事変)があり、1941年(昭和16年)アメリカ・イギリスとの大戦に日本

は突入した。仙桃城には「千里眼ビルディング」などが建ち発展してはいたが,明男は仙桃

城都邑計画の完成に没頭した。細川の進めるこの計画は「五族協和」の趣旨に沿って、地元

住民と一緒に住む街づくりであり、夢のある「王道楽土」建設であったからである。しかし

ながらやがて、大戦の戦局の悪化に伴い、夢の計画は中止に追い込まれる。細川の作っていた

「戦争構造学研究所」の「地政学」も仮想内閣による「政治研究」も止まってしまう。

そして1944年(昭和19年)冬、仙桃城は八路軍から激しい攻撃を受ける。抗日の孫承

琳も一緒に攻撃に参加するが、市街戦で日本軍に追い詰められたところを父親の孫悟空に助

けられる。1945年(昭和20年)夏、ソ連軍が参戦して満洲に攻め込んできた。大本営の

方針は満洲の放棄と朝鮮の死守だった。仙桃城の日本軍はこの街からの引き上げを開始し、

街はその後、ソ連兵の略奪にさらされた。そして敗戦。最後まで神州不滅を信じ込んでいた

憲兵隊長は自殺した。葫蘆島(コロトウ)を出たアメリカの復員船アビゲイル号は、佐世保港

を前に錨を下ろし5週間も停泊したままだった。復員兵を満載していたこの船は、船内でコレラ

患者が出たために、日本を前に上陸できなかったのである。この船に明男が乗っていたが途中で、

やつれた姿の細川も乗船していることが分かった。明男は佐世保港に上陸する直前に日露戦争

で戦死した高木大尉の軍刀を「もういらない」と海に向かってほり投げた。

 

この物語は敗戦から10年後の1955年(昭和30年)の春、東京で戦災復興都市計画の仕

事をするようになった明男が、廃墟のようになっている仙桃城を訪れ、公園の広場で、今は亡き

クラスニコフ神父の書き溜めた古い昔の李家鎮の地図の書かれた模造紙をひろげている孫承琳と

出会うところで終わる。風が吹き、神父の地図が宙に舞い飛んで行く。

 

 

私は国民学校の教科書で、1932年(昭和7年)建国した満州国の各都市は当時の最新の都市計

画で近代都市に生まれ変わろうとしていると教わった。そして国の中心の路線を国際級の豪華客車

の特急アジア号が走り、奉天(今の瀋陽シエンヤン)の東の都市撫順(フーシュン)には世界最大

級の露天掘の石炭の炭鉱があると書かれていたのを思い出した。私もそうだが、建国当時、日本人が

もっていた満州国のイメージには、「新しい」「希望」「期待」「夢」「輝き」が必ずどこかに含まれて

いたように思う。今は満州国といっても、歴史の中にあつただけの国で「傀儡国家」「偽満州国」

といわれて何の感慨もない。それは当然なのだが、この小説では、当時の満洲国に対する多くの人

たちのそれぞれの想いとイメージの書き分けが上手くできていた。作者小川哲は第3人称の視点で、

新しい街づくり国づくりに夢を追う日本人、そして外国人を排除しようとする古い住民。大陸こそ

命を捨てる戦場と思い込む日本軍人、そして日本を憎む抗日集団や八路軍。それぞれの想念を描いて

いた。私はそれを読んで、立場の異なる色々な人の想念が重なり合い、交わり合って、大きな渦と

なり力を持ち、歴史は作られていくのだ、ということに改めて、思いを深くしていた。

 

2023年(令和5年)3月4日